第2話 ピザの味と、被害者の会
「いや、本当に意味がわからないんだけど!?」
香織さんの部屋に私が到着してから三十分後。
男手一つ、いや、筋肉一つで黙々とエアコンのフィルターを掃除している大和を完全に背景へと追いやり、私と香織さんは床に座ってLサイズのテリヤキチキンピザを囲んでいた。
香織さんはコーラのコップを片手に、眉間に深いシワを寄せて憤慨している。その怒りの矛先は、もちろん我が夫、大和だ。
「結衣さん、聞いてよ! こいつ、私が『エアコン壊れて死にそう』ってLINEした三分後に、ママチャリで爆走してここに来たのよ? しかも、インターホン連打しながら『香織! 生きてるか! 水分補給しろ!』ってドア叩くの。完全に昭和の熱血刑事か不審者じゃない!」
「あはは、目に浮かぶわ。大和、そういう時の行動力だけは世界トップクラスだから」
私はピザを一口齧りながら、くすくすと笑った。
確かに、世間一般の「不倫現場への突撃」としては、緊迫感がマイナス十万パーセントくらい足りない。
「だいたいさあ!」
香織さんはピザの耳を大和に向けて突き出す。
「あんた、もう結婚してんの! 奥さんがいるの! 金曜の夜に独身女の部屋に突撃していいのは、そいつの彼氏か、あるいはウーバーイーツの配達員だけなの! 自覚を持ちなさいよ、この既婚者ゴリラ!」
「うるせえな、熱中症は命に関わるだろ。ほら、フィルターの目詰まり直したから、これで冷えるはずだぞ」
大和は額の汗をぐっと拭い、満足げにエアコンを見上げている。その表情には、一点の曇りもない。
やはり、この男の中では、香織さんの部屋のエアコン修理は『実家の網戸の張り替え』と同レベルのボランティア活動なのだ。
「大和、お疲れ様。はい、麦茶」
「お、サンキュー結衣! 結衣が持ってきてくれたピザ、めちゃくちゃ美味そうだな!」
大和は私が差し出したコップを嬉しそうに受け取り、そのままピザの箱へと手を伸ばそうとした。だが、その太い腕を、香織さんの鋭い平手打ちがピシャリと叩く。
「痛っ!? なんだよ香織!」
「あんたはまだお預け! 結衣さんに冷たいおしぼり持ってきて、あとそこのゴミ袋縛って! 動く! 働く!」
「えー……。なあ結衣、香織が俺に冷たいんだけど」
「大和、香織さんの言う通りよ。働かざる者、テリヤキ食うべからず、です」
「うう……わかったよ……」
大型犬のように肩を落とし、大和はトボトボとゴミ袋を片付けにベランダへと向かった。
その様子を見送った香織さんは、ふう、と大きなため息をついて私に向き直った。その目は、申し訳なさでいっぱいだった。
「……結衣さん。本当に、ごめんなさい」
先ほどまでのコミカルな勢いが嘘のように、香織さんは真剣な顔で頭を下げた。
「私、大和が結婚した時、本当に嬉しかったの。これでようやく、あの過保護な兄貴風吹かせまくりのバカから解放されるって思ったし、大和も自分の家庭を一番にするだろうって。……なのに、結局何かあると私を最優先にしちゃう。結衣さんを傷つけてるんじゃないかって、ずっと、ずっと気になってて……」
香織さんの言葉は、本物だった。
彼女は大和を奪おうなんてこれっぽっちも思っていない。むしろ、大和の「境界線のなさ」が、私に迷惑をかけていることを心から心苦しく思っていたのだ。
私は、コーラのコップをトントンとテーブルに叩き、優しく微笑んだ。
「香織さん。顔を上げてください。私ね、怒ってないですよ」
「え……? でも、金曜の夜だよ?」
「うーん、最初はちょっとモヤモヤしたこともあったかな。でも、あのゴキブリの夜に、大和が香織さんからきっちり五十センチ離れて立ってるのを見て、気づいちゃったんです。あ、この二人、本当にお互いを『男』とも『女』とも思ってないんだなって」
「……五十センチ?」
香織さんはきょとんとした。
「そう。大和って、香織さんに絶対に触らないでしょ? どんなに心配して駆けつけても、手も握らないし、ハグもしない。ただの『ご近所の防犯パトロール』の距離感を絶対に崩さないの。それを見てたら、なんだか愛おしくなっちゃって」
香織さんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、ぷっと吹き出した。
「あはははは! 確かに! あいつ、私が泣いてても『ほらよ』ってティッシュの箱ごと投げつけてくるだけだわ! 少女漫画の1ミリも起きない!」
「でしょ? だからね、私は大和を香織さんに『奪われる』なんて思ってないんです。むしろ……」
私はピザをもう一切れ取り、香織さんのコップに自分のコップを軽くぶつけた。
「大和のあのデカすぎるお節介の被害者が、私以外にもう一人いてくれて心強いな、って思ってます。これからは『大和のやらかし被害者の会』として、愚痴を言い合える友達になってくれませんか?」
香織さんの目が、みるみると潤んでいくのが分かった。
彼女は、大和の幼馴染という立場ゆえに、きっと周囲から「泥棒猫」のように見られることを恐れていたのだろう。
「結衣さん……! 私、一生結衣さんについて行きます! あのゴリラが浮気しようとしたら、私が真っ先に首根っこ掴んで引きずってきますから!」
「ふふ、頼りにしてるね」
「おい、誰がゴリラだって?」
ベランダから戻ってきた大和が、不思議そうな顔で私たちの間に割り込んできた。
「お、ピザ食っていいか?」
「「ダメ」」
「ええっ!? なんで息ぴったりなんだよ!」
大和が本気でショックを受けた顔をするのを見て、私と香織さんは顔を見合わせ、この日一番の爆笑の声をあげた。
*
その夜を境に、私たちの関係は不思議な方向へと転がり始めた。
世間一般の「嫁と幼馴染」といえば、泥沼のキャットファイトか、冷戦状態が相場と決まっている。だが、私たち二人は違った。
私と香織さんは、大和抜きで頻繁に連絡を取り合うようになったのだ。
『結衣さん! 今日大和が「結衣の誕生日サプライズ計画してる」って私に相談してきたんだけど、あいつ、ホテルのディナーの予約日を一ヶ月間違えてます! 修正させます!』
『香織さんありがとう! 助かったわ、危うく何もない日にドレスアップしてホテルのロビーに立ち尽くすところだった(笑)』
『結衣さん聞いて! 大和のやつ、私が風邪引いたって知ったら、勝手に私の実家のオカンに連絡して「香織が倒れた!」って大騒ぎしたの! オカンから生存確認の電話来て超恥ずかしいんだけど!』
『あはは、あいつ本当に実家のオカンマインドよね。今度お仕置きとして、今週末の我が家の掃除、全部大和にやらせるわ』
大和が何かやらかすたびに、私と香織さんの間で高速の連携プレイ(主に大和への制裁と教育)が行われる。大和は「なんか最近、結衣も香織も俺に厳しくないか……?」と首を傾げていたが、自分のやらかしが筒抜けになっていることには全く気づいていなかった。
誰かの愛を独占するために、他の誰かを排除する。
そんな狭い世界に生きる必要はなかったのだ。
大和という、不器用でエネルギーが有り余っている男を中心に、私たちの世界は確実に「広がって」いた。
そして、そんな賑やかな日常が半年ほど続いたある日。
香織さんから、一枚の写真と共に、いつもとは少し違うトーンのメッセージが届いた。
『結衣さん、相談があるの。……私、好きな人ができたみたい』
写真に写っていたのは、優しそうな笑顔を浮かべた、眼鏡をかけた大人の男性だった。
「――ほう」
スマートフォンの画面を見つめる私の横で、大和が「ん? なんだそれ」と画面を覗き込んできた。
さあ、ここからが本番だ。
私の愛すべき、そして最大級に面倒くさい旦那が、この大ニュースにどう反応するのか。
私の胸は、期待と少しの悪戯心で高鳴っていた。
(第2話・了)




