森の古い家
奴隷市場を出てから、しばらく経った。
ジジは一度も振り返らず、
ノーカルミアの街を歩いていた。
その数歩後ろを、エレーンがついてくる。
一定の距離を保ったまま。
近づきもしない。離れもしない。
市場を出てから、ずっとそうだった。
やがてジジが小さく息を吐く。
「……いつまでついてくんだよ」
「監視すると言ったでしょう」
返事はすぐに返ってきた。
エレーンは金色の髪を風に揺らしながら、
警戒するようにジジの背中を見ている。
「俺は、宿に帰るだけだ」
「構わないわ」
「俺が構うんだけど」
「なら追い払えばいいでしょう」
ジジは歩きながら少しだけ振り返った。
「追っ払ってほしいの?」
「そういう意味ではないわ」
「じゃあ何」
「…………」
エレーンは黙った。
ジジもそれ以上聞かなかった。
再び前を向き、そのまま歩き続ける。
エレーンは少し眉を寄せた。
変な男だ。
十五年。
何人もの人間に買われてきた。
優しい言葉をかける者もいた。
食事を与える者もいた。
けれど最後には、必ず見返りを要求された。
当然だと思っていた。
奴隷とは、そういうものなのだから。
だからこそ。
何も求めず、ただ鎖を外したこの男が
理解できなかった。信用できない。
――だからついてきた。
少なくとも、
エレーンはそう自分に言い聞かせていた。
街の中心部を抜ける。
人通りが少なくなり、道の両側に木々が増えていく。
エレーンが周囲を見回した。
「宿ではなかったの?」
「宿みたいなもん」
「……森だけど」
「もうちょっと」
ジジは気にする様子もなく進んでいく。
やがて細い道の先に、一軒の家が見えてきた。
大きくはない。
石と木で造られた古い家。
周囲には小さな庭があり、
草花や低木が自由に生い茂っている。
長い間使われてきた家なのだろう。
けれど荒れ果てているわけではなかった。
最低限の手入れはされている。
エレーンは足を止めた。
「……ここ?」
「そ」
ジジは腰の鍵を取り出し、扉を開ける。
そのまま中へ入ろうとして、
背後に気配がないことに気づいた。
振り返る。
エレーンは庭を見ていた。
「何?」
「この庭……」
ゆっくりと視線を巡らせる。
ローズヒップ。
エルダーベリー。
薬草。
香草。
エルフの集落なら珍しくないものばかりだ。
しかし、人間の家の庭としては少し妙だった。
「誰が作ったの?」
「昔ここに住んでた人」
「人間?」
「エルフ」
エレーンがジジを見る。
「……あなたにエルフ語を教えた人?」
一瞬だけ。
ジジの目が庭へ向いた。
「ああ」
短い返事だった。
その表情から何かを読み取ろうとしたが、
エレーンには分からなかった。
「名前は?」
「マリア」
「マリア……」
「もう死んでるけど」
あまりにも淡々と言われ、
エレーンは返す言葉を失った。
ジジは先に家へ入る。
「入るんなら閉めろ」
「……勝手に入っていいの?」
「ここまでついてきてんのに今さら?」
「それとこれとは別でしょう」
「めんどくせぇな、お前」
「あなたに言われたくない」
エレーンも家へ入った。
室内は質素だった。
木製の家具。
本棚。
薬草を乾燥させるための棚。
壁には古い植物図。
そして、どこか懐かしい香草の匂い。
エレーンはゆっくり室内を見回した。
人間の男が一人で暮らす家には見えない。
「あなた、本当にここに住んでいるの?」
「今は」
ジジは剣を壁際へ立てかける。
「水飲む?」
「……いただくわ」
「そこ座って」
ジジは台所へ向かった。
エレーンは椅子に腰掛けながら、その背中を見る。
しばらくすると、湯を沸かす音が聞こえてきた。
「水ではなかったの?」
「茶も飲むかと思って」
「何の?」
「ローズヒップ」
エレーンが庭の方を見る。
「庭の?」
「ああ」
「あなたが摘んだの?」
「他に誰がいんだよ」
やがて、赤い茶が二つのカップに注がれた。
ジジは片方をエレーンの前へ置く。
「熱いから気ぃつけろ」
「……ありがとう」
ジジも向かいへ座る。
何も言わず、ローズヒップティーを口にした。
エレーンも一口飲む。
少し酸っぱい。
けれど、丁寧に乾燥させてある。
「……美味しい」
「そう?」
「あなたが作ったの?」
「茶くらい作れる」
「そういう意味じゃない。乾燥も?」
「ああ」
エレーンはカップ越しにジジを見る。
剣を持った大柄な男。
六ヶ国で唯一のオリハルコン。
そう聞いた。
なのに。
エルフ語を話し。
エルフの庭を手入れし。
薬草を扱い。
ローズヒップを乾燥させて茶を淹れる。
ますます分からない。
「……あなた、何者なの?」
ジジがカップから顔を上げた。
「ジジだけど」
「名前を聞いているんじゃないわ」
「じゃあ何」
「…………」
エレーンは額を押さえた。
「もういい」
「そ」
ジジはまた茶を飲む。
本当に興味がないらしい。
しばらく沈黙が続いた。
やがてジジが口を開く。
「で」
「何?」
「これからどうすんの」
エレーンの指が止まった。
「……何が?」
「行くとこ」
「…………」
「帰る場所、あんの?」
答えられなかった。
−十五年前。
故郷は襲われた。
家族とは離れ離れになった。
それから何度も売られた。
今となっては、
自分の村がどうなっているのかすら分からない。
「……ないわ」
「そうか」
ジジはそれ以上聞かなかった。
同情するでもなく。
詳しく聞こうとするでもなく。
ただ、少し考える。
「じゃあ、しばらくここにいれば?」
エレーンが顔を上げる。
「……何?」
「部屋余ってるし」
「待って」
「何?」
「私は今日、あなたに買われたばかりなのだけれど」
「そうだな」
「そしてあなたを信用していない」
「みてぇだな」
「なのに、ここに住めと?」
「嫌ならどっか行け」
「…………」
エレーンはジジを睨んだ。
「本当に何も求めないの?」
「何を?」
「だから……」
言いかけて、やめる。
ジジは相変わらず分からないという顔をしていた。
「部屋…見るか?」
「……見る」
「こっち」
ジジが立ち上がる。
廊下の奥。
一つの部屋の扉を開いた。
小さなベッドと机。
それだけの簡素な部屋だった。
「ここ使って」
エレーンが中を確認する。
窓。
ベッド。
棚。
そして扉。
ふと気づく。
「……鍵は?」
「ねぇな」
エレーンの表情が硬くなる。
それに気づいたジジが続けた。
「俺の部屋にもねぇ」
「……そういう問題では」
「嫌なら明日つける」
「…………」
「内側から閉められるやつ」
エレーンは目を瞬いた。
ジジは何でもないように言う。
「それなら安心すんだろ」
「……あなたは」
何を考えているの。
そう聞きかけて、やめた。
どうせまた、
『別に』
とでも答えるのだろう。
「ありがとう」
代わりにそう言った。
ジジが少しだけ目を細める。
「ああ」
そして部屋を出ていく。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「腹減ったら言え」
「料理もできるの?」
「一応」
「……本当に何者なの、あなた」
「だからジジだって」
「もういい!」
エレーンの声に、ジジが少しだけ笑った。
その夜。
久しぶりに、
誰にも鎖を繋がれることなく。
誰にも命令されることなく。
エレーンは一人でベッドに入った。
眠れるとは思わなかった。
けれど。
長い間忘れていたほど
柔らかな寝具に身体を預けているうちに、
いつの間にか意識は沈んでいった。
深夜。
ふと、物音で目を覚ます。
隣の部屋からだった。
エレーンは身体を起こし、耳を澄ませる。
誰かが話している。
いや。
寝言だった。
ジジの声。
「…………ルナ……」
エレーンは眉を寄せた。
もう一度。
今度は、先ほどよりもはっきりと。
「……ルナ……」
静かな家の中に、
その名前だけが落ちた。
エレーンはしばらく隣の壁を見つめていた。
「……ルナ?」
それが誰なのか。
まだ彼女は知らなかった。
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お読みいただきありがとうございます。
くおんあづきです。
初執筆のため、慣れないところがあり読みづらい箇所等あるかと思います。
かなり長編になっていますので最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




