『黒淵の奈落』
黒淵の奈落――
その名が示す通り、光すら呑み込む深淵の迷宮。
入口を抜けた瞬間、冷気ではなく“重さ”が押し寄せてくる。
魔力の濃度が高い。息を吸うたび、肺が圧迫されるようだった。
「空気が……重いわね」
リリィが肩をすくめる。
「上級ダンジョンはこういうもんさ。油断するなよ」
グレンが振り返り、迅たちに声をかけた。
その表情は落ち着いていて、頼りになる冒険者そのもの。
あの粗暴で短絡的だった男とはまるで別人だった。
迅は思わず目を細める。
上層は広大な洞窟構造だった。
天井は高く、 stalactite(鍾乳石) が斜めに伸び、
壁には淡い赤光を放つ魔石が脈動するように輝いている。
「ここ、敵の奇襲が多いはずだが……」
「妙に静かね」
バルドとルーナが周囲を警戒しながら進んでいく。
だが――敵が出ても、どれも上級としては弱い。
リザードマン数体、巨大コウモリ、魔力の濃い毒虫。
どれも、グレンとガルドの前衛が瞬時に片づけていく。
「迅、後衛を頼む!」
「了解!」
迅は滑らかに仲間の背を守り、必要な時には剣で牽制を入れる。
戦いは淀みなく、スムーズだった。
それほど――群れも、連携も、敵の質も低い。
「おい、気づいたか?」
グレンが戦いの後、迅の隣で小声を漏らした。
「何が?」
「敵が弱い。ここは上級のはずだが……出方が変だ。
本来なら、もっと『空気の変化』がある場所だ」
確かに、氷狼の凍土の方が圧倒的に恐ろしく、危険だった。
「簡単ってこと?」
リリィが首をかしげる。
「いや――逆だ」
グレンは空気を読むように目を細める。
「“何か”が敵を押しとどめている気がする。
本来あるはずの、ダンジョンの“意思”が表に出てこない」
ルーナの風が、ふわりと周囲を撫でる。
「……たしかに。
風の流れがダンジョンの深い方へ吸い込まれていく」
迅は一瞬だけ、氷狼王の咆哮を思い出した。
あの時も、自然の“意思”があった。
(ここも……何かを秘めているのか?)
ただ、グレンはその後すぐに軽い調子で笑った。
「ま、考えすぎかもな。
さあ、進もうぜ。今日の俺はやる気が違うからな!」
しばらく進むと、通路は三叉に分かれていた。
中腹にある上層の広場で、一旦休憩を取ることになる。
岩肌に腰を下ろしながら、迅は水筒を開けた。
「はぁ……上級にしては楽だな」
「調子に乗るなよ迅。上層は“招待状”みたいなもんだ。
本番はこれからだ」
ガルドが言う。
リリィは魔力の高い空気の中で、炎の精霊の声を確かめるように掌を光らせていた。
「魔法の通りはいい。
でも……どこか“閉じ込められてる”感じもするわね」
「封印の兆候、かもしれんな」
ラードが淡々と言った。
詠唱士らしい冷静な分析だ。
「封印……?」
迅が思わず聞き返したその瞬間、
「おーい、そろそろ出発するぞ!」
グレンが先頭で手を振る。
その声には、迷いも邪念も、何もない。
――だから、迅が信じてしまうのも当然だった。
「行こう、みんな」
迅が立ち上がり、四人が続く。
ルーナだけが、ほんのわずかに後ろを振り返った。
(……何かがおかしい。
でも、それが何なのか……風が教えてくれない)
その後も探索は驚くほど順調だった。
敵の出現は少なく、
罠も避けられるレベルの古いものばかり。
むしろグレンが積極的に前に立ち、
「ここだ、古い機構が残ってる。触るなよ!」
「迅、こっちを照らしてくれ」
「ルーナ、風で毒霧を散らせるか?」
と完璧に連携をとる。
誰もが、
「これは本当に改心したんじゃないか?」
と思いはじめていた。
迅も、胸の奥でその思いを抑えきれなくなる。
(グレン……変わったんだ。
仲間のために戦う男になったんだ)
ほんの少し、嬉しかった。
◆
そして、上層最後の広間に到達した時。
天井から落ちる魔石の光が、
巨大な螺旋状の階段を照らしていた。
「ここが……下層への入口か」
迅が呟く。
「そうだ。ここから先は本当の戦いになる。
心して進もう」
グレンはそう言って、迅に優しく微笑んだ。
その笑みは――
本当に、何の曇りもないように見えた。
誰一人、この時点では気づいていなかった。
ここまでの“順調すぎる静けさ”こそが――
最悪の前兆だったことに。
静かに螺旋階段を降りていく一行。
影が深くなるたび、ほんの僅かにルーナの風が震えた。
祈りにも似た風が、暗闇へと消えていく。




