『湖畔の大樹』
森を抜けた先、湖があった。
日の光が水面に散らばり、銀の粒のように揺れている。
風は心地よく、世界がひとときの静けさを許したかのようだった。
「……いい場所だな」
迅がそう呟くと、
ルシェラは答えず湖をじっと見つめていた。
表情はいつもより柔らかい。
けれど、その瞳は遠い過去のどこかを見つめていた。
湖の奥、一本の大樹が立っていた。
幹は太く、枝は空へ伸び、
まるで湖を守るように影を落としている。
ルシェラはその木の前で歩みを止めた。
「……覚えているわ」
迅が驚いて横顔を見る。
「ここ……来たことがあるのか?」
ルシェラはゆっくりと頷いた。
「ええ。
あの人と……一緒に」
その語尾には、かすかな震えがあった。
迅は胸がざわつく。
「あの人って……?」
ルシェラは静かに幹へ手を置いた。
「セリウスよ。
あなたが戦った……前の調停者」
迅は息を呑んだ。
だが、反論もしない。彼女の声に耳を傾けた。
「セリウスは……変な人だったわ。
世界を敵に回しても、笑っていられるような人」
風が銀髪を揺らす。
「この湖に来たのは……たった一度きり。
そのとき、セリウスが言ったの。
“いつか大きな木になって、誰かの休む場所になれ” って」
ルシェラは幹を撫でる。
「そして……二人で、この種を植えたわ」
迅は大樹を見上げた。
(ルシェラと……セリウスが……)
「……そっか。
すごく大きく育ったんだな」
「ええ……驚いたわ」
ルシェラはわずかに微笑んだ。
ほんの少し、幼い頃の面影が見えるような笑みだった。
「セリウスは……私が何者でも、怖がらなかった。
“君は君のままでいい”って……
当たり前のように言った人だった」
言葉は優しい記憶とともに空へ溶けていく。
迅は黙ってルシェラの横に立ち、
同じ木に触れた。
「ルシェラにとって……大切な場所なんだな」
「……ええ。
思い出が、まだ……ここだけは痛まないの」
その一言が
どれほど重い意味を持つか、迅には分かった。
彼女の孤独の中で、
傷ついていない記憶が“わずかにここだけ”残っている──。
迅は静かに言う。
「また来よう。
旅の途中で……何度でも」
ルシェラの瞳が揺れる。
驚き、困惑し、
そしてほんの少しだけ……救われるような色。
「……あなたって、本当に……変な人間ね」
「褒め言葉だと思っとく」
ルシェラはくすりともせず、
しかし確かに、頬の力が少し抜けていた。
風が吹き、大樹が枝を揺らす。
その音は、まるで──
かつてこの木を植えた二人を、そっと祝福しているようだった。
「……また来るわ、セリウス」
ルシェラがそっと呟く。
大樹は静かに、優しく揺れた。




