『初めての依頼』
昼の光はやわらかく、街を包み込んでいた。
だが、迅の胸の奥はずっと重たかった。
ギルドで受け取った依頼書を握りしめ、街外れの門へと足を進める。
【依頼内容:森の外れのゴブリン討伐(1体)】
【報酬:銅貨5枚】
「……ゴブリン一体か。やるしかないよな」
最弱のスキル。最弱のレベル。
誰も期待してくれない。だからこそ、自分で踏み出すしかない。
森の入口は、昼間でも薄暗かった。
木々が高く伸び、空を覆い隠し、湿った土の匂いが鼻をつく。
背筋を這い上がるような冷たい空気に、自然と呼吸が浅くなる。
「……怖い」
誰もいない。助けてくれる仲間もいない。
この世界に来て、まだたった数時間――それでも、今ここで引き返したら、きっと何も変えられない。
「一歩……踏み出せ」
自分に言い聞かせるように、森の中へ足を踏み入れた。
どれくらい歩いただろうか。
遠くの茂みで、乾いた笑い声のようなものが聞こえた。
「……グギャッ……」
息を呑む。
薄闇の中、小さな影が一体、木陰を這うように動いていた。
緑色の肌、黄色く濁った目、よだれを垂らした口――ゴブリンだ。
(……小さい。人間の子どもくらいの大きさ……)
だが、油断はできない。
手にした短剣を握る掌が汗ばみ、指先が震える。
相手は“この世界では”殺しに来る存在なのだ。
ゴブリンは迅に気づき、にやりと牙をむいた。
唾液を垂らしながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「……くるな……!」
声が震える。足がすくむ。
けれど、退けば一生このままだ。
ゴブリンが飛びかかってきた。
その瞬間、迅の身体が勝手に動いた――かつて夜の路地裏で、少女を庇ったときのように。
短剣を横に構え、突き出す。
鋭い金属音とともに、刃がゴブリンの肩口をかすめた。
「ギャァッ!!」
黒い血が飛び散る。
怒り狂ったゴブリンが棍棒を振り下ろす。迅は地面に転がってなんとか避けた。
土の感触が背中に伝わる。肺の空気が一瞬で抜ける。
(……死ぬ。死ぬのか、ここで)
怖い。
でも、あの日――少女の前で立ち止まらなかった自分を、否定したくなかった。
「うおおおおおっ!!」
立ち上がり、渾身の力で短剣を振る。
刃はゴブリンの首筋を浅く切り裂き、相手がよろめいた。
迅はその隙に踏み込み、腹部を突き上げるように短剣を突き刺す。
「ギャ……ァ……」
小さな体が、地面に崩れ落ちた。
初めての――“命を奪った”音が、森の中に静かに響いた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……!」
肩で荒い息を繰り返し、膝から崩れ落ちる。
握った短剣の柄は、手汗で滑りそうだった。
恐怖と安堵、そしてほんの少しの“実感”。
自分が――この世界で、生き残れたという証。
そのときだった。
目の前に、淡い青い光がふわりと浮かび上がる。
【ゴブリンを討伐しました】
【経験値を獲得しました】
【レベルが1 → 2に上がりました】
「……!」
小さな音が胸の奥で鳴った。
力が少しだけ、身体に馴染んでいく感覚。
ほんのわずかでも、確かに“変わった”と感じられた。
「……やった……」
小さく笑みがこぼれる。
泣きそうなくらい、ちっぽけな一歩だ。
でもこの一歩がなければ、きっと何も始まらなかった。
街へ戻る道は、来たときよりも少しだけ短く感じた。
森のざわめきも、もう前ほど怖くない。
ギルドに戻り、依頼書とゴブリンの耳(証拠)を受付嬢に差し出すと、彼女はぱっと顔を明るくした。
「討伐……成功ですか!? すごいじゃないですか!」
「……なんとか、ですけど」
「なんとかでも、初討伐は特別ですよ。お疲れさまでした!」
柔らかい声と笑顔が、心に染みた。
周囲では、まだ強者たちの笑い声や武勇伝が飛び交っている。
けれど――もう、少しも臆する気持ちはなかった。
銅貨5枚を手に、迅は拳を握る。
たった一体のゴブリン。それでも、自分の力で勝ち取った“最初の勝利”だった。
「……次も、やる」
小さな呟きが、未来への覚悟に変わっていく。
夜の路地裏で、あの少女を守ったときと同じように。
守るために、前へ進む。
――最弱の冒険者、天城迅の物語が、一歩ずつ動き始めた。




