第50話 エチュード④
俺の隣から彼女がいなくなってから数分。
「ただいま」
既に空は鮮やかな花々で彩られている。でも一人で見るそれは、どこから味気なくて。
隣にしゃがみこんだ千波は、なんだか満足気な顔をしていた。
まるで一勝負終えてきたかのように。
「おかえり、始まってるぞ花火」
声を張り上げなくても聞こえるほどの距離。
さっきよりも近くなってないか?
「ん、すごい迫力ね」
甘い声が左側から耳を伝って脳を揺らす。
こうやって話している間にも、上がっては爆発を繰り返している。
やがて区切りなのか、頭上で一際大きい花火が上がった。
役目を終えた火の粉たちが水面目掛けて桜の花びらのようにひらひらと舞い落ちる。
余韻すら美しい。
視界を埋める残像、少し置いて歓声。
オーケストラと同じだ。終わってから一瞬、観客たちは耳に残った最後の一音の幻聴を楽しむのだ。
「綺麗〜〜!こんなに近くで見たのなんて何年ぶりだろ」
「本当にな。中々理由がないと来ないもんな、花火大会とか」
「例えばかわいくてかわいい同期に誘われるとか?」
「そうそう……って自分で言うなよ」
ぼーっとしていたから図らずもノリツッコミみたいになってしまった。
「今のはあんたの感想を代わりに言ってあげただけ〜」
「無茶苦茶だ!全部俺が勝手に言ったことにされるじゃねぇか」
地面についていた手に彼女の手が重ねられる。夏にしては冷たいそれには気付かないふりをしよう。
「そりゃあね〜私はあんたのこと、誰よりも知ってるから」
ぽろっと彼女が落とした言葉は、俺の心の深く、奥深くに沈んでいく。打ち上がる花火とは真逆に、それこそ海底に落下する豪華客船のように。
俺のいないところで千波と瑚夏さんが何を話していたかはわからない。穏やかじゃない千波の様子から察するに、楽しい話ではないだろう。
きっと聞かない方がいい、それだけは確かだ。
社畜は分を弁えている。そうしなければ生き残れないから。
これがデートだと言うなら俺のやることは一つ、千波とこの瞬間を楽しむことだ。
それ以外のことは後で考えればいい。
不意に、矢を放ったような音が会場を通り抜けていく。
「また始まるみたい!」
彼女の声を皮切りに、空中を大輪が跳ね回る。
隣に目を向けると、にこにこしながら顔を上げる千波。
虹色のスポットライトに照らされる彼女は、正真正銘物語のヒロインみたいで。
ふと、この光景をずっと覚えていたいと思った。
写真や動画じゃもったいない、目と脳にこの瞬間を刻んで。
「ねぇ見て見て〜!すんごい!あれ打ち上げるのにどれだけ準備が要るんだろうね〜〜!」
彼女は幼い子どものようにきゃ〜っと声を上げる。
いつもの揶揄うような、少しひねた大人のような雰囲気はない。
きっとこれが本来の千波ちな。
自分の隣にいる間気を抜いてくれているのは……そういうことなんだろう。
短く息を吐くと、ショーの行く末を見届けるべく俺は空を見上げた。
思い浮かぶのは、今日駅で抱いたのと同じ感想。「何に」の部分もまったく同じで。
「な、とんでもなく綺麗だ」
◆ ◇ ◆ ◇
数十分後、大輪が夏の夜空を埋めつくして花火は終了した。昼よりも明るい夜を存分に楽しんだ。
「……じゃ、帰ろっか」
「そうだな」
立ち上がろうとしたところで、千波がふらつく。
着慣れない浴衣だから仕方ない。わざわざ俺に見せるために、もうそう言ってもいいだろう、着てくれたんだ。汚して帰してなるものか。
「っと……」
なんとか倒れる前に身体を抱き寄せる。あっぶねぇ!
想像より軽い身体に驚きながらも腕の力は抜かない。
シャンプーだろうか、香水だろうか。
今日一日彼女が振りまいていた香りが強くなる。
「信じてたよ、圭。ありがと」
両手を頬に当てて、えへへと微笑む千波。
わかった、かわいいのはわかったから一旦……。
「礼はいいから自分の足で立ってくれ」
「えー、いっそこのまま運んでよ。お姫様抱っこでも可」
メインヒロインだから。
「アラサーの体力なめんなよ」
「同い年でしょ!」
そろそろ周りの目線も気になってきた……成人男女が人目もはばからず抱き合ってるところなんてお見せするのが恥ずかしい。
というかこんなところ、広報課の人間に見られたら申し開きできないぞ。
ぐいっと身体を引っ張って強制的に直立させて、一息。
「失礼ね、そんなに重くないわよ」
「重いなんて一言も言ってないだろ」
「態度と表情が重そうだったの!」
沈黙。
顔を見合せてどちらからともなく声を出して笑う。
あー、やっぱり千波とは湿っぽいのは似合わない。こうやって馬鹿な話している時間が。
「楽しいね」
「あぁ、楽しかった」
駅へ向けて歩き出す。
花火を見に来た時よりもほんの少しだけゆっくりなのは、人が多いから。
さっきまでとは打って変わって暗い夜道。
駅に最短で向かうには人が多すぎる、遠回りにはなるが隣駅を目指して人気のない道を並んで歩く。
点滅した信号機を前に、千波は足を止めた。
見回しても辺りには誰もいない。
人生には度々、これから何が起こるかわかる瞬間がある。まさに今がそれだ。
だから心臓をなんとか落ち着かせて、覚悟を決める。ここからは戦いだから。
「圭……んーん、立野」
「どうした、ちな……み」
「別に名前呼びのままでもいいんだよ?」
「そっちが苗字呼びに変えたんだろ」
車が一台通り過ぎる。空気が変わるのにはその時間だけで十分だった。
「私、あんたのことが好き」
赤くなった目元と頬。
千波が起こした空気の振動は、さざ波のように心を満たしていった。




