表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/59

第51話 ポニーテールは恋愛成就の夢を見るか

「好き。ずっと、ずっと前からね」


 繰り返される言葉。声は潤んでいる。


「千波、」


「こら。最後まで聞きなさいな、あんたの悪いところよ」


 優しい声で窘められるのと同時に、伸びてきた人差し指が唇に触れる。夏にしては冷たいそれは、彼女の言葉に込められた温度とは真逆で。


 伏し目がちなところも、穏やかながら芯の通った声も、暑さのせいではない頬の紅さも、全部全部初めて見るもので。

 どくんっと跳ねる心臓が内側から胸を打っている。


「優しくて不器用な、いつも風に揺られているみたいに穏やかな気持ちにさせてくれる立野が好きよ、だから」


 信号はもう青なのに身体が動かない。


「だから付き合ってほしいです。この先も私と一緒にいてほしいの」


 一息で言い切った千波は目を閉じた。


◆ ◇ ◆ ◇


 千波ちなと立野圭は同期である。

 入社式の時から今日に至るまで、数を減らしてきた同期の中でなんとか社会を生き抜いてきた。


 小学校から大学まで、どの期間よりも長く一緒に居続けた彼女とは、家族のような絆が生まれてしまった。

 だから多少の無理や無茶振りだって笑顔で、とまではいかないが引き受けられる。


 では、真っ直ぐな恋愛感情までをも受け取れるだけの広さが、俺の心にあるのか。


 いや、そもそも立野圭は千波ちなの気持ちに気付いていたのか。

 答えは……Yesだ。しかし、それは限りなくNoに近い。半分希望であり、絶望であり、願望だった。


 常識とかいう人でなしに、この社会とかいう大空へパラシュート無しで放り込まれて数年。

 装備は身につけていなかったが、確かに隣に同じく空を舞う人間はいたのだ。

 しかし、彼女は仲間であって恋人ではなかった。


 思うに恋人とは、既存の価値観を擦り合わせて譲り合うものではなく、ぶつけて新しく作り上げるものだ。

 だから彼女とは……。


 有り体に言うと、千波ちなとはありとあらゆる感覚が近過ぎた。

 食の好みから文化的嗜好、果ては仕事の進め方まで。

 二本の線は、平行に近ければ近いほど交わるのも遅く、一度交わればゆっくりと遅効性の毒のように乖離していく。


 彼女は自分を誰かと比較しなかった。千波ちなという人間そのものでぶつかってきたのだ。

 であるならば、ならば正面から応えなければ失礼である。

 「誰かの方が好きだから」「誰かの方が自分には合うから」「誰かの方が……」

 そんな腑抜けた理由で断ることはできない。

 この数年間、舞台の上で共に「社会人(与えられた役割)」を演じ抜いた相方なのだから真っ向勝負で。


 既に社会規範という糸に絡め取られてしまったアラサーの人間が、他人に感情を押し付けるのには勇気がいる。


 だから俺も勇気を持って千波に臨まねばならない。

 それが礼儀というものだから。


◆ ◇ ◆ ◇


 温い風が意識を現実に引き戻してくれる。


「ごめん、千波。その気持ちには応えられない」


 視界が滲む。これだけ自分のことを考えてくれた人が、一番近くにいたとしても。


「仲のいいお前と、価値観も感覚も近い千波とずっと一緒にいられたら幸せなのかもしれない」


 今度は俺の方から一歩前へ踏み出す。これまで彼女が幾度となく勇気を持ってそうしたように。


 まぶたが開いて、薄い水分の膜が張った瞳がこちらを見つめる。

 こんなに近くで見たことのなかった彼女の目は、「綺麗」という言葉で表すのすら勿体ないくらい澄んでいて。


「でも、だからこそ恋愛関係にはなれないんだ。千波は俺の大切な友達だ。これからもずっと」


 たっぷり数秒、体感は永遠にも感じられた静寂が夜の街を覆う。

 世界に二人しかいないような錯覚に襲われる。


 口を一度開いて閉じて、千波は震える唇をもう一度動かした。


「そうやって誰とも比べずに私のことを見てくれるあんたが大好きだったよ」


 隣からふっと熱が消える。


「今日は楽しかった、ここまででいいわ」


「いや、せめて駅まで……」


 こんなぼろぼろの顔の女性を一人で帰せるかよ。

 自分のせいだし、どの口が言ってるんだとは重々承知だが。


「ほんっとにおばか。泣いて帰るから一人にしろって言ってんの」


 ぽこんっと肩に飛んできた拳はいつもより弱々しく、しかし反対に心に大きな衝撃が走る。

 ここまで言われてしまえば引き下がるしかない。


「……ありがとう、ごめんな。ちな」


 何もかもを込めて呟く。

 これまでの過去から続く今まで、二人の間に起こりうるすべての痛みは俺が背負う。

 自分のことを好きだと言ってくれた女性一人、幸せにできないだめな男ができる最大の贖罪。


 それすら甘い罰だと、エゴでしかないとしても、千波ちなが主演の演目から俺が降りることになったとしても。

 彼女が許すのならば、友人でありたいと願うばかりだ。


「最後にあんたから名前を呼ぶのはずるいって……これじゃあ私が悲劇のヒロインみたいじゃない」


 頬に一筋だけ伝った雫は、この真っ暗な空を埋めつくした花弁よりも、昔の名作をして夏に相応しいと言わしめた満月よりも。

 あぁ、この世のどんな景色よりも美しかった。

良いところがあるから愛してくれる人と、悪いところがあるけど愛してくれる人。

あまりにも近いと、逆に見えなくなる。

では、見えないこととはつまり不幸と言ってしまっていいのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ