『足跡の痕跡』
エルフ領の森は、静かすぎるほど静かだった。
枝葉は整い、道はまるで自然そのものが導いているかのように続いている。獣の気配さえ薄く、人間の暮らす森にあるような荒々しさがほとんど感じられない。
その静けさが、かえって不気味だった。
迅は黙ったまま森を進んでいた。
少し先では、フォルが鼻先を地面へ近づけ、匂いを確かめながら迷いなく歩いている。
やがて霧が薄くなり、木々の隙間から街の輪郭が見え始めた。
石造りの門。
丁寧に造られた木造の建物。
美しく整えられた石畳。
規模は小さいが、人間の街とはどこか違った落ち着きと品がある。
「……ここか」
迅が呟くと、フォルが低く鳴いた。
ルシェラの匂いは、この場所で一度濃くなっている。
間違いなく、彼女はこの街へ入った。
「行こう」
迅はフォルと共に門をくぐった。
その瞬間、周囲の空気が僅かに変わる。
さっきまで普通に通りを歩いていた住民たちが足を止め、次々とこちらを見る。市場から聞こえていた声も少しずつ小さくなり、代わりに囁き声が増えていった。
「……人間?」
「外から来たのか」
「森を越えて?」
向けられているのは、驚きと警戒が入り混じった視線。
まだ明確な敵意ではない。
迅は特に反応せず、そのまま街の中を進んだ。
フォルも自然に隣を歩いている。
白い巨体を見ると、住民たちはさらに一歩だけ距離を取った。
フォルそのものを恐れているというより、見慣れない存在を警戒しているのだろう。
この街にとって、迅たちは完全な余所者だった。
◇ ◇ ◇
街の中央には、小さな広場があった。
噴水と花壇。
その周囲には石造りの腰掛けが並んでいる。
一見すれば、穏やかで平和な街だった。
争ったような跡もない。
だが。
「…………」
迅は周囲を見回した。
ルシェラの姿はない。
(ここには来たはずだ)
フォルが再び地面へ鼻を近づける。
匂いそのものは残っている。
だが、ここから先は複数の足跡と重なり、少し乱れていた。
「……誰かと揉めたのか」
迅が小さく呟く。
フォルはすぐに顔を上げ、別の通りへ向かった。
迅も後を追う。
その途中。
「…………」
微かに、血の匂いがした。
迅の胸が重く沈む。
「……怪我したのか」
声が低くなった。
「グルル……」
フォルも低く唸り、さらに先へ進む。
足取りは街の中央から外れ、宿屋の並ぶ通りへ続いていた。
やがてフォルが、一軒の宿の前で足を止めた。
扉には札が掛かっている。
《満室》
だが、中には確かに人の気配がある。
まるで外の様子を窺いながら、息を潜めているようだった。
迅は扉の前へ立ち、軽く叩いた。
コン、コン。
「…………」
返事はない。
もう一度叩く。
「泊まりたいわけじゃない。少し話を聞きたいだけだ」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、扉がほんの少しだけ開く。
隙間から顔を覗かせたのは、中年のエルフだった。
その目には強い警戒があり、どこか怯えてもいる。
「……人間が、何の用だ」
迅は刺激しないよう、僅かに頭を下げた。
「ここに、悪魔族の女の子が来なかったか?」
「…………」
その瞬間。
扉が閉まりかけた。
「知らん」
「待ってくれ」
迅は無理に扉を押さえず、落ち着いた声で続ける。
「俺は争いに来たんじゃない。ただ、彼女を探してる」
「嘘をつけ!」
扉の向こうから、エルフの声が荒くなる。
「悪魔族が来たんだぞ! 災いを呼ぶ! まさか、お前らが連れてきたのか!」
「…………」
迅は小さく息を吐いた。
胸の奥に、怒鳴り返したい衝動が湧く。
だが、それを押し込めた。
「……俺は、彼女を探してるだけだ」
「探す? 悪魔を?」
「仲間だ」
「…………」
その一言で、扉の向こうが静まり返った。
「……狂ってる」
中年のエルフが小さく呟く。
「悪魔と一緒にいる人間なんて、聞いたことがない」
「ここに来たのは分かってる」
迅は表情を変えずに尋ねた。
「どこへ行った?」
「…………」
返事はない。
だが、扉の奥で誰かが息を呑む音が聞こえた。
そして。
「……追い出した」
小さな声がした。
先ほどの男ではない。
若い女性の声だった。
「おい」
男が止めようとする。
だが、扉が少しだけ開き、今度は若いエルフの女性が顔を覗かせた。
怯えてはいる。
けれど、その表情にはどこか後ろめたさが滲んでいた。
「……あの子、悪魔族だったから」
迅はすぐに尋ねた。
「怪我をしてたか?」
「…………」
女性が目を伏せる。
「……石を投げられてた」
「…………」
その言葉が、迅の胸へ深く刺さった。
自然と拳が握られる。
指先へ力が入り、白くなる。
それでも、声を荒らげることはしなかった。
「……どうして、そんなことを」
女性は唇を噛んだ。
「怖いのよ。悪魔族は」
「…………」
迅は何も言えなかった。
怖い。
その一言で、目の前にいる相手が何をしたのかさえ見ようとしない。
怖いから追い出す。
怖いから石を投げる。
怖いから傷つける。
迅には、それが正しいことだとは思えなかった。
だが今、ここでそのことを責めても意味はない。
知りたいのは一つだけだった。
「どこへ行った?」
女性が小さく指を差す。
「街を出て、そのまま雨の森の方へ……」
「雨の森?」
「霧が深くて、道も分かりにくい森よ。普段は誰も近づかない」
迅は指差された方向へ目を向けた。
街の外。
その先には、濃い霧に覆われた森が広がっている。
「…………」
ルシェラは、そこへ一人で入っていった。
街で拒絶され。
石を投げられ。
怪我をしたまま。
(……俺が遅かった)
迅は一瞬だけ目を閉じた。
もう少し早く追いついていれば。
そんな考えが浮かびかける。
だが、すぐに首を振った。
今それを考えても、ルシェラの居場所は分からない。
迅は扉の前で静かに言った。
「ありがとう」
「……え?」
女性が驚いたように目を見開く。
「怒らないの?」
「…………」
迅はゆっくりと首を横に振った。
「怒ってはいるよ」
「……」
「でも、ここで怒鳴っても彼女は戻ってこないから」
今やるべきことは、別にある。
迅は踵を返した。
「行こう、フォル」
「ワウ」
二人が歩き始めると、街の住民たちが遠巻きにこちらを見る。
フォルが小さく唸っただけで、何人かがさらに距離を取った。
迅はそんな視線を気にすることなく、街の出口へ向かった。
◇ ◇ ◇
門の近くまで来たところで、迅は足を止めた。
街の外へ出れば、すぐに雨の森へ向かえる。
今すぐ走り出したい。
胸の中では、ずっとその気持ちが膨らんでいる。
だが、街の外を見る。
雨は先ほどより強くなっていた。
さらに夕刻が近づき、深い森の中はすでに薄暗い。
霧も濃く、遠くまで見通せない。
「…………」
迅は拳を握る。
焦って入り、道を見失えば余計に時間を失う。
雨で匂いや足跡が薄くなっている以上、暗闇の中で無理に追えば、フォルでも痕跡を読み違えるかもしれない。
それに、森へ入るための食料や道具も必要だった。
「……今日は準備する」
フォルが迅を見る。
「明るくなったら、すぐ追う」
「ワウ」
本当なら、一秒でも早く行きたい。
それでも。
聖王国で怒りに飲まれた自分を思い出す。
焦って感情だけで動けば、また判断を間違えるかもしれない。
今度こそ、間違えたくなかった。
◇ ◇ ◇
迅は街の外れにある、小さな宿を訪れた。
先ほどの宿とは違う、少し古びた建物だった。
扉を叩くと、しばらくして年老いたエルフの男が姿を現す。
「……人間か」
「ああ」
迅は頷いた。
「一晩だけ泊めてほしい」
老人は迅を見たあと、その隣にいるフォルへ視線を向けた。
しばらく迷った末、深くため息を吐く。
「……獣は外だ」
「グルル……」
フォルが不満そうに唸りかける。
「フォル」
迅が目で制した。
「大丈夫。すぐ近くにいるから」
「…………」
フォルは納得していない様子だったが、それ以上は唸らなかった。
「分かった」
迅が答えると、老人は扉を開いた。
◇ ◇ ◇
宿の中は狭かった。
古い木の匂い。
簡素な寝台。
小さな灯り。
それだけの部屋だった。
迅は荷物を置くと、すぐに窓辺へ向かった。
外では雨が降り続けている。
森の方角は深い霧に覆われ、その境目さえほとんど見えなかった。
「…………」
ルシェラは、今もあの森のどこかにいる。
怪我をしているかもしれない。
一人でいる。
そう考えるだけで胸が熱くなる。
(……ルシェラ)
迅は窓枠へ手を置いた。
追いついたら、何を言えばいいのか。
どうして一人で離れたのか。
何があったのか。
まだ何も分からない。
それでも。
「……必ず追いつく」
静かに呟く。
雨音が、絶え間なく窓を叩いていた。




