『師との出会い』
訓練場を埋めていた人影は、いつの間にか消えていた。
先ほどまで響いていた歓声も、グレンの剣が体へ叩き込まれる音も、今はもう聞こえない。残っているのは、冬の冷たい風だけだった。
「…………」
迅は木柵のそばに、一人で座り込んでいた。
ルーナの《風癒》とギルドの治療師によって、目立った傷はある程度塞がっている。それでも左肩を動かせば鈍い痛みが走り、脇腹も深く息を吸うたびに痛んだ。
リリィは最後まで残ると言い、ガルドも何も言わず近くに座っていた。ルーナに至っては「一人にしない方がいい」と譲らなかった。
それでも迅は頼んだ。
――少しだけ、一人にしてほしい。
三人は心配そうな顔をしていたが、最後にはガルドが二人を連れて行った。
『遅くなりすぎるな』
それだけを残して。
「……はぁ」
迅は白い息を吐いた。
少し離れた地面には、グレンとの勝負で使った訓練剣が転がっている。
何度拾って、何度叩き落とされたのだろう。
「……強かったな」
認めるしかない。
いや、強いという一言では足りなかった。
斬ろうとすれば受け流され、避けようとすれば、その先にはもう剣がある。
ガルドから教わったことも、雪狼との戦いで掴みかけたものも、グレンの前では全部、子どもの真似事のように感じられた。
『お前と俺じゃ、まだ世界が違う』
「…………」
迅は自分の手を見る。
まだ僅かに震えていた。
「レベル30……か」
自分は10。
数字だけを見れば三倍だ。
けれど、実際に戦って感じた差は、そんな単純なものではなかった。
「何年かかるんだよ……」
追いつくまで、どれだけ戦えばいいのか。
どれだけ剣を振ればいいのか。
そもそも、本当に追いつけるのか。
「……くそ」
拳で地面を叩く。
悔しかった。
あれだけ一方的に倒されたのだから、怖かったし、痛かったし、今だって思い出すだけで腹が立つ。
それなのに。
「もう一回……戦いたい」
次なら勝てる、なんて思ってはいない。
今やれば、また同じように負けるだろう。
それでも、このままでは終わりたくなかった。
「だったら、そんな所で座ってても強くならねぇぞ」
「――っ!」
突然の声に、迅が振り向く。
訓練場の入口に、一人の男が立っていた。
年齢は四十を越えているだろうか。少し伸びた髪は整えられておらず、顎には無精髭がある。
使い込まれた焦げ茶色の外套の下には、何の飾り気もない革装備。体格も特別大きいわけではなく、むしろ細身で、背丈も迅より僅かに高い程度だった。
腰には一本の剣。
装飾も宝石もない。ただ、何度も手入れされ、長い年月使われてきたことだけは分かる剣だった。
「……誰だ?」
「冷てぇな。さっきからずっと見てたってのに」
「さっき?」
「お前がボコボコにされてたところから」
「最悪の自己紹介だな……」
男が低く笑う。
「違いねぇ」
そして、ゆっくり訓練場へ入ってきた。
足音は静かだった。
けれど迅は、なぜか目を離せない。
グレンのような分かりやすい威圧感はない。
それでも腰の剣へ目を向けた瞬間、背筋に僅かな緊張が走った。
「……剣士?」
「一応な」
男は迅の数歩前で止まる。
「ヴァロスだ」
「……俺は迅」
「知ってる」
「なんで?」
「今日あれだけ騒ぎ起こしといて、自分が有名になってねぇと思ってんのか?」
「…………」
「馬鹿だな」
「初対面で言う?」
「下手くそでもある」
「喧嘩売りに来たのかよ」
「事実を言ってるだけだ」
ヴァロスは地面に落ちていた訓練剣を拾い、軽く振った。
ヒュッ、と短い風切り音が鳴る。
ただそれだけなのに、余計な動きが一つもなかった。
迅の目が自然と剣先を追う。
「お前の剣は正直すぎる」
「正直?」
「斬る前に斬るって教えてる。避ける前に避けるって教えてる。力んで、肩が上がって、足まで止まる」
「…………」
グレンにも同じようなことを言われた。
「基本を覚え始めたばかりだな」
「……そうだよ」
「実戦経験も少ない」
「ああ」
「身体の使い方も下手だ」
「……もうちょっと何かないのかよ」
「あるぞ」
ヴァロスが迅を見る。
灰色の瞳。
それまでの軽い雰囲気が、ほんの僅かに消えた。
「お前、最後まで相手から目を逸らさなかったな」
「え?」
「怖かっただろ」
「……怖かったよ」
「痛かっただろ」
「めちゃくちゃ痛かった」
「逃げたかったか?」
迅は少し考えた。
「…………分からない」
正直に答える。
「途中で、もう無理だとは何度も思った」
「それでも剣を拾った」
「仲間を馬鹿にされて……あのまま終わるのが嫌だったから」
ヴァロスはしばらく黙っていた。
そして、
「それだ」
「何が?」
「剣を教えられる奴と、教えられねぇ奴の違いだよ」
訓練剣を迅へ放る。
「うわっ」
慌てて受け取る。
「才能があるなんて言わねぇぞ」
「……」
「むしろ今のお前は、かなり下手だ」
「そこ二回言う必要ある?」
「大事だからな」
ヴァロスの口元が少しだけ上がった。
「だが、下手なら直せる」
「…………」
「知らねぇなら教えられる」
一歩、迅の前へ出る。
「弱いなら――強くすりゃいい」
迅の胸が、僅かに高鳴った。
「……あんたが?」
「ああ」
「なんで俺を?」
「気まぐれだ」
「絶対嘘だろ」
「じゃあ、面白そうだからだ」
「もっと信用できないな……」
「面倒くせぇ奴だな」
ヴァロスが頭を掻く。
「グレンに追いつきたいんだろ?」
迅の表情が変わった。
「…………ああ」
「なら」
ヴァロスは背を向けた。
「明日の朝。日の出前にここへ来い」
「え?」
「遅れたら終わりだ」
「ちょ、待て!」
迅が立ち上がると、脇腹に痛みが走った。
「痛っ……!」
「まず傷治しとけ。そんな体じゃ剣も振れねぇ」
「ヴァロス!」
男が振り返る。
「本当に……俺を強くできるのか?」
迅の問いに、ヴァロスは少しだけ目を細めた。
「知らん」
「は?」
「強くなるのはお前だ」
そう言って、今度こそ歩き出す。
「俺ができるのは、剣を教えるだけだ」
迅は遠ざかる背中を見つめた。
不思議な男だった。
何者なのかも分からない。
本当に強いのかさえ、まだ知らない。
それでも迅は、手の中の訓練剣へ目を落とした。
そして久しぶりに、心の奥へ悔しさとは少し違う熱が灯るのを感じた。
「……日の出前、か」
小さく笑う。
「行くしかないだろ」
グレンに叩きのめされた夜。
迅は、一人の剣士と出会った。
その出会いが、自分の剣を大きく変えることになるとは、この時の迅はまだ知らなかった。




