『雨の森、沈む心』
雨が降り始めたのは、森へ入ってしばらくしてからだった。
最初は葉を叩く音が、遠くで囁くように聞こえただけ。
それが次第に増え、森全体が薄い膜で包まれていく。
空は暗い。
霧が濃く、木々の輪郭がぼやける。
湿った匂いが肺に染み込み、呼吸をするだけで冷える。
ルシェラはフードを被ったまま歩いていた。
街で投げられた石の痛みが、頬と肩に残っている。
血はもう乾き、傷口はひりつく。
だが――それよりも。
胸の奥の空洞が、どこまでも冷たかった。
(……やっぱり)
追い出された時、驚きはなかった。
怒りも、悔しさも、ほとんど湧かなかった。
それが一番、惨めだった。
本当は、怒ってもいいはずなのに。
本当は、理不尽だと思っていいはずなのに。
でも、ルシェラは思ってしまう。
(私が悪い)
悪魔族が嫌われるのは当然だ。
恐れられるのは当然だ。
自分は「そういう存在」だと、
雨が強くなる。
髪が濡れ、頬を伝う雫が血なのか雨なのか分からなくなる。
ルシェラは足を止めなかった。
止まったら、心が追いついてしまう。
考えたくない記憶が、追いついてしまう。
(……迅)
名前を思い浮かべただけで、胸が痛む。
聖王国を出た時。
迅は静かに言った。
「君が何者でも、俺は君を守る」
その言葉が、優しすぎた。
優しさは救いになる。
だが、ルシェラにとっては違う。
優しさは、死の匂いを連れてくる。
(……セリウスみたいに)
思い出すのは、あの日の光景。
笑っていた。
自分を守ると言った。
手を伸ばしてくれた。
そして――消えた。
雨が肩を叩く。
木々がざわめき、風が冷たく吹き抜ける。
ルシェラはふらつきながら、木の根元に手をついた。
息が苦しい。
痛いのは身体じゃない。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられている。
(私は……何をしてるんだろう)
追い出されて、森に入って。
雨に濡れて、ただ歩いて。
どこへ行くのかも分からない。
逃げているのか。
消えようとしているのか。
答えは、薄い霧の中に沈んでいく。
――ふと、思う。
(私は死んだ方がいい)
その考えが浮かんだ瞬間、驚きはなかった。
怖さもなかった。
ただ、自然にそう思った。
世界はずっと、そう言ってきた。
お前は災いだ。お前は穢れだ。お前は悪だ。
聖王国でエルフが吐き捨てた言葉が蘇る。
――大厄災の悪魔。
それは噂でも冗談でもない。
確信のように言われた。
実際、矢は降った。
民が倒れた。
アレクが傷ついた。
そしてルシェラがいた。
(私がいるから、巻き込まれる)
(私がいるから、戦いが起きる)
ルシェラは唇を噛み、震える息を吐いた。
雨が強くなる。
視界が滲む。
泣いているわけじゃない。
ただ、雨が目に入っているだけだ。
(……泣けない)
涙すら出ない。
悲しすぎると、涙は出ない。
ただ、冷たい。
冷たさだけが残る。
(迅のそばにいれば、迅が死ぬ)
その考えが、胸の奥で確信に変わる。
迅は強い。
誰よりも強い。
でも、強さは万能じゃない。
強さは人を守る代わりに、心を削る。
聖王国で、迅は怒りかけた。
あの怒りは、危うかった。
もし自分がそばにいれば、また同じことが起きる。
もっと大きな敵が来る。
もっと多くの血が流れる。
そしていつか――
迅はセリウスと同じように、笑って死ぬ。
ルシェラはその未来を想像した瞬間、息が止まりそうになった。
(嫌だ)
嫌だ。
そんなのは嫌だ。
でも、その未来を止める方法はひとつしかない。
(……私が消える)
それだけだ。
雨が森を覆い、世界が薄暗くなる。
霧が濃く、足元の土は泥になっていく。
ルシェラは歩き続けた。
行く先は決めていない。
ただ、遠くへ。
誰にも届かない場所へ。
その時だった。
背後で、枝が折れる音がした。
――パキ。
ルシェラは足を止めた。
呼吸が一瞬、止まる。
耳が痛いほど静かになる。
雨音だけが、強く響く。
次に聞こえたのは、足音だった。
複数。
静かで、一定で、迷いがない。
ルシェラはゆっくり振り返った。
霧の向こうに、影がある。
長い耳。
細身の体。
弓を構えた姿。
エルフだ。
数は……五、いや六。
全員が武装している。
雨に濡れた葉の間から、冷たい視線だけが突き刺さる。
ルシェラは動かなかった。
逃げる気も、戦う気も、湧かなかった。
ただ、思った。
(……やっぱり)
追いつかれる。
見つかる。
捕まる。
自分がどこへ行こうと、世界は許さない。
先頭のエルフが一歩前へ出る。
「悪魔族」
声は低く、雨より冷たい。
「なぜ、この森にいる」
ルシェラは答えなかった。
答える言葉がない。
理由なんてない。
ただ、ここにいるだけだ。
エルフたちは弓を引き絞る。
矢の先が、ルシェラの胸を狙う。
雨が降り続く。
霧の中で、銀の影が立ち尽くす。
逃げない。
抵抗しない。
ただ、沈む心だけを抱えたまま――
ルシェラは、追っ手に囲まれていた。




