『黒の騎士』
最下層の闇は、もう魔物の息遣いすら途絶えていた。
迅は剣を握りしめながら、血と魔力の匂いが混ざり合う空気を吸い込んだ。
(全部……倒した。
でも――まだ終わりじゃない。
この奥から、ずっと……何かを感じている)
それは魔物の殺気とは違う。
もっと深く、重く、澱のように沈んだ気配。
闇の奥へ足を踏み出すたび、胸の鼓動が早まっていく。
――カァン。
金属が地面を叩く音が響いた。
一度。
そして、二度。
迅は剣を構えた。
暗闇の中から、ゆっくりと“それ”が姿を現す。
全身を漆黒の鎧で覆い、
頭には裂け目すらないヘルム。
背丈は迅より頭一つ分は高い。
右手に握るのは、黒鉄の大剣。
刃渡りは迅の身の丈ほどもある。
だが――驚くほど静かだ。
魔物のように吠えもしない。
人間のように言葉を発しない。
ただ、立っているだけで、空気が軋む。
「……な、んだ……?」
返事はない。
黒の騎士は、ゆっくりと剣を持ち上げた。
その動きは重鈍ではない。
まるで風の流れのように滑らかで、
剣の重さを感じさせない。
(強い……!
近づく前からわかる。
この“圧”は、これまでの魔物とはまるで違う……!)
全身の毛が逆立つ。
迅は無意識に喉を鳴らした。
「来いよ……!」
迅が踏み込む。
足元の石床が砕けた。
黒の騎士は動かない。
ただ、大剣を静かに構えたまま。
(動かない……? なら――)
最速の斬撃を叩き込む。
剣が黒騎士の胴を――
――ガキィン!
金属音が洞窟全体を揺らした。
「……っ!?」
衝撃で腕が痺れる。
刃が弾かれた。
(硬い……!
いや、これは――ただの防御じゃない!)
黒の騎士の体は揺れていない。
一歩も。
その体勢から、初めて“動いた”。
大剣が横薙ぎに振られる。
目で追えない。
「うおっ――!?」
迅は反射で後ろへ跳んだ。
空気が切り裂かれ、斬撃の余波が頬を裂いた。
地面に落ちた血が、白い蒸気となって散った。
(見えなかった……!)
黒騎士はもう、目の前に迫っていた。
歩いているわけではない。
“瞬間移動したように見える速度”だ。
「くそっ――!」
剣を受ける。
衝撃で腕が軋む。
骨が割れそうなほどの圧力。
膝が床へ押しつけられた。
(やばい……!
このままじゃ押し潰され――)
迅は踏み込み、黒騎士の剣を受け流した。
体勢を崩した瞬間に、逆に斬り返す。
――しかし。
黒の騎士は動いていなかった。
受けたわけでも、避けたわけでもない。
斬撃自体が“届く前に”止まっていた。
「うそ……だろ……」
黒騎士はすでに背後にいた。
剣を振り下ろす。
迅は転がり避けたが、斬撃の風圧だけで背中が裂けた。
「ぐっ……ああッ!!」
血が噴き出す。
痛みで視界が揺れた。
(ま、まだ……死ねない……!)
迅は立ち上がる。
呼吸を整え、黒騎士を見る。
黒の騎士は微動だにしない。
呼吸音すらない。
ただ冷たく、無表情な“殺気”だけが漂う。
それは“怒り”ではない。
“憎しみ”でもない。
純粋な、徹底した静寂。
(この相手は……何なんだ……
本当に、魔物なのか……?)
再び両者が踏み込む。
迅の斬撃が十、二十と繰り出される。
黒騎士は受ける。
一歩もずれずに。
剣の腕を比べれば、迅のほうが速い。
しかし黒騎士の一撃は――
ただの一撃で、世界を塗り潰すような重さを持っていた。
床が砕ける。
空気が震える。
洞窟の壁が割れる。
「は……はは……なんだよ……この差……」
迅の笑みは、恐怖と昂揚の混じったものだった。
しかし――
ここで終わるわけにはいかない。
(俺は……絶対、ここで死ねない!
仲間を……リリィたちを残して……!)
黒騎士の大剣が再び持ち上がる。
その刃が空気を震わせた瞬間――
迅の目が初めて、黒の騎士の“奥”を見た。
(……え?)
一瞬だけ。
本当に一瞬。
黒の騎士の剣から、何か別の“温度”を感じた。
怒りではない。
憎悪でもない。
もっと深い――
願いに近い何か。
しかし、その意味を読み取る暇はない。
黒の騎士が踏み込んだ。
地面が沈むほどの踏み込み。
剣を振り下ろす。
「くっそおおおおッ!!」
迅は剣を構え――真正面から迎え撃つ。
轟音。
二つの剣がぶつかり、
最下層の空気そのものが爆ぜるような衝撃が走った。




