『守る剣』
朝の空気は冷たく澄んでいた。
地面にはまだ昨夜の雨が残り、踏みしめるたびにぐしゃりと音がする。
木々の枝から水滴が落ちる音と、鳥の鳴き声が静かな空間に響いていた。
迅は両手に木剣を握り、まっすぐヴァロスを見据えていた。
疲労はもう“日常”の一部だ。筋肉の痛みも、手のひらの傷も、もう驚くことはない。
それよりも――今日という日を、心が待っていた。
「――構えろ、坊主」
ヴァロスが剣を抜いた瞬間、空気が一変した。
重く、冷たい風が肌をなぞり、空気が静まり返る。
剣を構えるだけで、ここまで場を支配できる――それが本物の剣士。
迅は深く息を吸い込み、構えた。
初日のように腰が浮くことも、肩に力が入りすぎることもない。
削ぎ落とした芯が、自分の身体の中心に一本、すっと通っていた。
「……行くぞ」
ヴァロスが踏み込む。
地面を蹴る音と同時に、剣が真っすぐ迅の肩口を狙って突き出される。
その速さは、訓練のときとは比べ物にならなかった。
「――っ!」
迅は反射的に一歩下がり、剣を添えるようにして受ける。
衝撃が両腕を駆け抜けた。
重い。速い。それでも、足が地を離れなかった。
「……ほう、倒れねぇか」
ヴァロスが少しだけ口角を上げる。
剣はすぐに跳ね上がり、今度は横薙ぎ。
迅は腰を沈め、流すように受け流す。肩の力は抜き、芯だけを残して。
――剣が、通る。
いつの間にか、相手の剣筋が“見える”ようになっていた。
力で押し返すんじゃない。芯で受け、芯で返す。
それは、剣士としての初めての感覚だった。
「悪くねぇ。だが――まだ甘ぇ!」
ヴァロスが踏み込み、剣が容赦なく振り下ろされる。
その一撃は速さも重さも、さっきまでとはまるで違った。
瞬きする暇もない――殺気に近い剣筋。
迅は歯を食いしばり、踏ん張った。
両足が泥にめり込み、腕の骨がきしむ。
だが、剣は落ちなかった。
「ぬぅっ……!」
視界が白くなるほどの衝撃の中、迅の剣がヴァロスの一撃を止めていた。
――初めてだ。
これまで何度倒されても止められなかった師匠の剣を、
今、自分の芯が受け止めている。
「……いい顔になったじゃねぇか」
ヴァロスが、ほんの一瞬――心底楽しそうに笑った。
そのまま二人の模擬戦は続いた。
ヴァロスの剣は鋭く、迅の剣はまだ不器用だ。
何度も受け損ね、泥に倒れ、顔を汚し、息が荒れる。
それでも――立ち上がるたびに剣は芯を増していった。
「立て、坊主。お前が立つ限り、俺の剣は止まらねぇ」
「……上等だっ!」
泥の中から立ち上がり、剣を構える。
両腕は重く、呼吸は荒い。
でも――心だけは折れない。
その姿に、ヴァロスはかつての自分の影を見ていた。
数十分後。
剣を交えるたびに体が軋み、腕が痺れていく。
最後の一撃。
ヴァロスが踏み込み、剣が頭上から振り下ろされる。
迅は真正面から受け止め――芯を通し、踏ん張った。
――ギィンッ!!
空気が震えるほどの衝撃。
その音は、初めて二人の剣が“対等”にぶつかり合った音だった。
「よくやった」
ヴァロスの剣がすっと引かれる。
戦いが終わった瞬間、迅はその場に膝をついた。
全身が重く、地面に倒れ込みそうになる。
けれど――その顔は、晴れやかだった。
火が灯された夜。
迅は焚き火のそばに座り、ぼんやりと自分の手を見つめていた。
血と泥にまみれた手のひら。
それでも、もう震えはなかった。
隣に腰を下ろしたヴァロスが酒瓶を一口あおる。
「なぁ坊主」
「……なんだよ」
「お前はもう、“弱ぇガキ”じゃねぇ。――剣士だ」
迅の心臓が一瞬だけ跳ねた。
師匠の口から出たその言葉は、どんな勲章よりも重かった。
「剣ってのはな、勝つためのもんじゃねぇ。
守るための剣を、ようやく手に入れたな」
焚き火が、ぱちぱちと音を立てる。
夜空には星が広がっていた。
「……ありがとう、ヴァロス」
「礼なんざいらねぇ。剣はお前のもんだ」
ヴァロスは肩をすくめて立ち上がる。
「明日が最終日だ。坊主、覚悟しとけよ」
「……ああ。次は、勝ってみせる」
焚き火の火が風に揺れる。
その炎のように、迅の胸の奥にも確かな熱が燃えていた。




