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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第3章『エルフ王国編』

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『足跡の痕跡』

 エルフ領の森は、静かすぎるほど静かだった。


 枝葉は整い、道はまるで自然そのものが導いているかのように続いている。獣の気配さえ薄く、人間の暮らす森にあるような荒々しさがほとんど感じられない。


 その静けさが、かえって不気味だった。

 迅は黙ったまま森を進んでいた。

 少し先では、フォルが鼻先を地面へ近づけ、匂いを確かめながら迷いなく歩いている。


 やがて霧が薄くなり、木々の隙間から街の輪郭が見え始めた。


 石造りの門。

 丁寧に造られた木造の建物。

 美しく整えられた石畳。


 規模は小さいが、人間の街とはどこか違った落ち着きと品がある。


「……ここか」


 迅が呟くと、フォルが低く鳴いた。

 ルシェラの匂いは、この場所で一度濃くなっている。

 間違いなく、彼女はこの街へ入った。


「行こう」


 迅はフォルと共に門をくぐった。

 その瞬間、周囲の空気が僅かに変わる。


 さっきまで普通に通りを歩いていた住民たちが足を止め、次々とこちらを見る。市場から聞こえていた声も少しずつ小さくなり、代わりに囁き声が増えていった。


「……人間?」

「外から来たのか」

「森を越えて?」


 向けられているのは、驚きと警戒が入り混じった視線。

 まだ明確な敵意ではない。


 迅は特に反応せず、そのまま街の中を進んだ。

 フォルも自然に隣を歩いている。


 白い巨体を見ると、住民たちはさらに一歩だけ距離を取った。

 フォルそのものを恐れているというより、見慣れない存在を警戒しているのだろう。


 この街にとって、迅たちは完全な余所者だった。


◇ ◇ ◇


 街の中央には、小さな広場があった。

 噴水と花壇。

 その周囲には石造りの腰掛けが並んでいる。


 一見すれば、穏やかで平和な街だった。

 争ったような跡もない。


 だが。


「…………」


 迅は周囲を見回した。

 ルシェラの姿はない。


(ここには来たはずだ)


 フォルが再び地面へ鼻を近づける。

 匂いそのものは残っている。

 だが、ここから先は複数の足跡と重なり、少し乱れていた。


「……誰かと揉めたのか」


 迅が小さく呟く。

 フォルはすぐに顔を上げ、別の通りへ向かった。


 迅も後を追う。

 その途中。


「…………」


 微かに、血の匂いがした。

 迅の胸が重く沈む。


「……怪我したのか」


 声が低くなった。


「グルル……」


 フォルも低く唸り、さらに先へ進む。

 足取りは街の中央から外れ、宿屋の並ぶ通りへ続いていた。


 やがてフォルが、一軒の宿の前で足を止めた。

 扉には札が掛かっている。


《満室》


 だが、中には確かに人の気配がある。

 まるで外の様子を窺いながら、息を潜めているようだった。

 迅は扉の前へ立ち、軽く叩いた。


 コン、コン。


「…………」


 返事はない。

 もう一度叩く。


「泊まりたいわけじゃない。少し話を聞きたいだけだ」


 しばらく沈黙が続いた。

 やがて、扉がほんの少しだけ開く。

 隙間から顔を覗かせたのは、中年のエルフだった。


 その目には強い警戒があり、どこか怯えてもいる。


「……人間が、何の用だ」


 迅は刺激しないよう、僅かに頭を下げた。


「ここに、悪魔族の女の子が来なかったか?」

「…………」


 その瞬間。

 扉が閉まりかけた。


「知らん」

「待ってくれ」


 迅は無理に扉を押さえず、落ち着いた声で続ける。


「俺は争いに来たんじゃない。ただ、彼女を探してる」

「嘘をつけ!」


 扉の向こうから、エルフの声が荒くなる。


「悪魔族が来たんだぞ! 災いを呼ぶ! まさか、お前らが連れてきたのか!」

「…………」


 迅は小さく息を吐いた。


 胸の奥に、怒鳴り返したい衝動が湧く。

 だが、それを押し込めた。


「……俺は、彼女を探してるだけだ」

「探す? 悪魔を?」

「仲間だ」

「…………」


 その一言で、扉の向こうが静まり返った。


「……狂ってる」


 中年のエルフが小さく呟く。


「悪魔と一緒にいる人間なんて、聞いたことがない」

「ここに来たのは分かってる」


 迅は表情を変えずに尋ねた。


「どこへ行った?」

「…………」


 返事はない。

 だが、扉の奥で誰かが息を呑む音が聞こえた。


 そして。


「……追い出した」


 小さな声がした。

 先ほどの男ではない。

 若い女性の声だった。


「おい」


 男が止めようとする。

 だが、扉が少しだけ開き、今度は若いエルフの女性が顔を覗かせた。


 怯えてはいる。

 けれど、その表情にはどこか後ろめたさが滲んでいた。


「……あの子、悪魔族だったから」


 迅はすぐに尋ねた。


「怪我をしてたか?」

「…………」


 女性が目を伏せる。


「……石を投げられてた」

「…………」


 その言葉が、迅の胸へ深く刺さった。


 自然と拳が握られる。

 指先へ力が入り、白くなる。


 それでも、声を荒らげることはしなかった。


「……どうして、そんなことを」


 女性は唇を噛んだ。


「怖いのよ。悪魔族は」

「…………」


 迅は何も言えなかった。


 怖い。


 その一言で、目の前にいる相手が何をしたのかさえ見ようとしない。


 怖いから追い出す。

 怖いから石を投げる。

 怖いから傷つける。


 迅には、それが正しいことだとは思えなかった。

 だが今、ここでそのことを責めても意味はない。


 知りたいのは一つだけだった。


「どこへ行った?」


 女性が小さく指を差す。


「街を出て、そのまま雨の森の方へ……」

「雨の森?」

「霧が深くて、道も分かりにくい森よ。普段は誰も近づかない」


 迅は指差された方向へ目を向けた。

 街の外。

 その先には、濃い霧に覆われた森が広がっている。


「…………」


 ルシェラは、そこへ一人で入っていった。


 街で拒絶され。

 石を投げられ。

 怪我をしたまま。


(……俺が遅かった)


 迅は一瞬だけ目を閉じた。


 もう少し早く追いついていれば。

 そんな考えが浮かびかける。

 だが、すぐに首を振った。


 今それを考えても、ルシェラの居場所は分からない。

 迅は扉の前で静かに言った。


「ありがとう」

「……え?」


 女性が驚いたように目を見開く。


「怒らないの?」

「…………」


 迅はゆっくりと首を横に振った。


「怒ってはいるよ」

「……」

「でも、ここで怒鳴っても彼女は戻ってこないから」


 今やるべきことは、別にある。

 迅は踵を返した。


「行こう、フォル」

「ワウ」


 二人が歩き始めると、街の住民たちが遠巻きにこちらを見る。

 フォルが小さく唸っただけで、何人かがさらに距離を取った。


 迅はそんな視線を気にすることなく、街の出口へ向かった。


◇ ◇ ◇


 門の近くまで来たところで、迅は足を止めた。

 街の外へ出れば、すぐに雨の森へ向かえる。


 今すぐ走り出したい。

 胸の中では、ずっとその気持ちが膨らんでいる。


 だが、街の外を見る。

 雨は先ほどより強くなっていた。


 さらに夕刻が近づき、深い森の中はすでに薄暗い。

 霧も濃く、遠くまで見通せない。


「…………」


 迅は拳を握る。

 焦って入り、道を見失えば余計に時間を失う。


 雨で匂いや足跡が薄くなっている以上、暗闇の中で無理に追えば、フォルでも痕跡を読み違えるかもしれない。


 それに、森へ入るための食料や道具も必要だった。


「……今日は準備する」


 フォルが迅を見る。


「明るくなったら、すぐ追う」

「ワウ」


 本当なら、一秒でも早く行きたい。


 それでも。


 聖王国で怒りに飲まれた自分を思い出す。

 焦って感情だけで動けば、また判断を間違えるかもしれない。


 今度こそ、間違えたくなかった。


◇ ◇ ◇


 迅は街の外れにある、小さな宿を訪れた。

 先ほどの宿とは違う、少し古びた建物だった。

 扉を叩くと、しばらくして年老いたエルフの男が姿を現す。


「……人間か」

「ああ」


 迅は頷いた。


「一晩だけ泊めてほしい」


 老人は迅を見たあと、その隣にいるフォルへ視線を向けた。

 しばらく迷った末、深くため息を吐く。


「……獣は外だ」

「グルル……」


 フォルが不満そうに唸りかける。


「フォル」


 迅が目で制した。


「大丈夫。すぐ近くにいるから」

「…………」


 フォルは納得していない様子だったが、それ以上は唸らなかった。


「分かった」


 迅が答えると、老人は扉を開いた。


◇ ◇ ◇


 宿の中は狭かった。

 古い木の匂い。

 簡素な寝台。

 小さな灯り。


 それだけの部屋だった。


 迅は荷物を置くと、すぐに窓辺へ向かった。

 外では雨が降り続けている。


 森の方角は深い霧に覆われ、その境目さえほとんど見えなかった。


「…………」


 ルシェラは、今もあの森のどこかにいる。

 怪我をしているかもしれない。


 一人でいる。

 そう考えるだけで胸が熱くなる。


(……ルシェラ)


 迅は窓枠へ手を置いた。

 追いついたら、何を言えばいいのか。


 どうして一人で離れたのか。

 何があったのか。

 まだ何も分からない。


 それでも。


「……必ず追いつく」


 静かに呟く。

 雨音が、絶え間なく窓を叩いていた。

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