『王子の選択』
王の間は、静まり返っていた。
重い扉が閉じられる音が、遠くで響き、やがて完全な沈黙が訪れる。
玉座に座る国王は、立ち上がらない。
その姿に、狂気はない。
目は澄み、声も落ち着いている。
ここにいるのは――理性を失った暴君ではない。
「……来たか、アレク」
呼びかけは、穏やかだった。
「父上」
アレクは一歩進む。
国王は、玉座の横に置かれた小さな台座へ視線を向けた。
そこには、古びた首飾りがあった。
銀の鎖に、小さな石がひとつ。
装飾は質素だが、丁寧に磨かれている。
「覚えているか」
国王が言う。
「それは、お前の母のものだ」
アレクは息を呑んだ。
「……母上の」
記憶は、ほとんどない。
優しい声。
抱き上げられた温もり。
それ以上のことは、曖昧だった。
「お前が生まれた時、王妃はそれを外さなかった」
国王の指が、首飾りに触れる。
「“王妃である前に、母でありたい”と、よく言っていた」
アレクは、何も言えない。
「王妃は、民を信じていた」
国王は続ける。
「恐怖で縛らずとも、人は選べると」
「神殿の判定を嫌い、声を奪う政治を拒んだ」
国王の声は、淡々としていた。
だが、それは感情がないからではない。
感情を、すでに飲み込んだからだ。
「私は……それを許した」
国王は静かに言う。
「王妃の望む国を、一度は目指した」
アレクの胸が、締め付けられる。
「だが、結果はどうなった」
国王は、首飾りから視線を離さない。
「神殿は反発し、貴族は裏切り、民は扇動された」
「正義の名の下で、王妃は排除された」
“殺された”とは言わない。
だが、それ以上に重い言葉だった。
「……母上は」
アレクの声が、かすれる。
「……それでも、信じていたのですか」
国王は、わずかに目を伏せた。
「最後までな」
その一言が、すべてだった。
「だから私は、決めた」
国王は顔を上げる。
「人は、信じれば裏切る」
「ならば、恐怖で選ばせるしかない」
その理屈は、整っていた。
歪んでいるが、破綻していない。
「秩序とは、恐怖の上に成り立つものだ」
「それが、二度と失わない唯一の方法だった」
アレクは拳を握る。
「……私は」
言葉を選びながら、前に出る。
「母上の言葉は、覚えていません」
「一緒にいた時間も、ほとんど思い出せない」
国王は、黙って聞いている。
「でも」
アレクは続ける。
「恐怖で縛られた街を見た」
「声を奪われ、選べなくなった人々を見た」
一歩、さらに前へ。
「そして……それでも、人は選ぼうとしていました」
国王の目が、細くなる。
「お前は、まだ何も失っていない」
「だからこそ、選び直せます」
アレクは言い切った。
「母上が信じたものを、俺は……今、理解した」
国王は、しばらく黙っていた。
やがて、低く呟く。
「……同じ結末を迎えるぞ」
アレクは首を横に振る。
「それでもです」
その瞬間、背後で迅が静かに目を閉じる。
《善悪判定》。
極悪ではない。
善でもない。
――歪んだ正義。恐怖による秩序。
迅は何も言わない。
これは、アレクの選択だ。
アレクは、剣を床に突き立てた。
「父上」
声は、揺れていない。
「俺は、反逆を宣言します」
国王の目が、わずかに見開かれる。
「あなたを殺しません」
「ですが――王位を剥奪します」
静かに、しかし明確に。
「命令権を停止し、神殿と軍を王から切り離す」
「この国の意思を、王一人の恐怖から解放する」
国王の喉が鳴る。
それは怒りではない。
選ばれなくなる恐怖だった。
「……国は崩れる」
「崩れるなら、立て直します」
アレクは答える。
「母上が信じた国を」
「恐怖ではなく、選択で守る国を」
国王は、首飾りを見つめたまま動かない。
その背中は、ひどく小さく見えた。
迅は影の中で剣を収める。
裁かない。
ただ、見届けた。
アレクは台座の前で、深く頭を下げた。
「母上……俺は、あなたの言葉を、今選びます」




