第34話 千波ちなはメインヒロインである①
『定時退勤、駅地下中華』
なにかの暗号かと疑ってしまうほど簡素なチャットが俺のモニターを彩った。
続きがあるのかと思ってクリックしてみても、表示されたのは九つの漢字ばかり。
送り主は瑚夏さん……ではなく千波。
なんだなんだ、仕事の話なら直接広報課に行くんだが。
いや、今あそこに行くと瑚夏さんと顔を合わせてしまう。やめておこう。
口付け事件……俺の中では勝手に逆眠り姫事件って呼んでるんだが、から一週間、彼女とは会わない生活が続いていた。
というかあの日も結局、恥ずかしさが拭えずにオドオドしながら逃げるように帰った。
顔を見ても視線が唇に吸い寄せられてしまうのだ。
この歳になって?と思われるかもしれないが、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。しかも相手の顔がいい。
これが一番の理由かもしれない。
『仕事の相談なら直接聞くけど……こっそりの方がよければ内線かけようか?』
だから仕事のことを考えていると逆に落ち着く。
今まで一度も思ったことがないけど、もっと仕事をくれ。今だけは。
『つべこべ言わず付き合って』
「付き合う」という単語を見ただけで心臓が跳ねる。
どうしてしまったんだ俺は。
精神が青臭い少年に蝕まれている。有給とか取って家でじっとしていた方がいいんじゃないか。
「な、なぁ……駅に美味い中華屋ってあったっけ」
動揺を指先に持っていかないように、隣でキーボードを叩く同僚に声をかける。
「どうした突然」
訝しむ同僚。
そりゃそうだ、仕事とまったく関係ないばかりか、昼過ぎのお腹いっぱいのタイミングで中華の話なんて、唐突にも程がある。
「いや、ちょっと知り合いからこの辺の中華の話されてさ」
流石に不自然か?いやでも本当だしなぁ。
「どんな知り合いだよ!」
彼はばしばしと机を叩きながらも、椅子をくるりとこちらへ向けてくれる。
お、流石この会社のアーカイブ(仮)、なんでも知ってるなぁ。
「この辺だと……うーん、駅の地下に美味しいところあるけど、いつも混んでるんだよなぁ」
「行ったことは?」
「一回だけな」
なんとも頼もしい。
予約必須なら、当日は難しいんじゃないか。
他の店と比べて何がいいのかを滔々と語り出した同僚を横目に千波へチャットを送る。
『なんか同僚に聞いたら結構人気で予約必須らしいぞ』
すぐに付く既読。ずっとモニターに齧り付いてんのかあいつ。
不意に千波が大口を開けて、ご自慢のポニーテールを振り乱しながらガジガジとモニターを齧っている姿が思い浮かぶ。
マスコットとかにしたらかわいいよな、なんて失礼な感想は胸に秘めておく。
『そんなこと知ってるわ、予約したって言ってんの』
言ってなかっただろ!
『……わかったわかった。んじゃ仕事終わり次第ロビーで合流とかでいいか?』
『やだ。デートみたいにちゃんと待ち合わせしよう』
千波まで瑚夏さんみたいなこと言い出したぞ。
俺たちはただの同期、OK?ちなちゃんはデキる子だからちゃんとわかってくれるはずだ。
『全然何言ってるかわからないんだが』
『だからデートみたいに身なりを整えて待ち合わせ!ちゃんと会えたら私のことを褒めること……そうね、この前瑚夏先輩にしたみたいに』
おぉっと……話が変わってきたな。これはなんとしてでも千波に話を聞かなければならない。
どうして俺たちがデー……ゴホンゴホン、取材に行ったことを知ってるんだ。
『観念した?』
最近誰かさんにも同じようなことを言われた気がする。清楚なワンピースを纏った、役者でありながら幼気な笑顔を振りまく、少し身長の低い彼女とか。
『俺の負けでいいから飯には行こう、聞きたいことがある』
『まぁもうそれ、自白と同じだけどね〜!それじゃよろしくぅ』
ウキウキと楽しげなスタンプがチャットに投下される。どうしてこう、俺の周りの人間は理不尽だらけなんだ。
焦りと不安と……ほんの少しの喜び。
「まぁ俺は甘いものの方が好きだけどな!」
同僚の声が思考の波を遮る。
直後、ビリッと破かれるシュークリームの袋。
すまん、後半ほとんど聞いてなかった。
想像の中で親指を立てるイマジナリー同僚に陳謝。
きっと許してくれるだろう。
というかどこから取り出したんだ、そのシュークリームは……デスクの下に個人用の冷蔵庫とか置いてるんじゃないだろうな。
甘さ二倍!なんて踊り文句が記されたパッケージにはクリームとカスタードのもったりした写真が映っている。
白と黄色でダブル、ねぇ。
浮かんだ二人の人物の顔、頭を振って幻想を消すと、俺は無心になるべく契約書と向き合った。
お待たせいたしました、千波回です!




