『凍土の牙』
氷壁の裏側に広がる静寂の空間は、まるで別の世界だった。
吹雪は弱まり、風は一定の方向へと流れている。凍りついた空気の奥から、微かな脈動だけが響いていた。
「……この奥に、何かがいる」
ルーナの声は白い息に溶けるように小さかった。
迅は石碑に刻まれた“聖域”という言葉を思い返す。
守られているのか、それとも――閉じ込められているのか。
「進むか?」
ガルドが斧を握り直す。
「行こう」
迅は頷き、足を踏み出した。
その瞬間だった。
――風の音が変わった。
鋭い雪煙が横から走り抜けたかと思うと、視界を白銀の影が跳ね回った。
「来るッ!」
ルーナの叫びと同時に、四方から氷狼が飛び出した。
先ほど遭遇した群れよりも数が多い。
それだけではない――動きが異常に揃っている。
一匹が跳び上がれば、二匹目が死角を狙い、三匹目が逃げ道を塞ぐ。
誰かが指示を出しているかのように。
「リリィ、右上!!」
「分かってる!」
炎の矢が炸裂するが――
氷狼の吐く凍気がそれを瞬時に覆い、霜の塊へと変えてしまう。
「また……魔法が凍らされてる!」
「冷気が強すぎるのよ!」
ルーナの風障壁が氷狼を弾くたび、氷片が弾けた。
ガルドが前へ躍り出る。
「前線は任せろッ!」
巨大な氷狼が牙を剥いて突っ込んでくる。
ガルドは肩で受け止め、そのまま斧で横薙ぎに切りつけた。
氷狼の身体が雪を巻き上げながら転がっていくが、すぐに別の二匹が代わりに前列へと躍り出た。
「こいつら……全然怯まないぞ!」
「怯えてるのよ」
ルーナが唇を噛む。
「だから攻撃を止めない。背後に大事なものがあるとき、獣は引かない――」
ルーナの言葉を遮るように、一匹の氷狼が高く跳び、迅の頭上へ降りかかる。
迅は反射的に短剣を構え、刃を横に払った。
氷狼の体が軌道を逸れ、雪に叩きつけられる。その一瞬、迅は狼の「眼」を見た。
――恐怖だ。
そして、悲しみ。
(なんで……こんな目をしてるんだ)
怒りでも狂気でもない。
追い詰められ、誰かを守るために必死に牙を向ける眼。
「迅! 集中してッ!」
リリィの叫びで現実に引き戻される。
氷狼が二匹同時に突進してきていた。
迅は剣を逆手に持ち替え、一匹の顎を斬り上げる。
すぐに二匹目が横から飛びかかる。
間に合わない――そう思った瞬間、
「吹き飛べぇッ!!」
ガルドの斧が氷狼を弾き飛ばした。
「助かった!」
「礼はあとだ、まだ来るぞ!」
群れの動きは止まらない。
氷壁の前には十数匹が並び、牙を鳴らしながらじりじりと距離を詰めてくる。
その背後から、さらに影が増えていくのが見えた。
「多すぎる……っ!」
リリィが息を荒げる。
「このままじゃ消耗するだけよ!」
ルーナが風を巻き上げ、雪煙を晴らす。
その瞬間、迅の視界に奇妙なものが映った。
氷壁の右側――
凍った地面が、丸く削れたように凹んでいる。
獣道のような形跡もある。
「ガルド! 右へ抜ける道がある!」
「了解だ!」
ガルドが先陣を切り、狼の群れを蹴散らしながら道を開く。
ルーナの風が側方から押し返し、リリィの炎が凍気の壁を一瞬だけ破る。
その隙に迅は走り抜けた。
「こっちだ! みんな急げ!」
氷狼たちが吠え、後を追ってくる。
だが、狭い道に入るや否や、彼らは足を止めた。
谷の崖道と同じ――境界線だ。
「……やっぱり、この奥が“守られてる場所”なんだ」
迅は息を整えながら呟く。
「先に進みましょう」
ルーナが頷き、風を前へ流す。
「風が……向こうへ吸い込まれてる。何かが導いてるみたい」
三人が頷き、迅が先頭に立つ。
道の先は、巨大な洞窟になっていた。
氷壁に囲まれた内部は、淡い青の光に満ちている。
天井から伸びる氷柱が幾重にも重なり、その中央に――
「……広い……」
リリィが思わず息を呑む。
洞窟はまるで王宮の大広間のようだった。
氷の床は鏡のように滑らかで、両側に自然とは思えない柱が続く。
そして奥には――巨大な氷晶が玉座のようにそびえ立っていた。
「ここが……“王の間”?」
迅が呟く。
ルーナが頷く。
「風がここで止まってる……中心よ。凍土全体の“心臓”みたいな場所」
近づくほどに、空気が重く震え始める。
氷の奥で、何かが眠っている。
先ほど氷狼が命を懸けて守った理由が、ここにはある。
静寂。
雪も風も止まった、絶対零度の空間。
迅は剣に手を添えながら、仲間を見た。
「……行こう。ここに“答え”がある」
四人が氷晶の玉座へ歩み寄る。
その瞬間、洞窟全体が――低く、唸った。
氷が軋み、空気が震え、奥の氷晶がわずかに光を宿す。
まるで、白き巨影が、眠りの底で呼吸を始めたように。




