『黒樹の森の影』
昼下がりのギルドは、冒険者たちのざわめきで満ちていた。
武器を磨く音、笑い声、そして壁に貼られた依頼票の紙が風に揺れる。
「中級上位の依頼、ついに受けられるんだな」
ガルドが分厚い腕を組みながら呟いた。
Dランク昇格を果たしてから数日、迅たちはついに“次の壁”へと挑む準備を整えていた。
「うん。……でも、ちょっと緊張するね」
リリィが依頼票を覗き込みながら言う。
そこに書かれていた文字は――《黒樹の森・魔力異常調査》。
「黒樹の森……?」
迅が眉をひそめた。
「聞いたことない名前だな」
受付嬢のエマがカウンター越しに微笑む。
「最近できた呼び名なんです。森の中心部の樹々が黒く染まり、魔獣たちが暴れ始めたとか。村人たちがそう呼ぶようになって」
「黒く染まる……魔力の暴走かもしれませんね」
ルーナが静かに言葉を重ねた。
「自然の魔力が乱れると、植物が“呪い”のように変質することがあります」
迅はその言葉に頷き、依頼票を掴んだ。
「よし、行こう。初めての上位クエストだ。……気を引き締めよう」
エマは微笑んで送り出す。
「お気をつけて。黒樹の森は……最近、戻ってこない冒険者もいるそうです」
その言葉だけが、妙に心に残った。
森へ向かう途中、空の色が徐々に変わっていった。
昼なのに薄暗く、湿った風が肌をなでる。
森の入口には、古びた祠がぽつんと立っていた。
「……嫌な空気ね」
リリィが杖を握りしめる。
彼女の炎魔法は気温や湿度に敏感に反応する。
今、この場所の空気は“冷たすぎた”。
森に一歩足を踏み入れた瞬間、四人の足音が吸い込まれるように静まった。
木々の幹は黒ずみ、葉は枯れ、土からは淡い霧のような魔素が立ち上っている。
「……生きてる木なのに、死んでるみたいだ」
迅の呟きに、ルーナがうなずく。
「魔力が循環していない。流れが……止まってる」
やがて、ガルドが前方で立ち止まった。
「足跡だ。……人間の、それも数人分。けっこう新しい」
雪でもないのに、地面の泥には深く刻まれた靴跡が続いていた。
しかし、その先に見えたのは――倒れ伏した冒険者の亡骸だった。
鎧は焼け焦げ、武器は錆びついている。
リリィが息を呑む。
「……魔物の仕業?」
そのときだった。
頭上の枝が裂けるような音を立て、巨大な影が落ちた。
「避けろっ!」
ガルドが咆哮し、迅が前に出る。
飛び出してきたのは、漆黒の毛皮をまとった巨大な熊――“黒樹熊”と呼ばれる魔獣。
その眼は真紅に染まり、涎を垂らしていた。
「リリィ、後方支援! ガルドは右! ルーナ、風壁を!」
迅の声が響く。
四人の息が合い、戦闘が始まった。
熊の腕が大地を叩き、衝撃で枝が舞い上がる。
ルーナの風が衝撃波を押さえ込み、リリィの火弾がその隙を突く。
炎が熊の肩口を焼き、ガルドがその懐に飛び込む。
「おおおっ!」
斧に力を込めて叩き込む。だが硬い。
迅はその隙を狙い、背後から剣を振り抜いた。
刃が黒い体毛を裂き、紫の血が飛び散る。
「倒したか……?」
息を整えた瞬間、熊の体から“黒い霧”が噴き出した。
霧は形を持ち、ゆらめく人の影のように蠢く。
その眼だけが光っている。
「……魔力の塊? まるで、何かに取り憑かれたみたい」
ルーナが警戒し、詠唱を始める。
だが霧の影は抵抗もせず、音もなく消えた。
森は再び静寂を取り戻した。
ただ――木々の奥で何かが「見ている」気配が残る。
「……終わった、わけじゃなさそうだな」
森の奥を見つめた。
黒く枯れた木々の間に、一瞬だけ――
まるで心臓の鼓動のように、森全体が脈動した。
リリィが小さく囁く。
「……生きてる。森そのものが……息をしてる」
それは、この先の異変の始まりだった。




