『幸せではない国』
街の門は、開け放たれていた。
高い城壁も、厳重な検問もない。
出入りする人々の足取りは早く、商人の呼び声が通りに響く。
石畳は整い、建物の外壁も新しく塗り直されている。
一見すれば――
豊かで、平和で、問題のない街だった。
「……にぎやかね」
ルシェラが、ぽつりと言った。
声音はいつも通り淡々としているが、
昨日までの棘は、わずかに丸くなっている。
胸元のローブの内側。
そこにしまわれた小さなお守りの存在を、
彼女自身が意識しているせいかもしれない。
「表通りだけ、な」
迅は周囲を見回しながら答えた。
屋台には果物やパンが並び、
笑顔で金を払う人々がいる。
子どもが走り、老人が日向で話し込む。
平和な光景だ。
けれど――
迅の視線は、通りの端へと向いていた。
路地の奥。
建物の影。
そこに、目を伏せたまま立つ人々がいる。
服は擦り切れ、靴は合っていない。
誰も声を上げない。
屋台の前を通っても、手を伸ばそうとしない。
(……なるほどな)
直接的な悪は、ここにはいない。
剣を振るう敵も、怒号を上げる支配者も見えない。
だが、空気が重い。
「フォル」
迅が小さく呼ぶと、先を歩いていたフォルが立ち止まり、鼻をひくつかせた。
耳がぴくりと動き、尾がわずかに下がる。
――警戒。
フォルは、嘘や恐怖に敏感だ。
敵意がなくても、
“安全ではない場所”を感じ取る。
「……変な匂い?」
ルシェラが問いかける。
「匂いじゃない。気配だ」
迅は低く答えた。
「人が……諦めてる」
その言葉に、ルシェラの足が止まった。
諦める。
それは、彼女にとって最も馴染みのある感情だった。
封印の中で、染み込んだ感覚。
「……でも、ここは戦場じゃない」
「だからだ」
迅は言う。
「戦わなくても、人は壊れる」
二人が裏路地へ足を踏み入れると、
空気は一変した。
石畳は割れ、ゴミが溜まり、
建物の壁には古い張り紙が剥がれ残っている。
《施しは神殿へ》
《無許可の物乞いは禁止》
文字はかすれ、
何度も塗り潰された跡がある。
その下に、座り込む母親と子どもがいた。
子どもは痩せ、母親の腕に力はない。
だが、誰にも助けを求めていない。
迅が近づくと、母親ははっとして身をすくめた。
「……すみません、何もしていません」
その言葉に、迅は眉を寄せる。
「責めてない。ただ――」
言いかけて、止めた。
何を言えばいい?
「大丈夫」か?
「助ける」か?
ここで金を渡しても、
今日を生き延びるだけだ。
構造は何も変わらない。
(……これが、国か)
剣で斬れない悪。
判定しても、処刑できない歪み。
ルシェラはその光景を、じっと見ていた。
憎しみが湧かない。
怒りもない。
代わりに、胸の奥が冷える。
「……敵じゃないのに」
彼女の声は、低く震えていた。
「誰も、争ってない。
なのに……苦しんでる」
迅は、ゆっくりと頷く。
「国が、そうさせてる」
「……国?」
ルシェラは、その言葉を噛みしめる。
人でも、神でも、魔でもない。
もっと曖昧で、逃げ場のある存在。
「……厄介ね」
「うん。だから、すぐには壊れない」
フォルが、二人の間に割って入るように立ち、
路地の奥を睨んだ。
遠くで、鎧の擦れる音。
巡回兵だ。
母親は子どもを抱き寄せ、
目を伏せる。
兵は一瞥だけくれて、何も言わずに通り過ぎた。
救いもしない。
責めもしない。
ただ、見なかったことにする。
ルシェラの指が、無意識に胸元のお守りに触れた。
(……昨日の子どもたちなら)
あの子たちは、泣いて、叫んで、
それでも生きようとしていた。
ここにいる人たちは、
泣くことすら、諦めている。
「……ねぇ、迅」
「ん?」
「この国は……幸せ?」
迅は少し考え、
そして首を横に振った。
「少なくとも、自由じゃない」
ルシェラはそれを聞いて、静かに息を吐いた。
「……私が知ってる地獄と、似てる」
二人は再び歩き出す。
表通りへ戻ると、喧騒が戻ってくる。
笑顔と、音楽と、商売の声。
だが、もう――
それが“全部”ではないと、分かってしまった。
ルシェラは街の中央に掲げられた紋章を見上げる。
聖王国の印。
「……国って」
ぽつりと、零れる。
「人より、怖いものなのね」
迅は答えない。
代わりに、前を見据えた。
この先に、
剣を抜くべき相手がいる。
だがそれは、
今日、斬れるものではない。
フォルが小さく鳴き、
街の奥へと進んでいった。




