『消えた声』
その家は、王都の外れにあった。
表通りから二本、路地を外れた場所。
壁の色は薄く、扉の蝶番は軋んでいる。
だが、荒れ果ててはいない。
生活の痕跡は、確かに残っていた。
「……ここだ」
アレクが足を止める。
「俺が知っている限り、
“最後に声を上げた”市民の家だ」
迅は周囲を見回した。
人通りは少ない。
だが、完全に途絶えているわけでもない。
(……妙だな)
誰も近づこうとしない。
避けている、というより――
触れないようにしている。
ルシェラは、扉を見つめていた。
「……中に、誰かいる」
声は低い。
確信がある。
アレクは一度、拳を握りしめ、
そして、扉を叩いた。
「……失礼する」
反応は、すぐにあった。
鍵が外れる音。
扉が、ほんの少しだけ開く。
現れたのは、痩せた中年の女性だった。
目の下に、濃い影。
迅たちを見るなり、びくりと肩を震わせる。
「……何の用ですか」
声は、極端に小さい。
アレクは名乗らなかった。
「……この家の、主は」
言葉を選ぶ。
「以前、神殿に意見を出したと聞いた」
女の顔色が、一瞬で変わった。
「……帰ってください」
扉を閉めようとする手を、
アレクは止めなかった。
ただ、低く言う。
「もう……戻らないのか」
沈黙。
女は、ゆっくりと首を振った。
「……いなくなりました」
「捕らえられた?」
女は答えない。
「処刑された?」
沈黙が、長くなる。
ルシェラが一歩、前に出た。
だが、迅が視線だけで制した。
女は、絞り出すように言った。
「……理由は、聞かされていません」
「神殿からは?」
「……何も」
女の指が、震えている。
「ただ……
“余計なことを言った”とだけ」
その言葉に、アレクの胸が強く打たれた。
「……余計なこと?」
「税が重すぎると、言っただけです」
女は、床を見つめたまま続ける。
「子どもが、飢えていると」
「……それだけ」
迅は、拳を握りしめる。
(……理由にもならない)
だが、ここでは理由は要らない。
女は、顔を上げた。
涙は出ていない。
もう、泣き尽くした後だ。
「主人は悪人ではありません。何も悪いことはしていない」
「それでも……
“王の名”が出されました」
その瞬間、
通りの空気が、さらに冷えた。
「王の名が出た以上、
それ以上、誰も何も言えないと」
女は、小さく笑った。
「……皆、そう言いました」
アレクは、唇を噛みしめた。
(……俺は)
(これを、知らなかった)
「……今も、待っているのか」
迅が、初めて口を開いた。
女は、少しだけ考え、
そして答えた。
「……待ってはいません」
その言葉が、重い。
「戻らないと、分かっているから」
沈黙が落ちる。
フォルが、低く唸った。
怒りではない。
哀しみだ。
アレクは、深く頭を下げた。
「……すまない」
女は、驚いたように目を見開く。
「あなたが、謝ることじゃ……」
「違う」
アレクは、はっきりと言った。
「これは……
俺の国の、罪だ」
女は、何も言えなかった。
扉が閉まり、
三人は、再び路地に立った。
アレクは、その場から動かなかった。
「……記録は」
しばらくして、低く呟く。
「一切、残らない」
迅は頷く。
「“悪”と判定された時点で、
存在ごと消される」
「裁判も、処刑の場もない」
アレクの声が、掠れる。
「……俺は、王子だ」
拳が、震えている。
「守る立場にいながら、
何も……」
「今は、耐えろ」
迅の言葉は、冷たい。
だが、突き放してはいない。
「ここで暴れれば、
彼女はもっと苦しむ」
アレクは分かっている。
だからこそ、苦しい。
ルシェラが、静かに言った。
「……声を上げた人間が、消える国」
その声には、怒りも嫌悪もない。
迅は、王城の方向を見る。
この国は、もう引き返せない地点に来ている。
アレクは、深く息を吸い、
拳を、ゆっくりと開いた。
「……次は」
声は、もう震えていない。
「俺が、動く」
それは、衝動ではない。
復讐でもない。
選択だった。
王都の空は、今日も澄んでいる。
だが、
ここではもう、
“消えた声”が戻ることはない。




