『夜の独白』
夜の風が、ひどく冷たかった。
討伐を終え、依頼報酬を受け取ったあと、迅は宿に戻ることもせず、街の外れにある小さな丘に座っていた。
月が二つ、並んで夜空に浮かんでいる。
異世界に来て、まだ一日も経っていないはずなのに――胸の奥には、何日も生き抜いたような重たい疲労がこびりついていた。
「……はぁ」
短い息が白くこぼれる。
腰に差した短剣を見つめると、刃先にはまだうっすらと黒い血がこびりついていた。
ゴブリンの血。小さな戦いの痕。
指先で刃の冷たさをなぞると、あの瞬間の感触が鮮明によみがえる。
――突き刺した感覚。
――小さな身体が震え、血がぬるりと手を伝った。
――耳の奥に、かすれた鳴き声が残っている。
「……これが、“殺す”ってことなのか」
モンスターだった。
人間じゃない。恐ろしい目をしていたし、自分が殺される立場になっていたかもしれない。
頭では理解している。――それでも。
胸の奥が、ざわざわと波立っていた。
自分の手が、震えているのを止められなかった。
風が、髪をかすめる。
街の灯りは遠くにぼんやりと瞬いているだけで、ここには誰もいない。
人の声も、笑い声も、何もない。
「……さっきの奴ら、笑ってたな」
ギルドで耳にした、あの冒険者たちの笑い声が蘇る。
“スキルでバカにされ”“雑魚狩り”とあざけられ、あいつらにとってゴブリン一匹なんて大したことじゃないんだろう。
でも――迅にとっては、重すぎる一歩だった。
「これから……何体、殺すことになるんだろうな」
ぽつりと呟いた声が夜に溶けて消える。
この世界で“冒険者”として生きるということは、戦うということ。
戦うということは――奪うということ。
それがどんな相手であれ、手の感触は、血の温度は、忘れられない。
ふと、路地裏で見た少女の顔が頭をよぎる。
あのとき、自分は恐怖の中で立ち上がった。
守りたいものがあったから。
あのときの勇気がなければ、今ここにいない。
だがこの世界では――守るためには、誰かを、何かを、殺すことになるのだ。
「……チート能力なんてなくても、守るって決めたじゃないか」
声は震えていた。
強がりでもなく、決意でもなく、ただ心の奥からこぼれた小さな音。
そのとき、頭の中にあのシステムのような無機質な声が響く。
【レベルが2に上がりました】
【ステータスが上昇しました】
不思議と冷たく、何の感情も持たない機械の声。
それは自分の“成長”を告げるものなのに、何も嬉しくなかった。
「……強くなるって、こういうことかよ」
思わず、吐き捨てるように呟いた。
“レベルが上がる”――ゲームの中なら、それは祝福だ。
でも、この世界は違う。上がるたび、きっと自分の手は血で染まっていく。
夜空を見上げる。
二つの月は静かに輝き、まるで何も知らないように、世界を見下ろしていた。
「俺、ほんとに……ここで、生きていけるのかな」
その言葉は、心の奥に沈んでいた“弱さ”そのものだった。
誰もいない。相談できる仲間もいない。
ただ、冷たい夜風が頬をなでるだけ。
だけど――その弱さを押し殺すように、迅は手をぎゅっと握った。
震えた手を、自分で握りしめる。
「……でも、俺は立ち止まらない」
「逃げねぇ……絶対に」
その声は、夜空の下で、誰にも届かず消えていった。
それでも、彼自身の心にはしっかりと刻まれた。
しばらく空を見上げていた迅は、ゆっくりと立ち上がった。
小さな宿屋に戻る足取りは重い。
けれど――もう倒れるための足取りじゃない。
「……明日も、狩りに行く」
誰に向けたわけでもない呟き。
その瞳に、かすかに灯りが戻っていた。
孤独は消えない。
恐怖もきっと、これから何度も心を蝕む。
それでも、あの夜に決めた「守る」という意思だけは、確かに燃えていた。
――“最弱の冒険者”の心に、小さな灯がともった夜だった。




