『眠れぬ夜』
迅は寝台へ腰掛けたまま、眠れずにいた。
「…………」
横になって目を閉じても、すぐに今日見たものが浮かんでくる。
雨に濡れた街。
霧の向こうへ続く森。
そして、この街で聞いた話。
『……あの子、悪魔族だったから』
『石を投げられてた』
『街を出て、そのまま雨の森の方へ……』
たったそれだけの話なのに、何度も頭の中で繰り返された。
宿の外では、フォルが軒下に伏せている。
宿の主人に頼み込み、せめて雨を避けられる場所だけは借りていた。時折聞こえる小さな物音からして、フォルも完全には眠っていないのだろう。
「……俺だけ眠れるわけないか」
迅は小さく息を吐いた。
本当なら、今すぐにでも雨の森へ向かいたかった。
ルシェラが消えた方向へ。
一秒でも早く。
だが、外では雨が降り続いている。
日が落ちた森へ無理に入れば、自分たちまで道を失うかもしれない。フォルが匂いを追えるとしても、この雨では痕跡そのものが薄れていく。
焦れば判断を間違える。
それは、聖王国で嫌というほど思い知らされた。
「……くそ」
だからこそ、今ここで待つしかないことが苦しかった。
迅は握っていた拳を、ゆっくりと開く。
街で聞いた話を思い返すたび、胸の奥に熱いものが込み上げてくる。
ルシェラは拒絶された。
食べ物を買おうとしても追い払われ、宿にも泊めてもらえなかった。
最後には、石まで投げられた。
(……俺がいたら)
そこまで考えたところで、迅は目を伏せた。
聖王国での自分が、鮮明に蘇ったからだ。
逃げ惑う人々。
血を流して倒れたアレク。
傷ついたルシェラ。
そして――セイルを殺すことしか考えられなくなった自分。
「あの時の俺がいたら……」
果たして、本当に良かったのだろうか。
ルシェラへ石を投げる者を目の前にして、自分は冷静でいられただろうか。
彼女を守るために剣を抜けただろうか。
それとも、また怒りだけに任せて剣を振るっていたのか。
「…………」
答えは出なかった。
ただ一つ分かるのは、あの危うさが自分の中から消えたわけではないということだった。
◇ ◇ ◇
迅は寝台から立ち上がり、窓へ向かった。
少しだけ開く。
冷たい風と雨粒が入り込み、火照っていた頬を濡らした。
昼間、自分たちが越えてきた森が遠くにあるはずだった。
そのさらに先。
ルシェラが向かったという雨の森。
だが今は、すべてが闇と雨へ沈み、森の輪郭すら見ることができない。
「……ルシェラ」
名前を呼んだ。
もちろん、返事はない。
(何を考えてるんだよ)
何も言わずに、自分たちの前からいなくなった。
一人でエルフ領へ入り。
この街で拒絶されても抵抗せず、そのままさらに危険な森へ進んでいった。
なぜなのか。
考えても分からない。
聖王国で起きたことが原因なのかもしれない。
セイルから「大厄災」と呼ばれたことが関係しているのかもしれない。
自分が怒りに飲まれていく姿を見たことも、何か影響しているのかもしれない。
それとも。
三百年前に起きた何かが、今のルシェラを動かしているのか。
考えれば考えるほど、可能性ばかりが増えていく。
「……分からないな」
迅は窓枠へ手を置いた。
そもそも、自分はルシェラの過去をほとんど知らない。
彼女は昔のことを自分から語ろうとはしない。
聞いても答えないことが多い。
時には怒る。
時には、何も聞こえなかったかのように話を逸らす。
それでも、一緒に旅をする中で少しずつ分かってきたことはあった。
傷ついても、すぐに「平気」と言う。
誰かから礼を言われると、どう返せばいいのか分からなくなる。
好意を向けられれば、ほんの一瞬だけ戸惑った顔をする。
そして。
セリウスのことになると、必ず表情が変わる。
「……セリウス」
迅は小さくその名を口にした。
黒淵の奈落で出会った男。
ルシェラを守ろうとした人。
そして、自分へ黒剣を託した人。
セリウスを失ったことが、今もルシェラの中へ深く残っている。
そこまでは迅にも分かる。
だからといって、それが今回姿を消した理由だと決めつけることはできない。
(俺のことが嫌になった可能性だってあるしな)
一瞬、本気でそんな可能性を考えた。
「…………」
なぜか胸が妙に痛んだ。
「いや……それならそれで、直接言えよ」
思わず呟き、自分でも少しおかしくなる。
こんな時なのに。
それでも、その馬鹿げた想像のおかげで、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
迅は窓を閉める。
雨音が僅かに遠くなった。
机の上では、蝋燭の炎が再び静かに揺れている。
◇ ◇ ◇
ルシェラが何を考えているのか。
なぜ、自分たちの前からいなくなったのか。
迅には分からない。
なら。
分からないままでいい。
ここで勝手に理由を決めつけるよりも、追いついて本人に聞けばいい。
「……何でいなくなったんだって」
怒鳴るつもりはない。
責めるつもりもない。
ただ、聞く。
もしすぐに話してくれないなら。
話してくれるまで、隣にいればいい。
それで怒られるなら、その時はその時だ。
「ほんと面倒だな……」
そう言いながら、迅の口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
ルシェラのことを言ったのか。
自分のことを言ったのか。
それは迅自身にも分からなかった。
寝台へ戻り、壁際に置いていた黒剣へ手を伸ばす。
柄へ触れた。
「…………」
聖王国で、自分の怒りを止めた剣。
あの時、黒剣がなぜ突然重くなったのかは、まだ分からない。
だが、あの瞬間に止まらなければ、自分はセイルを殺していた。
フォルにも止められた。
なら今度は、自分自身で止まらなければならない。
怒りに任せて走るのではなく。
ルシェラのところへ辿り着くために、今必要なことを選ぶ。
「…………」
明日。
空が明るくなれば、すぐに出る。
雨が残っていたとしても、フォルと共にルシェラの痕跡を追う。
(追いつく)
何を言えばいいのかは、まだ分からない。
何が正しいのかも分からない。
ルシェラが、本当にもう自分と一緒に歩きたくないと思っている可能性だってある。
それでも。
何も言わないまま姿を消して、それですべて終わりになることだけは嫌だった。
「今度は、置いていかせない」
静かな声が、狭い部屋へ落ちる。
それは、ルシェラの気持ちを勝手に決める言葉ではなかった。
彼女が本当は何を考えているのか。
それを本人の口から聞くまでは、このまま離れない。
迅自身が、そう決めただけだった。
夜はまだ明けない。
雨も降り続いている。
それでも迅は、もう一度窓の向こうへ目を向けた。
その先。
深い雨の森のどこかにいるはずの、銀白色の少女を思いながら。
眠れない夜は、静かに更けていった。




