『裂け始めた均衡』
王都は、前日と何一つ変わらない顔をしていた。
市場は開き、商人は声を張り、
巡回兵は決められた道を歩いている。
処刑台は片づけられ、血の痕も残っていない。
――だが、空気だけが違った。
人々は目を伏せるが、
耳は、確実に立っている。
「……広まってるな」
アレクは、裏通りの物陰から街を見渡していた。
「“処刑が止められた”」
「“王子が前に立った”」
事実は消せない。
人の記憶は、命令では縛れない。
ルシェラは、通りを歩く市民を見つめていた。
歩調が、わずかに違う。
昨日より、ほんの少しだけ。
「……迷ってる」
彼女はぽつりと言った。
「命令に従うことと、
正しいと思うことの間で」
アレクは、その言葉を噛みしめる。
(……それでいい)
迷いが生まれたなら、
均衡は、もう完全ではない。
その日の昼。
王都の各所で、小さな異変が起き始めた。
・神殿での判定執行が、一件見送られる
・巡回兵が、命令の復唱を求める
・貴族の屋敷で、密談が増える
どれも些細なことだ。
だが、それらはすべて、
昨日まで起きなかったことだった。
「不服従、というほどじゃない」
迅が言う。
「……だが、従順でもない」
「裂け目ね」
ルシェラが続ける。
「完全に繋がっていた布が、
少しずつ、ほどけていく」
アレクは、王城の方を見た。
(父は……気づくだろう)
そして、気づいた王は――
動く。
王の間。
報告が次々と積み上げられていた。
「神殿での執行が遅延しております」
「兵の一部が、命令の再確認を求めています」
国王は、黙って聞いていた。
「……原因は」
側近が答える。
「昨日の件かと」
「殿下が、処刑を止めた一件」
国王の指が、玉座の肘掛けを叩く。
「……やはりか」
怒りではない。
失望でもない。
それは、
秩序が揺れたことへの警戒だった。
「粛清を行う」
静かな声だった。
側近が息を呑む。
「疑念を持つ者」
「命令に躊躇する者」
「全て、排除せよ」
「……神殿にも?」
「当然だ」
国王は言い切る。
「信仰は、統制されてこそ意味を持つ」
その言葉は、刃だった。
その夜。
神殿では、異様な緊張が漂っていた。
軍からの通達。
“協力要請”という名の監視。
神官たちは、互いに視線を交わす。
「……軍が、神殿に口を出すとは」
「王の命だ」
「だが、神殿は……」
言葉は、そこで途切れる。
誰も、続けなかった。
軍と神殿。
これまで、微妙な距離を保っていた二つの力が、
同じ方向を向かされようとしている。
それは、均衡の崩壊を意味していた。
一方、王都の影。
人は、静かに集まり始めていた。
昨日、処刑台に立っていた兵。
神殿で判定に疑問を持った神官。
名を伏せた貴族の使い。
彼らは、まだ旗を掲げない。
だが、共通の名を口にする。
「……殿下は、どう動く」
「次は、何を守る」
望んだことではない。
だが、避けられない流れだ。
「……まだだ」
アレクは、自分に言い聞かせる。
「今、前に出れば――
父は、さらに強く締め付ける」
迅が頷く。
「均衡が裂けた直後は、一番危ない」
「だから、抑える」
アレクは拳を握る。
「……守るために、待つ」
その時だった。
フォルが、突然立ち止まった。
耳が、鋭く立つ。
喉の奥で、低い唸り。
「……フォル?」
ルシェラが呼ぶ。
フォルは、王城の方を睨んでいる。
いや――
その奥だ。
低く、唸る。
迅が目を細める。
「何が」
全身が警戒を示している。
アレクの背筋が、冷える。
均衡は、裂けた。
だが、まだ崩れてはいない。
崩れれば――
血が流れる。
アレクは、静かに息を吸った。
「……来るぞ」
それは予感ではない。
確信に近い警告だった。
王都の夜は、変わらず静かだ。
だがその静けさは、
嵐の前のものだった。




