第4話 兄貴の引き際
香織さんのあの賑やかな結婚式から、早いもので三ヶ月が経った。
季節はすっかり秋めいて、夜風が心地よい季節。リビングのソファでテレビを眺めていた私は、ふと、ある「違和感」に気がついた。
(……そういえば、最近静かだな)
何が静かかって、我が家のリビングである。
半年前までなら、週に一度は必ず鳴り響いていた、大和のスマホの「香織専用着信音」が、ここ数ヶ月、ピタリと鳴り止んでいるのだ。
それだけではない。大和の口から「香織」の二文字が出ることも、驚くほど少なくなった。
あんなに「香織が困ってる!」と夜中でもママチャリを爆走させていた男が、自分から連絡を取っている様子すら見当たらないのだ。
「ねえ、大和」
私は、キッチンで熱いコーヒーを二つ淹れ、マグカップをテーブルに置きながら、ソファの上の大和に声をかけた。
「ん? なんだ、結衣」
「香織さん、最近どうしてる? 結婚してから全然連絡取ってないみたいだけど……。あんなに最優先だったのに、急に会わなくなって寂しくないの?」
直球すぎる私の質問に、大和は一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、テレビのリモコンを置いて、自分の大きな頭をガリガリと掻いた。
「寂しいっていうか……別に、用がないから連絡しないだけだろ」
大和は、なんてことない風に、拍子抜けするほど軽く言った。
「用がないって……。前なら『エアコンが壊れた』とか『ゴキブリが出た』とかで、用事がなくてもすっ飛んで行ってたじゃない」
私が苦笑しながら突っ込むと、大和はふっと、少し大人びた、優しい苦笑いを浮かべた。
「そりゃ、前はあいつ、一人暮らしだったからな。」
大和はコーヒーを一口すすり、窓の外の夜空を見つめた。
「でも、今はもうあいつには、星一さんがいるだろ?」
大和は私を振り返り、悪戯っぽく笑った。
「もう、俺の出番はないだろ?」
「…………」
私は、言葉を失って大和を見つめていた。
(ああ、そうだったんだ――)
胸の奥が、温かいもので一いっぱいに満たされていくのが分かった。
私は、出会った頃からの大和の行動を、頭の中でゆっくりと回想していた。
そういえば、いつだってそうだった。
香織さんのピンチに猛ダッシュで駆けつけるけれど、いつだって彼女の五十センチ手前できちんと足を止めていた。
手も握らない。抱きしめもしない。距離をちゃんと守っていた。
あれは、単なるバカの奇行ではなかったのだ。
大和にとって、あの五十センチは意識して作った距離ではなかった。ただ、香織は香織で、結衣は結衣だった。その違いを、大和は最初から当たり前のように理解していたのだ。
そしてそれは、妻である私に対する、彼なりの最大の誠実さでもあった。
「……何だよ結衣、そんなに俺の顔じっと見て。テリヤキピザでも付いてるか?」
真面目な雰囲気に耐えかねたのか、大和がぷいっと顔を背けて照れ隠しをする。
「ううん。付いてないよ」
私はクスッと笑って、ソファの上の大和の隣に潜り込んだ。
そして、彼がいつも香織さんに対して頑なに守っていた「五十センチの境界線」を、軽々と飛び越えて、その広い肩に頭を預けた。
大和は一瞬、身体を硬くしたけれど、すぐに嬉しそうに私の肩を抱き寄せた。
香織さんには絶対に触らなかったその手が、私には、とても自然に、そして温かく触れてくれる。
「大和」
「ん?」
「あなた、本当にかっこいいよ。私の自慢の旦那様ね」
「な、なんだよ急に! 気持ち悪いな!」
顔を真っ赤にして大慌てする大和を見て、私は心から「この人と結婚して良かった」と思った。
不器用で、全力で、ちょっと境界線がバグっているけれど。
世界一優しくて、世界一引き際が綺麗な、私の愛しい人。
その時、私のスマートフォンが、ピコンと小気味よい通知音を鳴らした。
画面を見ると、メッセージの送り主は「香織さん」だった。
『結衣さん! 新居に大きなオーブンレンジ買ったの! 今週末、星一と一緒にピザパーティーしない? 大和のゴリラも連れてきていいから!』
私は、隣で私の画面を覗き込もうとしている大和のデコをパシリと叩きながら、返信する。
『行く行く! 大和も喜んで働くって言ってるわ。今度は4人で、最高に賑やかな夜にしましょう!』
奪い合う関係なんて、最初からどこにもなかった。
大和のデカすぎる愛が、今、私たちの世界を、もっと新しくて、もっと大きな形へと広げようとしていた。
(第4話・了)




