『消えた銀の影』
聖王国を離れて、数日が過ぎた。
街道は静かで、あの日の王都の喧騒が遠い昔のことのように感じられる。
森道に入ると風の匂いが変わり、土が柔らかくなる。夜になるたび、焚き火の火だけが小さな世界を作った。
その夜も、いつも通りだった。
迅が薪を組み、火を起こす。フォルは少し離れた場所に伏せ、耳だけを動かして周囲を探る。
ルシェラは焚き火の向こうに座り、膝を抱えた。
「寒いか」
迅が言った。
その声は低く、穏やかで、余計な飾りがない。
「寒くない」
ルシェラはぶっきらぼうに返した。
いつものやりとり。いつもの距離感。
それなのに、胸の奥が落ち着かない。
(……この温もりが、こわい)
焚き火の熱じゃない。
迅がそこにいるという事実が、妙にあたたかい。
そしてそのあたたかさが、なぜか――恐怖に変わる。
――セリウス。
名を口にしなくても、影は心の隙間から入り込んでくる。
あの人も、こういうふうに、最後まで優しかった。
守ると決めて、笑って、そして――いなくなった。
ルシェラはぎゅっと指先を握りしめた。
爪が掌に食い込む痛みで、思考を止めようとする。
(違う。迅は違う)
(……違うのに)
焚き火を挟んで、迅が刀を手入れしている。
光を受けた刃は、ただ静かだ。
あの日の王都で、迅が見せた“怒り”だけが、どうしても脳裏に残っている。
あのまま斬っていたら。
あのまま殺していたら。
迅は、きっと戻れなくなっていた。
――怒りで均衡が崩れる。
ルシェラは知っている。
優しい者ほど、壊れる瞬間が怖い。
守ろうとする者ほど、守れなかった痛みで、深く崩れる。
「……なに、見てんだよ」
迅がふと顔を上げた。
焚き火の揺らめき越しに目が合う。
「別に」
ルシェラは視線を逸らす。
逸らした先に、フォルがいる。丸くなって眠っているが、尻尾の先がわずかに揺れた。完全には眠っていない。
ルシェラの心に、あの“言葉”が突き刺さったままだった。
――大厄災の悪魔。
エルフの討伐隊が吐き捨てるように言った呼び名。
聖王国を襲った光の矢。
民が倒れて、アレクが傷ついて、子どもが泣いて――自分は、またそこにいた。
癒した。助けた。感謝もされた。
それでも、帳尻は合わない気がした。
(私がいなければ、そもそも起きなかった)
(私が生きてるから、誰かが巻き込まれる)
胸の奥がひやりとする。
冷たい水を飲み込んだみたいに、息が細くなる。
聖王国で、あの少女が手を握って言った。
「ありがとう」と。
「きれいで強い魔法使いになる」と。
思い出すほど、心が揺れる。
あたたかい。眩しい。
そして――怖い。
憧れられるほど、自分の存在が重くなる。
期待されるほど、裏切る未来が近づく気がする。
(私は……そんなものに応えられない)
(私は……幸せのそばにいちゃいけない)
迅が火を小さく整え、寝床を作り始めた。
「早く寝よう。明日も歩くから」
「……わかってる」
ルシェラは立ち上がり、少し離れた場所に寝転ぶ。
背を向けても、迅の気配が背中に当たる。
それが、あたたかい。
夜が深まるほど、焚き火の音は小さくなり、森の気配だけが濃くなった。
梟の声が一度。葉擦れが二度。
遠くで獣が走る音。
ルシェラは目を閉じたまま、眠れない。
眠ってしまったら、この“あたたかさ”を受け入れてしまう気がした。
そして、頭の中にもう一つの声が蘇る。
――聖王国を巻き込んだ。
エルフが放った矢が、聖王国の空を裂いた。
あの矢は、自分を狙っていた。
それでも、倒れたのは人間だった。
(……まただ)
セリウスの背中が重なる。
守ると言った人が、いつも先に壊れていく。
(迅も……)
(迅も、いつか私を守って――)
喉が詰まる。
涙は出ない。出たら、きっと止まらなくなる。
“生きていたら巻き込む”という確信が、じわじわと心を侵食する。
戦う力があるからこそ、戦いを呼ぶ。
(私が消えればいい)
(私がいなければ、迅は死なない)
(フォルも、無理をしなくていい)
自分の価値を削るように考えるほど、妙に楽になる。
苦しさが、理由に変わる。
理由ができると、逃げ道になる。
夜明け前。空の色が、黒から濃い青へ変わり始めた。
焚き火は消えかけている。
迅の寝息は静かで、深い。
フォルは伏せたまま、呼吸が一定だ。
(……今なら)
ルシェラは音を殺して起き上がった。
足元の小枝を避け、土を踏む場所を選ぶ。
自分が“消える”ことに慣れている。誰にも気づかれないように生きてきた。
迅の方を一度だけ見た。
寝ている横顔は、無防備で、妙に幼く見える。
あの強さが、あの危うさが、同じ顔に宿っている。
(……ごめんなさい)
口には出さない。出したら戻ってしまう。
戻ったら、また温もりに縋ってしまう。
胸の奥が痛んだ。
それでも、足を止めない。
(私は……大厄災の悪魔)
(私がいる場所に、災いが寄ってくる)
(……なら、私がいなくなる)
ルシェラは森の影へ身を滑らせた。
夜露に濡れた葉が頬を掠める。冷たい。ちょうどいい。
あたたかさを消すには、冷たさが必要だった。
歩きながら、ふと背中が熱くなる錯覚がした。
迅が追いかけてきたのかと、心臓が跳ねる。
だが振り返っても、そこには暗い森と薄い霧しかない。
(……そうだよね)
追ってきてほしいと思ってしまった自分が、怖い。
助けてほしいと思ってしまった自分が、みじめだ。
ルシェラは前を向いた。
境界の方角へ。
エルフ領へ続く、湿った風の匂いが混じってくる。
夜が明ける。
森が少しずつ色を持ちはじめる。
それでも――ルシェラの背中には、まだあの夜明けの余韻が張り付いたままだった。
(……セリウス)
(……迅)
心の中でだけ呟いて、ルシェラはさらに歩幅を速めた。
銀の影が、森の奥へ溶けていく。
迅とフォルが眠る小さな焚き火の世界から、
彼女は、静かに姿を消した。




