『微笑』
朝の光は、昨日までの血と闇を、何事もなかったかのように乾かしていった。
神殿の地下牢から解放された人々は、街の外れに設けられた簡素な宿舎へと集められ、医者や村人たちが駆けつけていた。
泣き疲れて眠り落ちた子どもたち。
互いの無事を確かめ合い、抱き合う家族。
何度も何度も「ありがとう」を繰り返す声。
迅はその輪の外で、静かに空を見上げていた。
助けた、と言うには軽すぎる。
奪われかけたものを、元に戻しただけだ。
それでも――
戻る場所を取り戻した人の涙は、確かに温かい。
「……行くの?」
背後から、低い声。
ルシェラだった。
昨日まで、あれだけ抱きつかれていたのに、
今の彼女はまた少し距離を取って立っている。
けれど、逃げるような冷たさはない。
ただ“どう扱っていいかわからない温度”が、そこにあった。
「うん。ここに残っても、俺たちがいることで不安を呼ぶかもしれない」
迅がそう言うと、ルシェラは小さく息を吐いた。
「……人間は、弱いくせに騒がしいわね」
「それ、褒めてる?」
「……知らない」
ルシェラはぶっきらぼうに言い、
ほんの少しだけ視線を逸らした。
その時、フォルが静かに歩み寄ってきて、迅の脇をすり抜ける。
まっすぐに向かった先には、昨日泣きながら抱きついてきた小さな男の子がいた。
「フォル!」
男の子が声を弾ませ、駆け寄る。
フォルは尻尾をふわりと揺らし、首を低くして迎えた。
男の子が小さな手で頭を撫でると、フォルは目を細める。
「ねぇ、フォルはどこへ行くの?」
「旅だよ。俺たちと一緒に」
迅が答えると、男の子は一瞬しょんぼりして、それからルシェラを見上げた。
ルシェラはその視線を受け止めきれず、また少し視線を外す。
だが、男の子は怯えない。
昨日の“背中”を覚えているからだ。
自分たちを守る壁になってくれた背中。
怖くなかったとは言えない。
でも――あの時、確かに安心した。
男の子は、両手で何かを握りしめたまま、ルシェラへ近づいた。
「……おねえちゃん」
ルシェラの肩がぴくりと震えた。
呼びかけられることに、まだ慣れていない。
男の子は握っていたものを差し出す。
それは小さな布切れだった。
薄汚れているが、丁寧に結ばれ、ほどけないように縛られている。
「これ、あげる」
「……なに、それ」
ルシェラが問い返すと、男の子は頬を赤くして言った。
「おまもり。
ぼく……こわかったから、ずっと持ってたの。
でも、もう大丈夫だから……おねえちゃんにあげる」
ルシェラは言葉を失った。
(……私に?)
こんなものを渡される覚えはない。
祈りも、祝福も、贈り物も。
彼女が受け取ってきたのは、いつも剣と呪いと憎しみだった。
「……いらな……」
反射的にそう言いかけて、喉の奥で止まる。
男の子が、ぎゅっと唇を噛んでしまったから。
拒絶されたと勘違いした顔。
それを見た瞬間、ルシェラの胸がチクリと痛んだ。
「……」
彼女は、ゆっくりと手を伸ばし、布切れを受け取った。
男の子の目がぱっと明るくなる。
「……ありがとう!」
その言葉に、ルシェラは反応が遅れた。
どう返せばいいのか分からない。
だから、ただ小さく頷く。
男の子は嬉しそうに走っていき、今度は母親に抱きついた。
その母親が、遠くから何度も頭を下げている。
ルシェラは布のお守りを見つめた。
たったそれだけの布が、妙に重い。
「……変ね」
ぽつりと漏れた声は、怒りではなく困惑だった。
迅は隣に立ち、同じ方向を見た。
「変じゃないよ。嬉しいってことだろ」
「違う」
即答。
でも、ルシェラは続けられない。
嬉しい。
そう言ってしまえば、自分の中の何かが壊れてしまいそうだった。
長い時間、冷たさだけで生きてきたのに。
今さら温度を知ってしまったら、耐えられなくなる。
「……ねぇ、迅」
「ん?」
ルシェラは少しだけ、声を低くする。
「昨日……あなたは、どうしてあの神官を裁いたの?」
迅は歩きながら、少し考えた。
「……理由が必要か?」
「必要よ」
ルシェラの声には、珍しく“知りたい”が混じっていた。
迅は言った。
「俺は、基本的に剣を抜きたくない。
できるなら誰も殺したくない」
ルシェラは小さく息を吐く。
「……知ってる。あなたは愚かだから」
「ひどいな」
迅は苦笑し、空を見上げた。
「でも、あいつは違った。
弱い人間を“使って”、
子どもを売って、
罪を偽って……それを正しいって顔でやってた」
「俺が剣を抜かないことで、
また誰かが泣くなら――
それは、俺の“優しさ”じゃない」
ルシェラはその言葉を聞きながら、
ふと、胸の奥に影が差すのを感じた。
優しさ。
守るため。
裁く覚悟。
(……セリウスも、そうだった)
思い出が口まで上がりかけて、彼女は飲み込む。
まだ早い。
今はまだ、この温度が怖い。
しばらく沈黙が続いた。
森道に出ると、街の喧騒は遠ざかり、
木々のざわめきと鳥の声だけが残った。
フォルは先を歩き、時折振り返って二人を待つ。
迅がふいに言った。
「さっきのお守り、似合ってる」
「……え?」
ルシェラは胸元の布に目を落とした。
いつの間にか、手の中で握りしめていたそれを、
無意識にローブの内側へしまっていたのだ。
「べ、別に。邪魔だから入れただけ」
「そうか」
迅はさらりと流し、悪戯っぽく続ける。
「でもさ、ルシェラがそれを受け取った時――
ちょっとだけ、顔が柔らかくなった」
「……なってない」
即答。
しかし、声の棘が少し弱い。
「なってた。俺、見た」
「……見てない」
「見た」
言い合いになる。
子どもみたいなやり取り。
ルシェラはふっと息を吐き、
苛立ちの代わりに、胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。
(……なに、これ)
怒りでも憎しみでもない。
“生きている感じ”に近い感覚。
彼女は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
ほんのわずか。
自分でも気づかないほど小さく。
だが、迅は見逃さなかった。
「……笑った」
「笑ってない」
「笑ったよ」
「違うって言ってるでしょう!」
ルシェラはむっとして前を向き、歩幅を早める。
銀髪がさらりと揺れ、朝の光を弾く。
その背中は、昨日までより少しだけ軽かった。
迅は追いかけながら、心の中で思う。
(……溶けてきたな)
分厚い氷は、簡単には溶けない。
でも、確かに今――
小さな子どもたちの手が、
彼女の心の表面を温め始めている。
フォルが先で一度立ち止まり、二人を見た。
その瞳は穏やかで、まるで「大丈夫」と言っているようだった。
森道を抜ければ、次の街がある。
次の誤解も、次の争いも、きっと待っている。
それでも今は――
ほんの少しだけ、静かな旅だ。
ルシェラは胸元のお守りに指を添え、
小さく呟いた。
「……変な気分」
迅は笑いながら答えた。
「それでいい」
「……あなたは本当に、愚かね」
「ありがとう」
「褒めてない」
そう言いながら、
ルシェラの口元は、ほんの少しだけ――
また柔らかくなっていた。




