『レベルドロップ』
――暗闇の奥で、蠢く気配が濃くなる。
重く、湿った空気が肺を押しつぶすように圧してくる。
最下層の魔物たちが、迅の存在に気づいたのだ。
足音はほとんどしない。
それでも確かにわかる――近づいている、と。
「……くそ……来るなら来いよ……!」
剣を震える手で握りしめる。
水に濡れ、握っているだけで滑りそうだ。
そのとき。
――ギャアアアアア!!!
闇の奥から、四足の獣が飛びかかってきた。
上層で見たゴブリンやオークの比ではない。
全身が黒い甲殻に覆われ、口は裂けたように広がり、
鋭い牙がびっしりと並んでいる。
「ッ……!」
迅は身を捻って攻撃をかわす。
ほんの紙一重。
わずかでも遅ければ確実に肉を持っていかれていた。
着地した魔物が低く唸る。
――ギギギギ……
耳の奥に直接響くような、不快な音だ。
(強い……!)
ひとつ動くだけで空気が揺れる。
最下層――ここは地上とはまるで別の世界だ。
(でも……やるしかない!)
俊敏な動きで距離を詰めると、迅は剣を振り下ろした。
――ガキンッ!!!
「なっ……!?」
甲殻に弾かれ、振動が腕を痺れさせる。
(硬すぎる!……通らない……!)
魔物の尻尾が鞭のようにしなり、
迅の腹部を打ち据える。
「ぐっ……ああっ!!」
肺から空気が漏れ、膝が崩れかけた。
しかし、倒れれば終わりだ。
「まだ……だッ!!」
迅は歯を食いしばり、尻尾を掴んで引き倒すように体重をかけた。
魔物がバランスを崩した瞬間、
その甲殻と甲殻の隙間――わずかな“柔らかい部分”を狙う。
「らぁあああッ!!」
剣が突き刺さる。
――ギャアアア!!
魔物が地を這うように暴れ回り、やがて動かなくなった。
迅はその場に膝をつく。
「はぁ……はぁ……っ……」
全身が痛い。
右腕は痺れ、左足は恐らく捻った。
肋骨の何本かは折れているかもしれない。
(……でも……倒せた……!)
そのとき、頭の中で音が鳴った。
――ピコンッ
【レベルが5上がりました】
「……は……?」
目を疑う。
一匹倒しただけで、レベル5上昇。
普通では考えられない。
「……やっぱり……ここ……最下層なんだ……」
それが希望なのか、絶望なのか、迅には判断できなかった。
だが――。
奥の闇が、ざわりと揺れた。
魔物の群れが、一斉に顔を上げる。
ひとつを倒したことで、完全に標的として認識されたのだ。
「……そんな……」
もう立っているだけで精一杯。
この体で、あれだけの群れを相手にできるはずがない。
進むも地獄。
逃げ場もない。
身を隠す場所すら存在しない。
絶望が胸を冷たく濡らした。
(……死ぬのか、俺……)
誰も助けに来ない。
声も届かない。
上の階層までどれだけ距離があるかもわからない。
こんな深い場所で死んだら――
誰にも見つけてもらえないまま終わる。
「イヤ……だ……!」
迅は奥歯を噛み砕く勢いで踏ん張った。
立て。
立つんだ。
自分に言い聞かせ、剣を支えに体を起こす。
「……俺は……まだ……死ねない……ッ!!」
その瞬間――
本能が叫んだ。
スキルを使え。
成功する保証は、どこにもない。
むしろ使えば弱くなる。
ただの“レベルを1に落とすゴミスキル”。
だが――。
「……来いよ……全部相手してやる……!」
迅は震える声で叫んだ。
「《レベルドロップ》……発動ッ!!」
――光が全身を包んだ。
レベルドロップを使った瞬間、
本来なら感じるはずの“弱体化”の感覚が――全く無かった。
「……?」
むしろ、体が軽くなった。
折れたと思っていた肋骨の痛みも消え、
腕の痺れも完全に取れている。
「……こんな……はず……」
本来、レベルが下がればステータスも下がる。
体の動きが鈍くなるのが普通だ。
だが。
身体は完全に回復し、
むしろ魔力の巡りが良くなっている。
【ステータスが回復しました】
【スキル効果:レベルを1に戻しました】
【※ステータス変動なし】
「変動……なし……?」
意味がわからなかった。
だが――確かに。
身体は強いまま。
先ほどの痛みも欠片もない。
その上。
【レベル:1】
表示だけが、綺麗に“1”へ戻っていた。
(……これって……)
レベルが1に戻った状態で、経験値を得ると――
またすぐレベルが上がる。
(……上げて、落として……上げて……)
つまり――。
無限にレベルアップできる。
その事実が、雷のように胸を貫いた。
「ゴミスキルなんかじゃ……ない……」
声が震える。
これはゴミではない。
規格外の……反則級の……
世界を揺るがすスキル。
「レベルドロップは……」
迅は剣を握り、前へ踏み出した。
「……最強だ……」
闇の中で、魔物の軍勢が待ち構えている。
しかし今の迅は――
恐怖よりも、沸き上がる熱に満たされていた。
「……全部……倒す。
ここから這い上がるために――」
剣を構え、迅は走り出した。
絶望の底で、最弱の冒険者は――
初めて“無限の力”を自覚した。




