『氷壁の向こう』
ヘルズリッジの街は、ほとんど息をしていなかった。
かつて人の声で賑わっていたであろう石畳の道には、割れた木箱と壊れた荷車が散乱し、扉の外れた家々が並んでいる。
雪がその上に降り積もり、色という色をすべて飲み込んでいた。
「……遅かったのかな」
リリィが小さく呟く。
どこかの家の壁には、爪で引き裂かれたような痕が斜めに走っていた。血はもう凍り、黒く固まっている。
「匂いは……薄いな」
ガルドが鼻をひくつかせる。
「数日前ってところか。今はもう、狼どもはここにはいない」
「生存者がいればいいんだけど」
迅が辺りを見渡した、その時――
「動くな!」
背後から弓を引く音がして、慌てて振り向くと、雪に白い外套をまとった男が二人、こちらに弓と槍を構えていた。額には氷の結晶を象った紋章。北の猟団の印だ。
「お前ら、何者だ。狼の仲間じゃないだろうな」
「ちょ、ちょっと待って! 人間だよ!」
リリィが両手を上げる。
「ギルドから来たの! 氷狼の異常出没を調べに!」
迅も一歩前へ出る。
「冒険者ギルド所属だ。ここに生存者は?」
男たちはしばらく疑わしげにこちらを見ていたが、やがて弓を下ろした。
「……ギルドか。悪かった。俺たちはヘルズリッジ猟団の生き残りだ」
一人が外套のフードを脱ぎ、固い表情を見せた。
「街の中にはもう、ほとんど残っていない。生き残りは避難所に移してある」
「氷狼は?」
ガルドが問う。
「山のほうだ。人を避けなくなった。むしろ……狩っている」
男は吐き捨てるように続けた。
「本来、やつらは人を避ける賢い魔獣だった。それが今は、群れで人の村を囲み、逃げる者を追い立てる」
ルーナが目を細めた。
「統率されている動き……ってこと?」
「そうだ。まるで軍隊だ。しかも――」
男は言葉を切り、北をにらむ。
「ここ数年、山の奥を“開いて”きた。新しい鉱脈を掘るためにな。……それからだ。狼どもが変わり始めたのは」
リリィが不安そうに迅を見る。
迅は黙っていたが、胸の奥がざわついていた。
「氷狼の巣へ案内できるか?」
迅の問いに、男は肩をすくめた。
「巣なんてものは分からん。ただ、やつらが必ず姿を現す“谷”なら知っている。そこから先は――」
「そこまでで十分だ」
迅は頷いた。
「案内を頼む」
街を離れ、北へ進むほど、吹雪は牙を増していった。
猟団の男――名をハルトと言った――が先頭に立ち、雪を踏み分ける。
「ここから先は、俺たちでも滅多に近づかない。氷狼たちの狩場だ」
雪の匂いが濃くなり、空気が張りつめていく。
ルーナが目を閉じ、風を読む。
「……進路は合ってる。狼たちの通り道が、何度も重なってるわ」
やがて、風の音が急に変わった。
低く唸るような、谷間を抜ける響き。
「見ろ」
ハルトが指差す先に、巨大な氷壁がそびえ立っていた。
谷を塞ぐように、青白い壁が空へと伸びている。表面は滑らかで、ところどころに鋭い棘のような氷柱が突き出ていた。
「ここが……?」
「ああ。“氷狼の谷”って呼んでいる。やつらはこの前の平地で獲物を狩り、夜になるとどこかへ消える。谷の向こう側に何があるのか、誰も確かめていない」
その時だった。
ルーナが風に耳を澄ませ、息を呑む。
「……来る」
次の瞬間、雪煙を裂いて影が飛び出した。
白銀の体毛を持つ氷狼たちが、左右の崖上から一斉に飛び降りてくる。
「囲まれる!」
迅が叫ぶ。
狼たちは吠えもせず、無言で隊列を組む。前列は低く構え、後列は一歩引いた位置からじりじりと詰めてくる。
その動きに乱れはなく、まるで目に見えない指揮官がいるかのようだった。
「リリィ、前方上、三体!」
「分かってる!」
炎の球が連続して放たれる。しかし、強烈な冷気が炎を縮ませ、爆ぜる前にしぼませていく。
「……うそ、威力が落ちてる!」
「空気が冷えすぎてるのよ!」
ルーナが風障壁を展開し、飛びかかってきた一体をはじき飛ばす。
「炎が広がる前に熱を奪われてる!」
「正面は俺が抑える!」
ガルドが吠え、両腕を前に出した。
狼が牙をむいて跳びつく。その頭を片腕で受け止め、逆の拳で側頭部を殴りつける。氷片が飛び散り、狼が雪の上を転がった。
だが、群れは怯まない。
倒れた個体の隙間を埋めるように、次の狼が前へ出てくる。
「……人間の軍隊みたいだ」
迅は一体の背後に回り込み、首筋を短剣で切り裂く。
狼の眼を一瞬だけ覗き込んだとき、迅は息を呑む。
(……怖い、のか……?)
冷たいだけだと思っていた瞳の奥に、確かに“恐怖”と“焦り”の色がちらついた気がした。
それはただの獣の怒りではない。何かから追い立てられ、追い詰められた者の目だった。
「迅、後ろ!」
リリィの声に振り向くと、別の一体が背後から飛びかかってきていた。
ルーナの風がそれを横から叩き、体勢を崩す。
「ありがとう!」
「いいえ。……でも長くは持たないわ。数が多すぎる」
確かに、倒しても倒しても、氷狼たちは途切れない。
やがてハルトが叫んだ。
「谷のわきに崖道がある! あそこだ、ついて来い!」
氷壁の手前から、狭い獣道のような崖道が伸びていた。
迅は決断する。
「ここで全滅するわけにはいかない! 撤退しながら進路を変える!」
「了解!」
リリィが後方に炎の壁を作り出す。凍気に押されながらも、それは数秒だけ狼たちの足を止めた。
その間に四人とハルトは崖道へと駆け込む。
道は狭く、足を滑らせれば谷底だ。
冷たい風が横合いから吹きつけ、雪が顔を刺す。
「くっ……!」
ガルドが岩肌に手をつきながら進む。
「こっちも地獄だな!」
「でも、狼たちは追ってこない」
ルーナが後ろを見て言った。
崖道の入り口で、氷狼たちはそれ以上踏み込もうとせず、ただ低く唸っているだけだった。
「……この道の先は、“奴らの領分”じゃないのかもね」
やがて崖道が開け、谷の裏側に広い空間が現れた。
そこは吹雪が嘘のように弱まり、風は渦を巻いて氷の壁の前に集まっている。
巨大な氷壁。その中央部には、自然にできたとは思えない円形の窪みがあり、そこにひときわ古い石がはめ込まれていた。
「……石碑?」
リリィが息を呑む。
近づくと、それがただの岩ではないとすぐに分かった。
表面に、見慣れない文字が刻まれている。
「精霊語ね」
ルーナが指でなぞり、静かに読み上げる。
「――『この地は氷狼の誓約により守られし聖域』」
その言葉が空気を震わせたような気がした。
「聖域……?」
リリィが小さく繰り返す。
ハルトが歯噛みする気配を見せた。
「聖域だと? じゃあ、ここは最初からやつらの……」
「……氷狼たちは、ただ暴れてるんじゃないのかもしれない」
迅が呟く。
「“守っている”……そんな感じがする」
誰もすぐには否定しなかった。
吹雪が弱まった空間に、不自然な静寂が満ちる。
ルーナが目を閉じ、風に意識を預けた。
「……微かに、何かの鼓動が聞こえる。とても古くて、深い――この下に、何かがいる」
氷壁。その奥。
氷狼たちが決して踏み込まなかった、この裏側の空間。
ここが、凍土の異変の中心。
氷狼たちが命を賭して守ろうとしている“境界線”。
迅は石碑を見上げ、静かに息を吸い込んだ。
「……行かなきゃいけないみたいだな。この聖域が、何を守っていて、何に怯えているのか」
風が、細く長く鳴った。
まるで、遠くで誰かがため息をついたかのように。
凍土の奥で、まだ眠る何かが、わずかに身じろぎをした気がした。




