知らない名前
翌朝。
エレーンが目を覚ました時、
しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れない天井。柔らかな寝具。
窓から差し込む朝の光。
そして何より――身体のどこにも、鉄の重みがない。
エレーンはゆっくりと上半身を起こした。
手首を見る。
赤く擦れた痕だけが残っている。
十五年間、目を覚ませばそこにあった枷は、
もうない。
「…………」
昨日起きたことを、一つずつ思い出す。
ノーカルミアの奴隷市場。
自分を買った黒髪の人間。
鎖を外し、何も要求せずに立ち去ろうとした男。
そして――六ヶ国で唯一のオリハルコンランク。
ジジ・ガルシア。
「……やっぱり、おかしな男」
小さく呟き、ベッドから降りた。
扉へ向かい、何気なく手を伸ばす。
そこでエレーンの指が止まった。
「……?」
昨夜にはなかったものが付いている。
内側から扉を固定するための、小さな閂だった。
木そのものは古いが、取り付けたばかりなのだろう。
削られた部分だけがまだ白い。
昨夜、自分が鍵を気にしていたから。
――嫌なら明日つける。
ジジはそう言っていた。
本当に付けたらしい。
エレーンはしばらく閂を見つめたあと、
何も言わずに扉を開けた。
家の中は静かだった。
台所にジジの姿はない。
代わりに、開け放たれた窓から
小さな物音が聞こえてくる。
庭へ出ると、ジジはローズヒップの低木の前に
しゃがみ込んでいた。
昨夜まで着ていた旅装ではない。
簡素な黒いシャツにズボンだけの姿で、
肩にかかる黒髪も無造作なままだ。
片手には小さな剪定鋏。
枯れた枝を見つけては、一本ずつ落としている。
「……何をしているの?」
声をかけると、ジジは少しだけ振り返った。
「起きたか」
「ええ」
「枯れてたから切ってる」
「それは見れば分かるわ」
「じゃあ聞くなよ」
「…………」
朝からこれだ。
エレーンは少し眉を寄せた。
ジジは気にした様子もなく、再び枝へ向き直る。
昨日、この庭はかつてここに住んでいたエルフ
――マリアという者が作ったのだと聞いた。
本人はもういない。
それでもジジは、こうして庭を手入れしている。
「あなたがずっと管理しているの?」
「ここにいる時はな」
「普段は?」
「バインス」
「ここにはあまり戻らないの?」
「そうだな」
短い返事ばかりだ。
話したくないのか、単純にこういう話し方なのか。
まだ判別がつかない。
ジジが立ち上がる。
その時、袖が少し捲れた。
右腕。
肘の辺りに、古い火傷の痕がある。
エレーンの視線に気づいたのか、
ジジも自分の腕を見る。
「…何?」
「……いえ」
聞かなかった。
昨日会ったばかりの相手の傷を尋ねるほど、
親しくなったつもりはない。
「飯食うぞ」
ジジは剪定鋏を片付けながら言った。
「小屋に入れ」
命令口調。
だが、不思議と奴隷商人たちの命令とは
違って聞こえた。
従わせようとしているのではない。
単に、この男はこういう喋り方なのだろう。
そう思える程度には、
昨日よりジジのことを知ったらしい。
――――――――――――――――――――
朝食は簡単なものだった。
パンと果物、それから香草を使った温かいスープ。
エレーンが椅子へ座ると、
ジジが皿を目の前へ置いた。
「ん」
「……いただきます」
ジジも向かいに座る。
無言でパンをちぎり始めた。
エレーンはスープを一口飲む。
香草の風味がよく出ている。
「美味しいわ」
「そ」
それだけだった。
「あなたが作ったの?」
「ああ」
「料理もするのね」
「食わなきゃ死ぬだろ」
「……そういう意味ではないのだけれど」
ジジが眉を寄せる。
「じゃあどういう意味だよ」
「もういいわ」
エレーンは小さく息を吐いた。
この男と会話していると、
妙なところで話が噛み合わない。
食事を続けていると、ジジが席を立った。
湯を沸かし、昨日と同じ赤い茶を淹れる。
ローズヒップ。
二つのカップを持って戻ってくる。
一つをエレーンの前へ置いた。
「熱いぞ」
「ありがとう」
ジジは「ああ」とだけ答えた。
昨日も飲んでいた。
今朝も飲む。
「ローズヒップが好きなの?」
何気なく尋ねた。
ジジはカップへ口をつける。
「……まあ」
ほんの少し。
返事の前に間があった。
エレーンはそれ以上聞かなかった。
代わりに、自分のカップへ視線を落とす。
赤い水面が僅かに揺れている。
昨夜のことが頭をよぎった。
深夜。
壁の向こうから聞こえた寝言。
――ルナ。
一度だけではなかった。
同じ名前を、確かに二度呼んでいた。
エレーンはカップを置いた。
「ねえ」
「何?」
「昨夜のことなんだけれど」
ジジが顔を上げる。
「…何」
「あなた、寝言を言っていたわ」
「俺が?」
「ええ」
「…何て?」
本人は覚えていないらしい。
エレーンは少し迷ったあと、その名前を口にした。
「……ルナ」
ジジの動きが止まった。
僅かだった。
本当に僅かな変化。
けれど昨日から見てきた中で、
この男がここまで明確に反応したものは
初めてだった。
「ルナ、と呼んでいたわ」
「…………そっか」
ジジはカップへ目を落とした。
何事もなかったかのように茶を飲む。
けれど今までとは違う。
エレーンにはそう見えた。
「誰なの?」
ジジはすぐには答えなかった。
「……探してる奴」
「探している?」
「ああ」
「どこにいるのか分からないの?」
「分かってたら探してねぇ」
相変わらず言葉はぶっきらぼうだ。
「家族?」
ジジが少しだけ考える。
「……まあ、そんなもん」
「そんなもの?」
「説明すんのめんどくせぇ」
「あなたね……」
エレーンが呆れた顔をすると、
ジジは悪びれもせずパンを口へ放り込んだ。
その態度に少し腹が立つ。
だから、つい聞いた。
「恋人?」
「違う」
即答だった。
今度はエレーンが黙る。
「……そう」
「何だよ」
「別に」
なぜか少しだけ胸の辺りが軽くなった。
それが何なのか考える前に、エレーンは話を戻す。
「どのくらい探しているの?」
「十五年」
今度こそ、手が止まった。
「……十五年?」
「ああ」
ジジは平然と答える。
「ずっと?」
「ずっと」
たった二言。
けれど、その重さだけはエレーンにも分かった。
十五年。
偶然にも、
自分が奴隷として生きてきた時間と同じだった。
「……長いのね」
「まあな」
「それでも探すの?」
ジジは不思議そうにエレーンを見る。
「見つかってねぇからな」
まるで、それ以外の選択肢など
最初から存在しないような答えだった。
エレーンはしばらくジジを見つめた。
この男は何を十五年間も追い続けているのだろう。
そして。
なぜ、そこまで。
聞きたい気持ちはあった。
けれど、今は聞かなかった。
ジジもまた、自分から話すつもりはなさそうだった。
しばらく二人で黙って朝食を続ける。
やがてジジが、今度はエレーンへ尋ねた。
「お前は」
「何?」
「昨日、帰る場所ねぇって言っただろ」
「……ええ」
「家族は?」
エレーンの指が、カップの取っ手の上で止まった。
少し迷う。
「姉がいるわ」
「いる?」
「……いた、の方が正しいかもしれない」
ジジは何も言わなかった。
ただ続きを待っている。
エレーンは窓の外へ目を向けた。
「名前はシエラ」
久しぶりに口にした姉の名前。
それだけで、胸の奥が少し痛んだ。
「十五年前に離れ離れになったの」
ジジの目が僅かに動いた。
「十五年前?」
「ええ」
エレーンは自分の手首を見る。
「それから一度も会っていないわ」
「……そうか」
ジジはそれ以上、何も聞かなかった。
どこで。
なぜ。
どうやって。
普通なら尋ねるのかもしれない。
けれどジジは聞かなかった。
エレーンも、今は話そうとは思わなかった。
ただ。
十五年。
その同じ長さの時間を、
一人は誰かを探し続け、
一人は誰かと離れたまま生きてきた。
それだけが、小さく二人の間に残った。
ジジは残っていたローズヒップティーを飲み干した。
「……飯、片付けるぞ」
「手伝うわ」
「いい」
「居候するのに何もしない方が落ち着かないの」
「昨日まで俺のこと監視するっつってなかったか?」
「監視と皿洗いは両立するでしょう」
「意味分かんねぇ…」
「あなたにだけは言われたくないわ」
ジジは一瞬黙ったあと、小さく鼻で笑った。
「好きにしろ」
「ええ。そうする」
二人は皿を持って立ち上がった。
昨夜よりほんの少しだけ、
同じ家にいることが不自然ではなくなっていた。
けれどエレーンの頭には、
ひとつの名前が残っていた。
――ルナ。
そしてジジの中にもまた、
十五年前という言葉が、
小さく引っかかったまま残っていた。
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お読みいただきありがとうございます。
くおんあづきです。
初執筆のため、慣れないところがあり読みづらい箇所等あるかと思います。
かなり長編になっていますので最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




