『優しさの温もり』
朝の森は、静かだった。
夜露が草を濡らし、薄い霧が地面を這う。
焚き火の跡は灰になり、冷えた匂いだけが残っている。
鳥の声が一度だけ響いた。
それが、妙に遠く感じた。
迅は目を開けた。
視界に入ったのは、木々の隙間から差し込む淡い光。
そして――いつもなら隣にあるはずの気配。
何もない。
「……ルシェラ?」
呼んだ声は小さく、森に溶けた。
返事はない。
迅はゆっくりと上体を起こし、周囲を見回した。
寝床は崩れていない。
荷物もそのまま。
争った跡も、血もない。
ただ――彼女だけがいない。
一瞬、胸がきゅっと縮む。
(……どこへ?)
迅は深く息を吸い、吐いた。
焦りが表に出ないように、無意識に呼吸を整える。
感情が乱れると判断が鈍る。
今は、冷静でいなければならない。
迅は立ち上がり、辺りを歩いた。
草が少し倒れている。
土に浅い跡が残っている。
足跡だ。
ルシェラのものだ。
迅は膝をつき、指先で土をなぞった。
湿った土が爪の隙間に入り込む。
――新しい。
夜明け前に動いた。
「……フォル」
低い声で呼ぶと、茂みの影が揺れた。
フォルが現れる。
既に状況を理解しているようだった。
迅は短く言った。
「追えるか」
フォルは鼻を地面に近づけ、息を吸った。
次の瞬間、進む方向を定めるように顔を上げる。
迅は頷き、剣を腰に結び直した。
動きは静かで、乱れがない。
だが胸の奥だけは、落ち着かなかった。
(……どうして一人で)
言葉が足りないのは、いつものことだ。
ルシェラは、自分のことを話さない。
それでも――今までは隣にいた。
黙っていても、同じ火を見て、同じ夜を越えてきた。
なのに、今は。
迅はフォルの後ろを歩きながら、昨夜のことを思い出していた。
焚き火の前で、ルシェラはいつもより静かだった。
いつも通り突き放すような口調で、
それでも、どこか心ここにあらずのような目をしていた。
(……俺が気づけなかっただけか)
思考が痛い方向へ進む。
聖王国での戦い。
エルフの襲撃。
無数の光の矢。
傷つく民衆。倒れる子ども。血。
あれは、忘れられない。
迅は無意識に拳を握り、指先に力が入った。
(……あれが原因か?)
あの襲撃は、明らかにこちらを狙っていた。
つまり、迅とルシェラを。
(俺たちが、巻き込んだ……?)
そう考えた瞬間、胸の奥が冷える。
聖王国を救ったはずなのに。
民を守ったはずなのに。
結局、誰かを傷つけた。
ルシェラはその場で癒した。
回復の光で人々を助けた。
だが、助けたことと、巻き込んだことは別だ。
「……」
迅は唇を噛んだ。
ルシェラが何を思ったのかは分からない。
だが、聖王国で彼女は確かに傷ついた。
身体ではなく――もっと深い場所を。
フォルが立ち止まった。
迅も足を止める。
前方の木々の色が変わっている。
森の空気が、微妙に違う。
静けさが、整いすぎている。
風が吹いても、葉擦れの音が均一で、冷たい。
まるで、誰かが管理している森のようだった。
迅はそこに立ち、目を細めた。
「……エルフ領」
フォルは鼻を鳴らし、先へ進む。
匂いは続いている。
ルシェラは、この境界を越えた。
迅は一歩、森の中へ踏み込んだ。
空気が変わる。
肌を撫でる風が冷たく、薄い霧が張り付く。
エルフ領に入れば危険は増える。
それはルシェラだって分かっているはずだ。
それでも、ここへ来た。
つまり――何かに追われていたか、
あるいは、ここへ来る理由があった。
迅は歩きながら、心の中で何度も問いかけた。
(なぜだ)
(何が怖かった)
(俺が、何かしたのか)
答えは出ない。
ただひとつだけ、確かなことがある。
――ルシェラは逃げたわけじゃない。
逃げたのなら、匂いも足跡も消す。
フォルに追わせない。
自分を見つけられないようにする。
だが、これは違う。
足跡はまっすぐだ。
迷いがない。
それが逆に、怖い。
迅は喉の奥で小さく息を吐いた。
「……守ろうとしたのか」
声に出した瞬間、胸が痛んだ。
もしそうなら、ルシェラは――
自分のために消えたことになる。
迅はその考えを振り払うように、歩幅を速めた。
守られるために旅をしているわけじゃない。
彼女を一人にするために隣にいるわけじゃない。
「……置いていかせない」
呟いた声は静かだった。
怒りではない。
誓いでもない。
ただの決意だった。
フォルが先を行き、霧の中を切り裂くように進む。
迅はその背中を追う。
森の奥へ、さらに深く。
銀の影を追いかけるように。
冷たい風が頬を打つ。
だが迅の胸には、まだ残っていた。
あの夜の焚き火の温もり。
隣にいたはずの、優しさの温もり。
それが、今は――
痛みとして残っている。
迅は唇を結び、視線を前へ向けた。
必ず追いつく。
理由を聞くために。
そして――一人で抱えさせないために。
森の境界を越えた先に、
エルフ領の冷たい空気が広がっていた。




