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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第4章『ルシェラ過去編』

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『守られる意味』

 森の色は深い夏の緑から、少しずつ秋の色へ変わり始めていた。朝晩の空気には冷たさが混じり、沢の水へ手を入れれば、すぐに指先が痺れるほどになっている。


 ルシェラの銀白色の髪も、旅を始めた頃より伸びていた。村で買った灰青色のワンピースの上には濃紺のボレロを重ね、その上から深い灰色の外套を羽織っている。革靴も何度も泥に汚れ、買ったばかりの頃の硬さはもう残っていなかった。


 木剣を握り続けた手のひらには、小さな硬い部分もできている。


「もう一回」


 朝の訓練で、セリウスが細い枝を手に踏み込んだ。

 ルシェラは真正面へ下がらず、半歩だけ斜め後ろへ動く。同時に木剣を身体の前へ運び、枝を力で受け止めるのではなく、角度をつけて外側へ流した。


 乾いた音が鳴る。

 今度は木剣ごと体勢を崩されなかった。そのままさらに一歩離れ、セリウスとの距離を取る。


「今のは?」

「悪くない」

「前もそれ言った」

「なら、前より安定してきた」


 ルシェラの目が少し輝く。


「それ、褒めてる?」

「ああ」

「……珍しい」

「褒めてほしかったんじゃないのか」

「そうだけど」


 セリウスが足元の小石を拾った。

 それを見た瞬間、ルシェラが木剣を構える。


「もう騙されないから」


 小石が投げられる。

 ルシェラは木剣で受けようとはせず、半歩横へ動いて避けた。石がそのまま後ろへ落ちる。


「どう?」

「今のはいい」


 今度こそ、ルシェラは嬉しそうに笑った。

 数か月前には、そんな表情すらほとんど見せなかった。

 両親を失った痛みが消えたわけではない。夜中に目を覚ますこともあるし、ネメシアやエルシオンの名前を口にすれば、今でも瞳には影が落ちる。

 それでも、止まっていた時間は少しずつ動き始めていた。


◇ ◇ ◇


 剣の訓練が終わると、今度は魔力の制御へ移る。

 ルシェラが手のひらを上へ向けると、小さな白い光が灯った。

 最初の頃は強くなったり弱くなったりしていた光も、今では十数秒ほどなら、ほとんど大きさを変えずに保つことができる。


「もう少し大きくしてもいい?」

「今日は必要ない」

「また?」

「大きくすることより、小さく保つ方が難しい」

「でも、大きな魔法も使えないと守れないことあるでしょ?」

「ある」


 セリウスは否定しなかった。


「だからこそ先に、必要なところで止められるようになれ」


 ルシェラは掌の光を見る。


「うん」


 十歳の頃、ネメシアから教わったことがある。

 怖い時ほど呼吸を止めない。焦った時ほど、一度に全部の力を出そうとしない。

 エルシオンから教わったことも残っていた。

 力を使う前に、何を守りたいのかを見る。

 両親が残してくれた教えを土台にしながら、セリウスは今、その続きを教えていた。


「消す」


 ルシェラが呟く。

 光が徐々に弱まり、掌から消えた。


「どう?」

「問題ない」

「疲れててもできた」

「ああ」


 ルシェラが満足そうに頷いた。

 セリウスが繰り返し教えているのは、特別な術ではない。

 魔力が自分の中で膨らんでいることへ早く気づくこと。必要以上に外へ出さず、一度使い始めても、自分の意思で弱めて止められるようになること。


 それは、かつて両親から教えられていたことを、旅の中でも使えるように身体へ馴染ませ直す訓練でもあった。


「強い力ほど、出すより止める方が大切だ」

「それもお母さまが言いそう」

「間違っていないからな」


 その一言に、ルシェラは少し嬉しそうに笑った。

 セリウスは両親の教えを否定しない。

 むしろ、ルシェラの中に残っているものを見つけるたび、その先を教えてくれる。

 それがルシェラには嬉しかった。


◇ ◇ ◇


 夕方。

 二人は沢沿いの森を抜けようとしていた。

 空は曇り、風も強くなっている。

 しばらく歩いたところで、先を行くセリウスが突然足を止めた。

 ルシェラもすぐに止まる。


「……何かいる?」

「鳥が消えた」


 言われて初めて気づいた。

 少し前まで聞こえていた鳴き声が、いつの間にか途絶えている。

 セリウスがルシェラを自分の後ろへ下げた。

 直後、森の奥から一本の矢が飛んでくる。

 セリウスが剣を抜いて弾いた。


「伏せろ」


 二本目、三本目。

 今度は左右から飛んでくる。

 セリウスは前へ出て、ルシェラへ届く矢を次々と弾いた。


 その背中が、ルシェラの記憶と重なる。

 燃え上がる街で自分の前へ立った母。

 白い光の中で、自分を逃がそうとした父。


「……いや」


 指先に白い光が滲む。


「ルシェラ」

「いやだ……」


 胸の奥が熱くなる。

 守らなければ。

 今度こそ、自分が前へ出なければ。

 恐怖に引っ張られ、魔力が急激に膨らんだ。


「撃つな」


 セリウスの声が飛ぶ。


「でも、セリウスが!」

「相手が見えていない」

「矢はあそこから来てる!」

「矢を放った場所しか見えていない」


 ルシェラの手が止まった。

 セリウスは次の矢を弾きながら続ける。


「その木の後ろに何人いる。さらに奥に誰かいるか。分かるか?」

「……分からない」

「なら撃つな」


 以前のルシェラなら、恐怖に押され、そのまま力を放っていたかもしれない。

 だが、今は違った。

 荒い呼吸を整える。

 膨らみかけた魔力を無理やり消そうとはせず、ただ外へ出すのを止める。

 白い光が少しずつ弱まった。


「私だけを見るな。周りを見ろ」


 ルシェラは必死に視線を動かす。

 矢が飛んでくる木々。

 左には急な斜面があり、右には大きな岩がある。その奥へ、細い獣道が続いていた。


「右……」

「そうだ」

「右なら抜けられる」

「行け」


 ルシェラは一瞬、セリウスの背中を見る。


「セリウスも?」

「行く。先に岩まで走れ」

「……分かった」


 ルシェラは走った。

 岩陰へ滑り込み、背後では矢を弾く音が続いている。

 怖い。

 それでも今は、振り返らなかった。

 数秒後、セリウスが木々の間から飛び出してくる。

 だが、その肩から血が流れていた。


「セリウス!」

「走るぞ」

「怪我してる!」

「掠っただけだ。今は離れる」


 手を掴まれた。

 二人はそのまま獣道へ入り、森の奥へ走った。


◇ ◇ ◇


 追手を完全に撒いたのは、それからしばらく進んだあとだった。

 木々が密集した谷間で、ようやくセリウスが足を止める。


「見せて」


 ルシェラがすぐに言った。


「浅い」

「それは見てから決める」


 思っていた以上に強い声が出た。

 セリウスは彼女を見たあと、素直に外套をずらす。

 矢は刺さっていない。

 だが肩口を深く掠めており、衣服が裂け、その下から血が流れていた。

 ルシェラの顔が強張る。


「……私が遅かったから?」

「違う」

「でも」

「君が岩へ走ったから、私もすぐ離脱できた」


 セリウスははっきりと言った。


「言われた通りに動いた。それでいい」


 ルシェラは少しだけ唇を噛む。

 それでも傷から流れる血を見ると、胸が苦しくなった。


「座って」

「手当てなら自分で――」

「治すから」


 セリウスが言葉を止めた。

 ルシェラは自分の手を見る。


「治癒を使えるのか」

「……うん」


 居館の中庭で、翼を痛めて飛べなくなっていた小鳥を見つけたことがある。

 助けたいと思って手を伸ばした時、指先から柔らかな光が生まれた。

 何度か失敗した。力を入れすぎれば光が広がり、怖くなって止めれば消えてしまう。


 それでも呼吸を整え、傷ついた羽だけを見るようにした時、小鳥は再び飛べるようになった。

 萎れた花へ使ったこともある。

 母と父も、その力を知っていた。


「小鳥とか、花には使ったことがある」


 ルシェラはセリウスの傷を見る。


「でも、人に使うのは初めて」

「なら、焦るな」

「……うん」

「治そうとして一度に力を出すな。以前使った時と同じようにやれ」


 セリウスは治癒術を使えない。

 だから術そのものを教えることはできない。

 それでも、ここ数か月ルシェラの魔力を見続けてきた。暴走する時と、安定している時の違いくらいは分かっている。


「傷だけを見る。周りまで包もうとするな」

「分かった」

「呼吸を止めるな」


 それも昔、母に言われたことだった

 ルシェラは一度だけ深く息を吐き、肩の傷へそっと手をかざした。


「……大丈夫」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 指先に淡い光が灯る。

 戦おうとした時に出る強い光とは違う。

 柔らかく、温かい。

 昔、小鳥を包んだ時と同じ光だった。

 それを傷口より少し広い範囲だけに留める。


「……っ」


 途中で光が強くなりかけた。


「力を足すな」


 セリウスが静かに言う。


「今ある分を保て」


 ルシェラは頷いた。

 焦らない。

 全部を治そうとしない。


 早く治れと押しつけない。

 傷ついた身体が戻ろうとするのを、少しだけ手伝う。

 幼い頃、母に言われた言葉を思い出す。


『治すことと、急いで動けるようにすることは違うのよ』


 ルシェラは傷だけを見つめた。

 光が静かに染み込んでいく。

 流れていた血が徐々に弱まり、開いていた傷の端も、ほんの少しずつ閉じていった。


 完全には消えない。

 赤い裂傷は残っているし、動かせばまだ痛むだろう。

 それでも出血はほぼ止まった。

 ルシェラはそこで自分から光を弱め、そのまま消した。


「……ここまで」


 額には汗が滲んでいる。

 セリウスが肩を動かして確かめる。


「まだ痛い?」

「ああ」


 ルシェラの顔が曇った。

 だが、セリウスは続ける。


「かなり楽になった」

「……ほんと?」

「ああ」

「全部治せなかった」

「全部治す必要はない」


 ルシェラが顔を上げる。


「今必要なのは、血を止めて動けるようにすることだ。傷を完全に消すことじゃない」


 その言葉に、ルシェラは十歳の頃の中庭を思い出した。

 枝へ飛び移った小鳥。

 完全には羽の震えが消えていなかった。

 それを見て、母は言った。


『半分ね』


 あの時は少し悔しかった。

 でも、今なら少し分かる。


「……お母さまと同じこと言う」

「そうなのか」

「うん」


 ルシェラは少しだけ笑った。


「お母さまも、全部すぐ治せばいいわけじゃないって言ってた」

「なら、その教えは正しい」


 セリウスが自分の肩を見る。


「今は以前より落ち着いて魔力を扱えている」


 ルシェラは自分の掌へ目を落とした。


 昔は治したいと思えば光が広がりすぎ、怖くなれば消えた。感情に引っ張られ、力まで一緒に揺れていた。

 今も完全ではない。

 それでも今日は怖かった。


 セリウスが血を流し、また誰かを失うかもしれないと思った。

 それでも必要な場所へ、必要な分だけ力を使い、自分の意思で止めることができた。


「……少し、上手くなった?」

「ああ」


 セリウスは迷わず答える。


「それは君が続けてきた結果だ」


 ルシェラは嬉しそうにしかけて、すぐに傷を見て眉を下げた。


「でも……セリウスが怪我したから、嬉しくない」

「そうか」

「そこは何か言って」

「何を言えばいい」

「……もういい」


 少しだけ、いつものやり取りが戻った。

 それだけで、張り詰めていた胸がほんの少し軽くなる。


「覚えておけ」


 セリウスが言った。


「今日、君は私を守った」


 ルシェラが目を瞬く。


「でも、戦ってない」

「戦うことだけが守ることじゃない」


 治りかけた肩へ視線を落とす。


「傷を癒やすことも、逃げる道を見つけることも、言われた時に動くこともだ」

「……私、守れた?」

「ああ」


 その一言が、ルシェラの胸へ静かに落ちた。

 両親が教えてくれたもの。

 セリウスと旅をしながら覚えたもの。

 その二つが、少しずつ一つにつながっていく。


◇ ◇ ◇


「……でも、守られるのは怖い」


 しばらくして、ルシェラが小さく言った。

 セリウスは黙って続きを待つ。


「前に立たれると……また、いなくなる気がする」


 目から涙が落ちる。


「お母さまも、お父さまも、そうだったから」


 自分を守って、自分を逃がして、いなくなった。


「だからセリウスが前に立つと、怖くなる。また私だけ残るんじゃないかって……」


 セリウスはしばらく何も言わなかった。

 やがて傷のない方の手を伸ばし、ルシェラの頭へそっと置く。


「私は、二人の代わりにはなれない」

「……うん」

「なるつもりもない」


 ルシェラが顔を上げる。


「だが、君を守ると決めた」


 その言葉は変わらない。


「それは、君を置いて死ぬと決めたという意味じゃない」

「……ほんと?」

「ああ」

「絶対に、いなくならない?」


 セリウスは答えを急がなかった。

 ルシェラも、その沈黙の意味をもう知っている。


「……そこは絶対って言ってほしい」

「守れない約束はしない」

「やっぱり優しくない」

「そうか」


 ルシェラは涙を拭い、それからほんの少し笑った。


「でも……セリウスらしい」


 その夜、二人は追手を警戒し、森の奥で火を焚かずに休んだ。

 眠る前、ルシェラは自分の掌を見つめる。

 幼い頃から知っていた。

 この手には、傷を癒やす力がある。


 けれど今日、初めて分かったこともある。

 治癒の力があるだけでは、人を守ることはできない。

 怖い時に止まれること。

 周囲を見ること。

 どこまで力を使うべきか、自分で決めること。


 そして、傷ついた相手を次の日へつなげること。

 それもまた、守るということなのだ。

 ルシェラは掌を胸元へ引き寄せた。


 母から教わったもの。

 父から教わったもの。

 そして今、セリウスから教わっているもの。


 そのどれも失わずに、少しずつ自分の力へ変えていこうとしていた。



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