『ヴァロスの過去』
雨の夜だった。
昼間まで照りつけていた日差しは嘘のように消え、重たい雲が空を覆っている。
地面には水がたまり、ぬかるんだ泥の上で雨粒が跳ねていた。
迅は、その泥の中に膝をついていた。
木剣を握る手は震え、両肩は重く垂れ下がっている。
身体は限界を超えていた――けれど、剣だけはまだ、手放していなかった。
「……なかなか折れねぇじゃねぇか」
ヴァロスの低い声が雨に混じって響いた。
傘も外套もない。師匠もまた、ずぶ濡れのまま迅の正面に立っている。
その灰色の瞳は、炎のように静かに光っていた。
「……もう少し……もう少しだけ……!」
迅は荒い息を吐き、木剣を振り上げる。
だが腕は重く、剣は途中で止まってしまう。
呼吸も荒く、視界が滲んでいる。
「はぁ……はぁっ……!」
「やめろ」
ヴァロスが歩み寄り、迅の手首を軽く叩く。
木剣が地面に落ち、ぬかるんだ泥に沈んだ。
雨音の中、その音だけがやけに鮮明だった。
「限界だ。今日の体はもう動かねぇ」
「でも……! ここで止まったら、強くなれない!」
迅の声は震えていた。
悔しさと、情けなさと、自分への怒り。
全てが混ざって、熱いものが喉の奥からこみ上げてくる。
ヴァロスはその横顔をじっと見つめた。
しばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと口を開いた。
「……昔の俺を思い出すぜ」
「え……?」
「俺もな、ガキの頃はお前と同じような目をしてた」
雨の音の中、ヴァロスはゆっくりと地面に腰を下ろした。
泥にまみれることも気にせず、夜空を仰ぎ見る。
その目はどこか遠い昔を見ているようだった。
「俺には、兄貴がいた。めちゃくちゃ強くて、俺の憧れだった」
灰色の瞳がかすかに揺れる。
迅は黙って耳を傾けた。
「俺は兄貴みたいになりたくて、剣を握った。だけどな……」
ヴァロスは両手を広げるようにして、苦笑を漏らした。
「才能がなかった」
「……」
「兄貴は俺の何倍も早く剣を覚えた。俺がやっと構えを覚えた頃には、あいつはもう国の近衛に選ばれてた」
ヴァロスは湿った地面に手を突く。
雨がその手を冷たく濡らした。
「俺は、何度も負けた。……見下された。蔑まれた。それでも――諦めなかった」
その声は静かだった。
だが、その奥には今も消えない熱があった。
「……そして、戦争が始まった」
雨が少し強くなる。
迅の息が止まる。
ヴァロスは静かに続けた。
「俺は兄貴と戦場に出た。剣を握って、血を見た。……兄貴は、俺の目の前で死んだ」
「……!」
雨が剣士の肩を打つ音が、やけに大きく聞こえた。
迅は何も言えなかった。
ヴァロスの声も、いつものような冗談めいた調子ではなかった。
「兄貴は俺をかばって死んだんだ。俺は無様に生き残った。……俺には、守る力がなかった」
その言葉には、何十年分の悔しさが染み込んでいた。
「俺はその時、決めたんだ。“勝ちたい”んじゃねぇ。“守れる剣”を握るってな」
「……守る剣……」
迅は呟いた。
ヴァロスはうなずき、まっすぐ迅の瞳を見た。
「剣は、誰かを傷つけるためじゃねぇ。
誰かの背中を守るために握るもんだ。……お前も、そうだろ?」
その言葉に、リリィやガルド、ルーナの顔が脳裏に浮かんだ。
雪山での戦い、ギルドで笑い合った夜、背中を預けた戦場。
全部が胸の奥で灯りのように輝いていた。
「……俺も……守りたい。みんなを――守れる力がほしい」
震える声で、それでもはっきりとそう言った。
ヴァロスは静かに立ち上がり、泥の中に落ちた木剣を拾って差し出した。
「なら、立て。坊主」
迅はその手を、迷いなく掴んだ。
再び構えを取る。
雨はまだ降り続いている。
体は限界を越えているはずなのに、不思議と心は軽かった。
「もう一度、いくぞ」
ヴァロスが口角を上げる。
「いい目になった。――その目、失うなよ」
木剣を握る手に力がこもる。
今までの“勝ちたい”じゃない。
“守りたい”という確かな熱が、胸の奥で燃え上がっていた。
夜が明けるころ、迅は泥の中で倒れ込んでいた。
息は上がり、全身が痛い。
だがその顔には、負けた時にはなかった静かな笑みがあった。
「……よくやったな、坊主」
ヴァロスがぼそりと呟き、濡れた髪をかき上げた。
灰色の空の下で、二人の剣士の距離が少しだけ縮まった気がした。




