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毎朝会う人がいる。
同じ時間、同じ場所で。
彼は左、私は右。
挨拶も、目も合わせたことも無いけれど、
決まって左と、右にいる。
そのことに気が付いたのは、ちょうど昨日のことだった。
「(まずいまずい)」
その日は朝から運が悪かった。
起きて早々にコーヒーの粉を全てぶち撒け、
むせるほどの香りの中必死に掃除。
ようやく片付いたかと思えば、
コーヒー用の熱湯が暴れて右手にかかる。
あまりの熱さと驚きでマグカップから手を離すと、
せっかく片付けた床には熱湯と、割れたマグカップの悲しい姿。
きっと星座占いを見たなら、最下位だったのだろう。
そのくらい朝から運が悪かった。
週の半ば、水曜日。
まだまだ踏ん張り時なのに
何故かもうへとへとで、
それでも労働には赴かないといけなくて。
コーヒーは諦めることにして、
割れたマグカップはとりあえず踏まないように
隅へと寄せた。
帰ったら掃除機をかけよう、
忘れないようにしないと。
そんな思いが半分、
遅刻しそうな焦りが半分。
こんな日に限って眉が上手く描けなかった。
こんな日だからなのかもしれない。
焦れば焦るほどスマホを忘れ、
カギを忘れ、
靴が上手く入らず、
玄関を出てからゴミ出しの存在に気が付いた。
もはや面白くなってきた。
どうしてこんなに不運が重なるんだろう。
部屋を出たのはいつもより10分も遅かった。
朝の10分はかなり致命的だと思う。
不安だからいつも余裕をもって出勤していて、
遅刻にならない範囲ではあるけれど
それでもやっぱり恐ろしかった。
目立ちたくない、
何て説明しよう?
不運は正当な遅刻の理由になるのだろうか。
不安と、やけくその中
駆け足で駅まで向かう。
自他共に認める運動音痴に走らせるな!
そんな叫びはきっと、
今朝盛大に空を舞ったコーヒー粉に
向けられていたと思う。
へとへとな上にへろへろで辿り着いた駅には
人がいなかった。
それもそのはず、
いつも乗る時間の電車はついさっき出てしまっている。
次の電車に乗れば出社時間には間に合うが、
いつもと違う人の少なさがなんだか不気味で怖かった。
どくどく、どきどき。
いつも以上に強く脈打つ心臓を、
細く長い呼吸で密かに落ち着かせる。
私は基本目立ちたくない。
目立つと、どうしていいか分からないからだ。
あからさまな深呼吸では目立ってしまう。
ああ、あの人走ってきたんだ。クスクス、なんて。
『まもなく電車が到着します』
いつもと違う時間に、
いつも通りの聞きなれたアナウンス。
釣られるようにして視線を上げると、
丁度改札からの階段を上ってくる人の頭が見えた。
すっからかんの駅のホームに第二村人。
どこか救われるような気持で視線を元に戻すと、
彼は私の前を通り過ぎ、少し離れた左側に立った。
「(ああそうだ)」
いつも、私の左側、その位置に居る人だ。
いつも同じ時間、
同じ場所で、
同時に車両に乗り込む人。
挨拶はしたことがない。
目も合わせたことがない。
お互い恐らく出社の為にここにいて、
お互い目的地までただじっと時を過ごし、
お互い、別々の駅で降りていく。
会うのは平日の朝、ほんのひと時だけ。
多分みんなだいたいの乗車位置が決まっていて、
だからいつも空いている席の場所が同じで。
そこを目掛けて乗車しやすいのがこの3番乗り場。
彼はいつも私より先に居て、
いつも少し眠そうな顔で立っている。
もはやお馴染みの光景過ぎて意識していなかったが、
いつもと違って周りに人が居ない分
彼だけに意識が集中して、いつもそこに居たことを思い出させた。
「(この人も家を出るのが遅くなったのかな)」
次の電車が来るまであと数分。
周りの人も少しずつ増え始めて、
またいつもの光景に戻っていく。
いつもと同じ場所、少し違う時間。
いつもと同じ位置に、いつもと同じ私と彼。
挨拶も、目も合わせていないけれど、
どこか安心を感じている私がいた。
『黄色い線までお下がりください』
よく響くアナウンスが電車の到着を告げる。
ごおお、と激しい音を立て駅のホームへと入ってくる電車。
割と危なく感じるスピードなのに
今日も上手にぴったりと止まって、
開いたドアから乗り込むといつもの席は埋まっていた。
そういう時、私は人の前に立つ。
嫌がらせではない。
通勤半年にして編み出した私なりの秘策なのである。
学生時代は出入り口のそばが正義だった。
ここしか勝たんと思っていた。
でもいつだったか、人の波に押されてしまい、
人の前に立つことになった時、
存外居心地が良いことが分かったのだ。
まあまあな田舎の恩恵でもあると思うが、
通勤時間でも人につぶされることのない車内は
出入口よりも人の前の方がゆとりがあって快適だった。
鉄のポールに掴まるよりも、
電車の動きに合わせて動いてくれるつり革の方が
快適であった。
だから私は席が埋まっている時、
人の前に立つ。
決して嫌がらせではないのだ。
立って乗車するのは久々だった。
これも不運の一部か、とも思ったけれど、
つり革に掴まり外の景色を眺めるのは
案外嫌いじゃなくて、
そこまでいやな気持ちにはならなかった。
何より無事電車に乗ることができてよかった。
あとはただ揺られて、また今日が一日、始まるのだ。
そうして、ほっと一息ついていたから、
気が付かなかった。
左の彼がどこに行き、
そしてどこを見ていたのかを。




