第1話 その距離、およそ五十センチメートル
「ねえ結衣ちゃん、本当に大丈夫なの?」
金曜日の午後八時。駅前の喧騒から少し外れた居酒屋で、職場の先輩である真由美さんが、ビールジョッキを片手にひどく心配そうな顔を私に向けていた。
彼女の視線の先には、私のスマートフォンの画面がある。そこに表示されているのは、私の夫である大和から送られてきた、あまりにも緊張感のないメッセージだった。
『ごめん結衣! 香織の部屋のエアコンが壊れたらしくて、熱中症になったらヤバいから今から修理に行ってくる! 晩飯、先食ってて!』
時計の針はすでに八時を回っている。これから花の金曜日を夫婦でのんびり過ごそうと思っていた矢先の、これである。
「結婚してまだ半年でしょ? なのに、夜に別の女の家に駆けつけるなんて普通はあり得ないわよ。いくら幼馴染だからって、それは完全に『アウト』の領域だって」
真由美さんは憤慨し、まるで自分のことのように怒ってくれている。世間一般の常識に照らし合わせれば、彼女の怒りは百パーセント正しい。既婚男性が、夜間に、妻との予定を放り出して、単身で独身女性の部屋を訪れる。これを不倫と言わずして何と言うのか。
「うーん……やっぱり、そう見えますよねえ」
私はピーナッツを口に放り込みながら、気の抜けた返事をした。
実は、私だって最初からこんなに平然としていたわけではない。
半年前、大和と入籍して新婚生活が始まったばかりの頃は、彼の「香織最優先ライフ」に本気で頭を抱え、夜な夜な枕を涙で濡らしたこともあるのだ。
香織――佐々木香織。大和とは家が隣同士で、幼稚園から高校までずっと同じ学校で育ったという、絵に描いたような幼馴染。
大和のスマートフォンには、彼女専用の着信音が設定されている。そしてその音が鳴れば、大和は深夜であろうが、飯を食っている途中であろうが、「え? 困ってたら助けるだろ?」と言い残して風のように去っていくのだ。
最初の頃、私は泣きながら大和に詰め寄った。
『私と香織さん、どっちが大事なの!?』という、古典的かつ究極のクエスチョンをぶつけたこともある。
その時、大和は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、こう言ったのだ。
『は? 何言ってるんだよ結衣。結衣は俺の奥さんで、香織は香織だろ? 比べる意味がわかんねえよ』
浮気隠しの言い訳でも、話をはぐらかそうとしているわけでもない。彼の中では『妻』というフォルダと『幼馴染』というフォルダが、地球と冥王星くらい離れた別次元に存在しているようだった。
怪しい。怪しすぎる。人間の男が、そんな綺麗事で動くはずがない。
そう思った私は、ある日、徹底的な「観察」を行うことに決めた。
それが、三ヶ月前のあの事件――私があの人たちの『真実』を悟った、決定的な夜のことだ。
*
それは、梅雨の終わりの激しい雨が降る夜だった。
午後十一時を過ぎた頃、大和のスマホが例の音を鳴らした。画面には「香織」の二文字。
大和が電話に出るなり、スピーカー越しに悲痛な叫び声が響いた。
『大和ぁぁぁ! 助けて! 部屋に、部屋にいるの! 出たの! 嘘でしょ、無理、本当に無理ぃぃぃ!』
過呼吸寸前の香織さんの声に、大和の目の色が変わった。
「香織!? 落ち着け、今すぐ行く!」
大和は上着をひったくり、玄関へと猛ダッシュした。
世間一般の妻なら、ここで「行かないで!」と引き止めるか、激怒して離婚届を突きつける場面だろう。だが、その時の私は違った。数日間にわたる大和の不審な行動(主に香織関連)に限界を迎えていた私は、ドスの利いた声で言った。
「大和。私も行く」
「え? おお、助かる! 結衣がいれば香織も安心するはずだ!」
大和は全く悪びれる様子もなく、私の手を引いて車に乗り込んだ。この時点で、後ろめたい気持ちがミリグラム単位すら存在しないことは明白だったが、私はまだ疑ってい。これは巧妙な偽装工作かもしれない、と。
車を飛ばすこと十分。香織さんが一人暮らしをしているアパートの前に到着した。
大和は車を止めると直ぐに飛び出し、階段を駆け上がっていく。私もその後を必死で追った。
香織さんの部屋のドアは、鍵が開いたままだった。
大和が勢いよくドアを開ける。
「香織!!」
私がドアの隙間から中を覗き込んだ時、脳内では「最悪の修羅場」のシミュレーションが全自動で再生されていた。恐怖に怯える幼馴染を、夫が優しく抱きしめ、「もう大丈夫だ」と囁く――そんなベタな浮気現場を覚悟していた。
しかし、私の目に飛び込んできた光景は、予想を斜め上どころか宇宙の彼方まで置き去りにするものだった。
「大和ぁぁぁ! 遅い! 遅すぎる!」
部屋の隅、ベッドの上で毛布にくるまってガタガタと震えている香織さん。
そして、部屋の真ん中に堂々と立ち塞がる大和。
ここで私は、あることに気がついた。
大和は、香織さんのベッドから五十センチメートルほど離れた位置で、ピタリと足を止めていたのだ。
駆け寄る勢いのままなら、ベッドに飛び込んでもおかしくない。抱きしめて安心させることだってできたはずだ。しかし大和は、まるで床に目に見えない境界線でも引かれているかのように、その「五十センチ」の距離を頑なに崩さなかった。
手も握らない。背中もさすらない。
ただ、直立不動の姿勢で、香織さんの部屋の壁を鋭い眼光で見つめている。
「香織、奴はどこだ」
「テレビの裏! 本棚の隙間に逃げ込んだの! 黒くて、テカテカしてて、信じられないスピードで……!」
そう、香織さんの部屋に出た「奴」とは、夏の風物詩にして全人類の敵だった。
「よし、結衣! ドアを閉めろ! 奴を外に出すな!」
大和は私を振り返り、戦場の司令官のような顔で叫んだ。
「え? あ、はい」
私は反射的にドアをパタンと閉める。
そこからの大和の動きは、迅速かつ苛烈だった。
丸めた新聞紙を武器に、テレビの裏へ突撃する。
「そこかぁぁぁ!」という雄叫びと共に、新聞紙が空を切る。
ベッドの上で「キャーッ!」と耳を塞ぐ香織さん。
しかし、大和は彼女のほうを見向きもしない。彼の全神経は、目の前の害虫を駆除することだけに注がれていた。
「仕留めた。香織、ガムテープとティッシュをくれ」
「無理! 私触れない! 大和が捨てて!」
「わかった。結衣、ゴミ袋を開けてくれ」
「了解」
気づけば、私と大和の見事な連携プレーにより、数分後には部屋の平和が守られていた。
大和がゴミ袋の口をしっかり縛り、「よし、これで安心だな」と満足げに笑った時、私は確信した。
(……あ、この人、本当に恋愛感情ないわ。)
そしてそれは、香織さんの側も同じだった。
現に、ゴキブリが退治された瞬間、香織さんは毛布を跳ね除け、大和ではなくなぜか私の方に突進してきたのだ。
『奥さん! 初めまして、佐々木香織です! 本当に、本当にすいません! こんな夜中に、このバカを巻き込んでしまって……! でも私、本当にあれだけは無理で……!』
涙目で私の手を握りしめ、ペコペコと頭を下げる香織さん。
その姿を見て、私の中にあった嫉妬やモヤモヤは、綺麗さっぱり霧散してしまった。
(なんだ。2人とも、ただの『距離感を間違えた大型犬』なだけじゃない)
そう思い至った瞬間、私は怒るのをやめた。というか、怒るのが馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。
*
「――ってことがあってさ、真由美さん。だから、今回もただのエアコン修理だと思うのよね。大和、一応電気工事の資格持ってるし」
居酒屋の席で、私はビールをぐいっと飲み干しながら笑った。
真由美さんは呆気にとられたような顔で私を見ている。
「結衣ちゃん……あんた、器がデカいっていうか、諦観の境地に達してるっていうか……。でもさ、いくら中身がピュアでも、周りから見たら誤解されるわよ?」
「まあ、それはそうなんですけどね」
確かに、世間の目は厳しい。
でも、大和のあの「大切なものを放っておけない」という愚直なまでの優しさは、私に対しても同じ――いや、それ以上に注がれている。
私が風邪を引いた時は、会社を大慌てで早退し、頼んでもいないのにポカリを箱買いし、冷えピタを買い物袋いっぱいに買ってきて、ベッドの横で心配そうに一晩中私を見守ってくれたのだ。
ちょっと鬱陶しかったけど。
不器用で、常識がちょっとズレていて、でも底抜けに優しい私の旦那。
「よし、じゃあ私もこれから香織さんの家に行ってみようかな」
「えっ!? 突撃するの?」
「いえ、大和がエアコン直してる間に、香織さんと一緒にピザでも頼んで女子会しようと思って。大和、作業が終わったらお腹空かせるだろうし」
私は伝票を手に取り、席を立った。
「真由美さん、ごちそうさまです! 先に失礼しますね」
「あ、うん……いってらっしゃい。なんか、すごい夫婦ね、あんたたち」
夜の街へ走り出しながら、私はスマートフォンを取り出し、大和と香織のいるグループLINE(いつの間にか作られていた)にメッセージを送った。
『今から私も行くね。ピザ、何味がいい?』
すぐに香織さんから『神!! テリヤキチキンで!!』と返信が来て、その1秒後に大和から『結衣、夜道気をつけてな! 駅まで迎えに行く!』とスタンプが飛んでくる。
誰かにとっての「最優先」を奪い合う必要なんて、最初からないのだ。
だって、大和の優しさは、誰かを排除するためのものじゃない。ただ、目の前で困っている人を、全員まとめて抱え込もうとする不器用な両手なのだから。
私はクスッと笑いながら、2人が待つアパートへと足を速めた。
私たちの少し変わった、けれど最高に賑やかな新婚生活は、まだ始まったばかりだ。
(第1話・了)




