第33話 眠れる森のジュリエット③
ふっと意識が上っていく感覚。
真っ暗な深海から酸素を求めて海面へ顔を出す。
残念ながら俺は魚ではなかったみたいだ。
カーテンから漏れる光が眩しくて目を開ける。
ガンガンと殴られるみたいに頭が痛い。原因はわかっている、昨日のアルコールだ。
徐々に昨日の記憶をじわじわと広がっていく。
あぁ酔っていたとはいえ、頭を抱えたくなることばっかりだ。
「あ、起きたんだ。おはよ〜立野くん」
鈴をころがしたような声。
目を向けると、逆光のジュリエットが腰に手を当てて仁王立ちしていた。
パーカーにスウェットと、昨日寝た時と同じ格好だ。髪のてっぺんがもしゃっと広がっているのは寝起きだからか。
正直、かわいい。と同時にこれを見られるのは自分だけだという優越感が胸の内に広がった。
「おはようございます……昨日はいろいろとありがとうございました」
悪ノリLv100みたいな結果、一緒に寝ることになったんだっけ。
流されて、しかし自分で踏み出した一歩でもある。
「いえいえ〜無理矢理連れて帰ってきちゃったのは私だしね」
「ほんとですよ」
何をどうしたは美人な職場の先輩と同じベッドで寝ることになるんだ。
しかも何も起こらないし、何も起こらないし!
大事なことなので二回言った。いや、何か起こったらそれはそれで大変なんだけれども。
「そこは『でも一緒に寝られて良かったです。寝起きの瑚夏さんもお綺麗ですね』でしょ」
どうしたどうした。
突然変な台本を渡された気分なんだが。
「誰ですかそれ」
「私の夢見る寝起きの立野くん!」
「やっぱり夢って儚いですよね」
俺にとっては悪夢だろこれ。
夢なんて現実との距離が遠ければ遠いほど、形が定まらないものだ。
現実にならないことを祈る。
「ていうか今何時です……?」
スマホは遠い鞄の中。
頭がすっきりしてるから、かなり寝てしまったんじゃないだろうか。
「ん〜今はね〜6時!」
両手で一と五を作る瑚夏さん。
この明るさで!?もうすっかり夏になってしまったなぁ。
そういえばニュースでも今週梅雨明けって言ってたっけ。
「だとしたら瑚夏さん、起きるの早すぎません?あ、ごめんなさい、もしかして寝言とかいびきとか……」
「んーん!立野くんは悪くないよ!ちょっと朝起きてやることがあったというかこのチャンスを逃したくなかったというか……」
段々しりすぼみになっていく声。最後の方は何を言ってるのか全然聞き取れなかった。
「何はともあれ、ごちそうさまです!」
じゅるりと口元を拭うフリをする瑚夏さん。流石元演劇部、芝居のキレが今日も冴え渡ってるぜ。
しかし、寝起きには似つかわしくない言葉が耳に入った気がするな。
「ん?」
「え?」
「何か、食べました?朝ごはんとか」
見たところ台所を使ったわけでもなさそうだ。
「朝ごはん、ねぇ。そうとも言う!」
なんだか煮え切らないな。
一応着ている服も見てはみるが、特に乱れた形跡もない。
彼女は一体何を食べたって言うんだ。
「身の危険を感じるんですけど……」
「何もしてないって!疑いすぎ!ちょーっと小一時間くらい寝顔を堪能してただけじゃない!」
座敷わらしじゃねぇか。
西洋のジュリエットとは程遠い、それでいて市松人形のような姫カット瑚夏さんを想像して口元が緩む。
「怖い怖い、んなアラサー社畜の寝顔なんて一銭の価値もないのに」
「私にとってはあるの!それでいいのよ!」
確かに、真理かもしれない。自分にさえ価値が分かれば、それでいい。
ぼふん!っとベッドに飛び込む瑚夏さん。
途端に舞う甘い香り。
「自分の部屋じゃない」という実感が、五感を通じて湧いてくる。
「ねね、もしね?立野くんが先に起きてたらさ」
もこもこの布団の中から覗くキラリと光る双眸。
大きな湖に浮かぶ満月みたいなそれから目が離せない……というより、ガッツリと顔を掴まれている気がする。
ごくりと喉が鳴る。
「眠り姫みたいに、私を起こしてくれた?」
時間が動きを止めた。
どこかで聞こえる鳥の鳴き声、回る換気扇の音。
わかってる、これはいつものじゃれ合い。
「そんなわけないじゃないですか」。そう言ってはぐらかすのが常だろ?
浮かんだ言葉を、後は吐き出すだけ。
でも、だけど。
心に立ったさざ波が俺の喉を締め付ける。
本当にそれでいいのか。昨日の夜考えていたことは嘘だったのか。
一歩踏み出すのは俺の方じゃないのか。
わかったわかった、そこまで言うならやってやろうじゃねぇか。
アクセルを踏むならベタ踏みで。後のことなんて考えるな。
「こうやってキスして?」
身体を彼女の方へ倒す。
もちろんへなちょこの俺はキスなんてできない。ギリギリまで、呼吸が見えるくらいまで近付いて留まる。
これでガードのゆるすぎるジュリエットに、お灸を据えられたら、なんて。
メイクはしていないはずなのに長いまつ毛、桃色の頬、湖月に自分が映る。
「ふぇ」
かわいらしい声を最後に、瑚夏さんは目を閉じた。
えー、集合集合!
突如開催される第n回脳内会議。
議題は「これからの身の振り方」。
え、この後ってどうすればいいんだ。そもそも目を閉じるのってOKサインなのか?
だめだ、何もわからない。慣れないことはするもんじゃないな。
とりあえずなるようになれ!
脳内会議を強制的に終わらせれば、彼女の顔が視界一杯に広がっていた。
さっきより近くないか?
動揺を隠そうと跳ね上がった心臓を落ち着かせていると、不意に頬に柔らかい湿った感触。
音はない。
確かに、確かに熱が移る。
たっぷり3秒間の接触は、この部屋をファンタジーの世界へ放り込んだ。
「これ、貸し一つだから」
それだけ言い残して、彼女はパタパタと廊下へと走っていった。
自分から唇を差し出す姫様がいるか。
浮かんだのはそんな、そんな場違いな感想だけだった。




