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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第1章 『レベルドロップ編』

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『微笑』

朝の光は、昨日までの血と闇を、何事もなかったかのように乾かしていった。


神殿の地下牢から解放された人々は、街の外れに設けられた簡素な宿舎へと集められ、医者や村人たちが駆けつけていた。


泣き疲れて眠り落ちた子どもたち。


互いの無事を確かめ合い、抱き合う家族。


何度も何度も「ありがとう」を繰り返す声。


迅はその輪の外で、静かに空を見上げていた。


助けた、と言うには軽すぎる。

奪われかけたものを、元に戻しただけだ。


それでも――

戻る場所を取り戻した人の涙は、確かに温かい。


「……行くの?」


背後から、低い声。

ルシェラだった。


昨日まで、あれだけ抱きつかれていたのに、

今の彼女はまた少し距離を取って立っている。


けれど、逃げるような冷たさはない。

ただ“どう扱っていいかわからない温度”が、そこにあった。


「うん。ここに残っても、俺たちがいることで不安を呼ぶかもしれない」


迅がそう言うと、ルシェラは小さく息を吐いた。


「……人間は、弱いくせに騒がしいわね」


「それ、褒めてる?」


「……知らない」


ルシェラはぶっきらぼうに言い、

ほんの少しだけ視線を逸らした。


その時、フォルが静かに歩み寄ってきて、迅の脇をすり抜ける。

まっすぐに向かった先には、昨日泣きながら抱きついてきた小さな男の子がいた。


「フォル!」


男の子が声を弾ませ、駆け寄る。

フォルは尻尾をふわりと揺らし、首を低くして迎えた。

男の子が小さな手で頭を撫でると、フォルは目を細める。


「ねぇ、フォルはどこへ行くの?」


「旅だよ。俺たちと一緒に」


迅が答えると、男の子は一瞬しょんぼりして、それからルシェラを見上げた。


ルシェラはその視線を受け止めきれず、また少し視線を外す。

だが、男の子は怯えない。


昨日の“背中”を覚えているからだ。

自分たちを守る壁になってくれた背中。

怖くなかったとは言えない。

でも――あの時、確かに安心した。


男の子は、両手で何かを握りしめたまま、ルシェラへ近づいた。


「……おねえちゃん」


ルシェラの肩がぴくりと震えた。

呼びかけられることに、まだ慣れていない。


男の子は握っていたものを差し出す。

それは小さな布切れだった。

薄汚れているが、丁寧に結ばれ、ほどけないように縛られている。


「これ、あげる」


「……なに、それ」


ルシェラが問い返すと、男の子は頬を赤くして言った。


「おまもり。

 ぼく……こわかったから、ずっと持ってたの。

 でも、もう大丈夫だから……おねえちゃんにあげる」


ルシェラは言葉を失った。


(……私に?)


こんなものを渡される覚えはない。

祈りも、祝福も、贈り物も。

彼女が受け取ってきたのは、いつも剣と呪いと憎しみだった。


「……いらな……」


反射的にそう言いかけて、喉の奥で止まる。


男の子が、ぎゅっと唇を噛んでしまったから。


拒絶されたと勘違いした顔。

それを見た瞬間、ルシェラの胸がチクリと痛んだ。


「……」


彼女は、ゆっくりと手を伸ばし、布切れを受け取った。


男の子の目がぱっと明るくなる。


「……ありがとう!」


その言葉に、ルシェラは反応が遅れた。

どう返せばいいのか分からない。

だから、ただ小さく頷く。


男の子は嬉しそうに走っていき、今度は母親に抱きついた。

その母親が、遠くから何度も頭を下げている。


ルシェラは布のお守りを見つめた。

たったそれだけの布が、妙に重い。


「……変ね」


ぽつりと漏れた声は、怒りではなく困惑だった。


迅は隣に立ち、同じ方向を見た。


「変じゃないよ。嬉しいってことだろ」


「違う」


即答。

でも、ルシェラは続けられない。


嬉しい。

そう言ってしまえば、自分の中の何かが壊れてしまいそうだった。

長い時間、冷たさだけで生きてきたのに。

今さら温度を知ってしまったら、耐えられなくなる。


「……ねぇ、迅」


「ん?」


ルシェラは少しだけ、声を低くする。


「昨日……あなたは、どうしてあの神官を裁いたの?」


迅は歩きながら、少し考えた。


「……理由が必要か?」


「必要よ」


ルシェラの声には、珍しく“知りたい”が混じっていた。


迅は言った。


「俺は、基本的に剣を抜きたくない。

 できるなら誰も殺したくない」


ルシェラは小さく息を吐く。


「……知ってる。あなたは愚かだから」


「ひどいな」


迅は苦笑し、空を見上げた。


「でも、あいつは違った。

 弱い人間を“使って”、

 子どもを売って、

 罪を偽って……それを正しいって顔でやってた」


「俺が剣を抜かないことで、

 また誰かが泣くなら――

 それは、俺の“優しさ”じゃない」


ルシェラはその言葉を聞きながら、

ふと、胸の奥に影が差すのを感じた。


優しさ。

守るため。

裁く覚悟。


(……セリウスも、そうだった)


思い出が口まで上がりかけて、彼女は飲み込む。

まだ早い。

今はまだ、この温度が怖い。


しばらく沈黙が続いた。


森道に出ると、街の喧騒は遠ざかり、

木々のざわめきと鳥の声だけが残った。

フォルは先を歩き、時折振り返って二人を待つ。


迅がふいに言った。


「さっきのお守り、似合ってる」


「……え?」


ルシェラは胸元の布に目を落とした。

いつの間にか、手の中で握りしめていたそれを、

無意識にローブの内側へしまっていたのだ。


「べ、別に。邪魔だから入れただけ」


「そうか」


迅はさらりと流し、悪戯っぽく続ける。


「でもさ、ルシェラがそれを受け取った時――

 ちょっとだけ、顔が柔らかくなった」


「……なってない」


即答。

しかし、声の棘が少し弱い。


「なってた。俺、見た」


「……見てない」


「見た」


言い合いになる。

子どもみたいなやり取り。


ルシェラはふっと息を吐き、

苛立ちの代わりに、胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。


(……なに、これ)


怒りでも憎しみでもない。

“生きている感じ”に近い感覚。


彼女は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


ほんのわずか。

自分でも気づかないほど小さく。


だが、迅は見逃さなかった。


「……笑った」


「笑ってない」


「笑ったよ」


「違うって言ってるでしょう!」


ルシェラはむっとして前を向き、歩幅を早める。

銀髪がさらりと揺れ、朝の光を弾く。


その背中は、昨日までより少しだけ軽かった。


迅は追いかけながら、心の中で思う。


(……溶けてきたな)


分厚い氷は、簡単には溶けない。


でも、確かに今――

小さな子どもたちの手が、

彼女の心の表面を温め始めている。


フォルが先で一度立ち止まり、二人を見た。


その瞳は穏やかで、まるで「大丈夫」と言っているようだった。


森道を抜ければ、次の街がある。

次の誤解も、次の争いも、きっと待っている。


それでも今は――

ほんの少しだけ、静かな旅だ。


ルシェラは胸元のお守りに指を添え、

小さく呟いた。


「……変な気分」


迅は笑いながら答えた。


「それでいい」


「……あなたは本当に、愚かね」


「ありがとう」


「褒めてない」


そう言いながら、

ルシェラの口元は、ほんの少しだけ――

また柔らかくなっていた。

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