『腐蝕の根を断て』
黒樹の森の奥は、静寂というより“息を潜めている”ようだった。
風の音もなく、ただ枝が擦れ合うわずかな音が不気味に響く。
「……少しずつ、空気が重くなってる」
ルーナが耳を澄ませながら言った。
風を司る彼女には、魔力の流れが“詰まる”感覚がはっきりと伝わっていた。
迅は足を止め、木の幹に手を当てる。
冷たい。生命の温度を失ったように、森そのものが冷え切っていた。
「森が……苦しんでる気がする」
「魔力が腐ってるのよ」
リリィが炎の小球を指先に灯し、暗闇を照らす。
その光に照らされた木々の根は、黒い脈を浮かべるように波打っていた。
「これが“腐蝕”か……」
ガルドが低く唸る。
彼の獣人の感覚でも、この森の匂いは異常だった。生き物の匂いがしない。
やがて、地面の下から“何か”が蠢く音がした。
湿った土が持ち上がり、巨大な根が地上に姿を現す。
その表面には目のような瘤が無数にあり、まるで意思を持つ生物のようだった。
「下がれっ!」
迅が叫ぶと同時に、黒い根が蛇のように伸び、リリィを狙って地を突き破る。
ルーナの風障壁が瞬時に展開し、衝撃を逸らす。
「リリィ、後方! ガルド、右側を抑えてくれ!」
「了解だ!」
ガルドが前に躍り出て、拳に魔力を集中させる。
地面に拳を叩きつけると、衝撃波が広がり、根の一部が跳ね上がった。
その隙を突き、リリィが詠唱を完了させる。
「――炎の環よ、燃え上がれ!」
紅蓮の輪が広がり、黒い根を焼き尽くす。
だが、焼かれた部分からはさらに新たな枝が伸び、再生を始めた。
「まるで生きてる……!」
「違う、これは“森の防衛本能”よ」
ルーナが顔をしかめる。
「森が外敵を排除するために、魔力を凝縮させて根を操ってる!」
迅は剣を握りしめ、根の動きを観察した。
攻撃は荒いが、中心を守るように枝を絡めている――まるで“核”を隠すように。
「ルーナ! 中心の魔力の流れを感じ取れるか!」
「感じる……あそこ!」
ルーナが風で霧を払うと、奥の巨大な切り株の根元が淡く光っていた。
腐蝕の源だ。
「ガルド! 道を作る!」
「任せろっ!」
ガルドが咆哮とともに突進する。腕に宿った魔力が獣の牙のように光り、
黒い根を一気に引き裂いた。
迅はその隙を逃さず前へ飛び出す。
剣を構え、中心の光に向かって突き立てた――。
鈍い音とともに、光が弾けた。
森全体が一瞬震え、空気が変わる。
さっきまでまとわりついていた瘴気が、霧のように消えていった。
「……終わったの?」
リリィが肩で息をしながら呟く。
「たぶん、今のが“核”だったんだ」
迅は剣を鞘に収め、辺りを見渡した。
木々の黒ずみが少しずつ薄れ、枯れていた葉がほんのわずかに緑を取り戻している。
「森が……息を吹き返してる」
ルーナが安堵の笑みを浮かべた。
その瞬間、森の奥から風が吹き抜けた。
静かな、けれどどこか“誰かのため息”のような風。
「……聞こえた?」
リリィが耳を澄ます。
確かに、微かな“声”が混じっていた。
> ――ありがとう。
幻聴のように、柔らかい声が風に乗って消えた。
「いまの……」
「気のせいかもしれない。でも……」
迅は森を見上げた。
「この森、まだ生きようとしてるんだ」
空の光がわずかに差し込み、黒樹の森の中に一筋の陽が射した。
森を出たとき、夕暮れの光が差していた。
全員が無言のまま歩きながら、それぞれの胸に“何か”を感じていた。
リリィは手を組み、祈るように小さく呟く。
「森がもう苦しまないように……」
迅はその横顔を見て微笑んだ。
「この世界は、まだ知らないことばかりだな」
その言葉に、ルーナが静かに頷く。




