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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第1章 『レベルドロップ編』

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『氷壁の向こう』

 ヘルズリッジの街は、ほとんど息をしていなかった。


 かつて人の声で賑わっていたであろう石畳の道には、割れた木箱と壊れた荷車が散乱し、扉の外れた家々が並んでいる。


雪がその上に降り積もり、色という色をすべて飲み込んでいた。


「……遅かったのかな」


 リリィが小さく呟く。 


 どこかの家の壁には、爪で引き裂かれたような痕が斜めに走っていた。血はもう凍り、黒く固まっている。


「匂いは……薄いな」


 ガルドが鼻をひくつかせる。


「数日前ってところか。今はもう、狼どもはここにはいない」


「生存者がいればいいんだけど」


 迅が辺りを見渡した、その時――


「動くな!」


 背後から弓を引く音がして、慌てて振り向くと、雪に白い外套をまとった男が二人、こちらに弓と槍を構えていた。額には氷の結晶を象った紋章。北の猟団の印だ。


「お前ら、何者だ。狼の仲間じゃないだろうな」


「ちょ、ちょっと待って! 人間だよ!」


 リリィが両手を上げる。


「ギルドから来たの! 氷狼の異常出没を調べに!」


 迅も一歩前へ出る。


「冒険者ギルド所属だ。ここに生存者は?」


 男たちはしばらく疑わしげにこちらを見ていたが、やがて弓を下ろした。


「……ギルドか。悪かった。俺たちはヘルズリッジ猟団の生き残りだ」


 一人が外套のフードを脱ぎ、固い表情を見せた。


「街の中にはもう、ほとんど残っていない。生き残りは避難所に移してある」


「氷狼は?」


 ガルドが問う。


「山のほうだ。人を避けなくなった。むしろ……狩っている」


 男は吐き捨てるように続けた。


「本来、やつらは人を避ける賢い魔獣だった。それが今は、群れで人の村を囲み、逃げる者を追い立てる」


 ルーナが目を細めた。


「統率されている動き……ってこと?」


「そうだ。まるで軍隊だ。しかも――」


 男は言葉を切り、北をにらむ。


「ここ数年、山の奥を“開いて”きた。新しい鉱脈を掘るためにな。……それからだ。狼どもが変わり始めたのは」


 リリィが不安そうに迅を見る。


 迅は黙っていたが、胸の奥がざわついていた。


「氷狼の巣へ案内できるか?」


 迅の問いに、男は肩をすくめた。


「巣なんてものは分からん。ただ、やつらが必ず姿を現す“谷”なら知っている。そこから先は――」


「そこまでで十分だ」


 迅は頷いた。


「案内を頼む」




 街を離れ、北へ進むほど、吹雪は牙を増していった。

 猟団の男――名をハルトと言った――が先頭に立ち、雪を踏み分ける。


「ここから先は、俺たちでも滅多に近づかない。氷狼たちの狩場だ」


 雪の匂いが濃くなり、空気が張りつめていく。

 ルーナが目を閉じ、風を読む。


「……進路は合ってる。狼たちの通り道が、何度も重なってるわ」


 やがて、風の音が急に変わった。


 低く唸るような、谷間を抜ける響き。


「見ろ」


 ハルトが指差す先に、巨大な氷壁がそびえ立っていた。


 谷を塞ぐように、青白い壁が空へと伸びている。表面は滑らかで、ところどころに鋭い棘のような氷柱が突き出ていた。


「ここが……?」


「ああ。“氷狼の谷”って呼んでいる。やつらはこの前の平地で獲物を狩り、夜になるとどこかへ消える。谷の向こう側に何があるのか、誰も確かめていない」


 その時だった。

 ルーナが風に耳を澄ませ、息を呑む。


「……来る」


 次の瞬間、雪煙を裂いて影が飛び出した。

 白銀の体毛を持つ氷狼たちが、左右の崖上から一斉に飛び降りてくる。


「囲まれる!」


 迅が叫ぶ。


 狼たちは吠えもせず、無言で隊列を組む。前列は低く構え、後列は一歩引いた位置からじりじりと詰めてくる。


その動きに乱れはなく、まるで目に見えない指揮官がいるかのようだった。


「リリィ、前方上、三体!」


「分かってる!」


 炎の球が連続して放たれる。しかし、強烈な冷気が炎を縮ませ、爆ぜる前にしぼませていく。


「……うそ、威力が落ちてる!」


「空気が冷えすぎてるのよ!」


 ルーナが風障壁を展開し、飛びかかってきた一体をはじき飛ばす。


「炎が広がる前に熱を奪われてる!」


「正面は俺が抑える!」


 ガルドが吠え、両腕を前に出した。


 狼が牙をむいて跳びつく。その頭を片腕で受け止め、逆の拳で側頭部を殴りつける。氷片が飛び散り、狼が雪の上を転がった。


 だが、群れは怯まない。

 倒れた個体の隙間を埋めるように、次の狼が前へ出てくる。


「……人間の軍隊みたいだ」


 迅は一体の背後に回り込み、首筋を短剣で切り裂く。


 狼の眼を一瞬だけ覗き込んだとき、迅は息を呑む。


(……怖い、のか……?)


 冷たいだけだと思っていた瞳の奥に、確かに“恐怖”と“焦り”の色がちらついた気がした。


 それはただの獣の怒りではない。何かから追い立てられ、追い詰められた者の目だった。


「迅、後ろ!」


 リリィの声に振り向くと、別の一体が背後から飛びかかってきていた。

 ルーナの風がそれを横から叩き、体勢を崩す。


「ありがとう!」


「いいえ。……でも長くは持たないわ。数が多すぎる」


 確かに、倒しても倒しても、氷狼たちは途切れない。

 やがてハルトが叫んだ。


「谷のわきに崖道がある! あそこだ、ついて来い!」


 氷壁の手前から、狭い獣道のような崖道が伸びていた。

 迅は決断する。


「ここで全滅するわけにはいかない! 撤退しながら進路を変える!」


「了解!」


 リリィが後方に炎の壁を作り出す。凍気に押されながらも、それは数秒だけ狼たちの足を止めた。


 その間に四人とハルトは崖道へと駆け込む。


 道は狭く、足を滑らせれば谷底だ。

 冷たい風が横合いから吹きつけ、雪が顔を刺す。


「くっ……!」


 ガルドが岩肌に手をつきながら進む。


「こっちも地獄だな!」


「でも、狼たちは追ってこない」


 ルーナが後ろを見て言った。


 崖道の入り口で、氷狼たちはそれ以上踏み込もうとせず、ただ低く唸っているだけだった。


「……この道の先は、“奴らの領分”じゃないのかもね」


 やがて崖道が開け、谷の裏側に広い空間が現れた。

 そこは吹雪が嘘のように弱まり、風は渦を巻いて氷の壁の前に集まっている。


 巨大な氷壁。その中央部には、自然にできたとは思えない円形の窪みがあり、そこにひときわ古い石がはめ込まれていた。


「……石碑?」


 リリィが息を呑む。


 近づくと、それがただの岩ではないとすぐに分かった。

 表面に、見慣れない文字が刻まれている。


「精霊語ね」


 ルーナが指でなぞり、静かに読み上げる。


「――『この地は氷狼の誓約により守られし聖域』」


 その言葉が空気を震わせたような気がした。


「聖域……?」


 リリィが小さく繰り返す。


 ハルトが歯噛みする気配を見せた。


「聖域だと? じゃあ、ここは最初からやつらの……」


「……氷狼たちは、ただ暴れてるんじゃないのかもしれない」


 迅が呟く。


「“守っている”……そんな感じがする」


 誰もすぐには否定しなかった。

 吹雪が弱まった空間に、不自然な静寂が満ちる。


 ルーナが目を閉じ、風に意識を預けた。


「……微かに、何かの鼓動が聞こえる。とても古くて、深い――この下に、何かがいる」


 氷壁。その奥。


 氷狼たちが決して踏み込まなかった、この裏側の空間。


 ここが、凍土の異変の中心。

 氷狼たちが命を賭して守ろうとしている“境界線”。


 迅は石碑を見上げ、静かに息を吸い込んだ。


「……行かなきゃいけないみたいだな。この聖域が、何を守っていて、何に怯えているのか」


 風が、細く長く鳴った。

 まるで、遠くで誰かがため息をついたかのように。


 凍土の奥で、まだ眠る何かが、わずかに身じろぎをした気がした。

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