『教える手』
逃亡を始めてから、20日ほどが過ぎていた。
朝の森はまだ白く霞み、木々の隙間には夜露が残っている。セリウスは夜明け前から野営地の周囲を一周し、昨夜にはなかった足跡がないことを確認してから戻ってきた。
獣の痕跡はいくつかある。だが、人の足跡はない。鳥の声も普段と変わらず、近くに追手が潜んでいる様子もなかった。
今日は少し余裕がある。
そう判断すると、セリウスは昨夜の火を起こし直した。
ルシェラはまだ外套に包まれて眠っている。旅を始めた頃に比べれば眠れるようになったが、それでも時折、眉を寄せたり、何かから逃げるように身体を縮めたりすることがあった。
セリウスは起こさなかった。
湯を沸かし、残っていた根菜と干し肉を少量だけ鍋へ入れる。食料はかなり減っている。そろそろ人里で補給しなければならなかった。
やがて湯気の匂いに気づいたのか、ルシェラがゆっくりと目を開けた。
「……朝?」
「ああ。食べられるか」
「少しなら」
差し出された器を、ルシェラは両手で受け取る。
最初の数日は、何かを渡すたびに一瞬だけ躊躇していた。それが今は、少なくともセリウスから受け取る時にはほとんど見られなくなっている。
小さな変化だった。
だが、セリウスはそれで十分だと思っていた。
◇ ◇ ◇
朝食を終えると、セリウスは荷物の横から短い木剣を取り出した。
夜番の間に、手頃な枝を削って作ったものだった。
ルシェラが不思議そうに見る。
「……剣?」
「訓練用だ」
その言葉に、彼女の表情が少しだけ硬くなった。
セリウスは無理に渡さず、地面へ置いた。
「今日から少しずつ教える」
「戦うため?」
「生き残るためだ」
ルシェラは黙る。
「剣を持ったからといって、必ず相手を倒す必要はない。避ける。距離を取る。逃げる時間を作る。誰かを近づけさせない。それも全部、剣の使い方だ」
セリウスは片足を半歩引き、身体を正面から少しずらして立った。
「まずは足だ。足元が崩れれば、剣以前の問題になる」
ルシェラはそれを見て立ち上がる。
右足を少し引き、膝を軽く曲げた。
その姿を見たセリウスの目が僅かに細くなる。
「……教わったことがあるな」
ルシェラは足元を見た。
「お母さまと、お父さまに」
「何を教わった」
「転ばないように立つこと。すぐ動けるように、膝を固めないこと」
少し考えてから続ける。
「逃げる時も、守る時も、まず足からって」
「そうか」
ネメシアとエルシオン。
二人が娘へ残したものは、ちゃんと彼女の中にある。
セリウスは木剣を拾った。
「なら、その続きをやる」
「……続きを?」
「ああ。二人が教えたことを、最初からやり直す必要はない」
ルシェラが顔を上げた。
その金と赤い瞳が、少しだけ揺れた。
「持ってみろ」
差し出された木剣を、今度は自分から受け取る。
両手で強く握った瞬間、セリウスが言った。
「力を入れすぎだ」
「でも、落としそう」
「ずっと握り締めていれば、先に腕が疲れる。落とさない程度でいい」
セリウスは自分の剣の柄に軽く手を添えて見せた。
「肩も上げるな。腕だけで振ろうとするな。まずは剣を振ることより、必要な場所へ動かせることを覚えろ」
「必要な場所?」
「相手と自分の間だ」
セリウスは細い枝を一本拾った。
「私が近づく。攻撃しなくていい。枝が君に届かない場所へ、木剣を持ってこい」
「……分かった」
セリウスが一歩踏み込む。
ルシェラは慌てて木剣を前へ出した。
だが、腕だけが先に動いた。
セリウスは枝で木剣を横へ押す。ルシェラの身体が引っ張られるように傾いた。
「足が止まっている」
「……もう一回」
「今度は先に半歩動け」
二度目。
ルシェラは後ろへ下がったが、今度は下がりすぎた。
三度目は枝を真正面から受けようとして、力負けした。
四度目。
セリウスが踏み込んだ瞬間、ルシェラは半歩だけ斜め後ろへ動いた。同時に木剣を身体の前へ置く。
枝が木剣へ当たり、横へ滑った。
セリウスの足が止まる。
ルシェラが目を丸くした。
「……今の?」
「ああ」
「できた?」
「できた」
ほんの一度。
それでも、ルシェラは自分の木剣を少し違うものを見るように見つめていた。
◇ ◇ ◇
休憩を挟んでから、セリウスはもう一つの訓練を始めた。
「次は魔力だ」
ルシェラの顔から、先ほどまでの僅かな明るさが消える。
「……やらないと、だめ?」
「無理に魔法を使わせるつもりはない」
セリウスは彼女の前へ座った。
「今覚えるのは、出すことじゃない。止めることだ」
「止める?」
「君は感情が大きく動くと、魔力まで一緒に溢れる。それが一番危険だ」
ルシェラは自分の手を見る。
逃亡の日。
恐怖と悲しみに反応して、何度も力が漏れた。
自分でも止められなかった。
「魔力そのものを怖がるな。まず、自分の中にあるものだと認識する」
「どうやって?」
「目を閉じろ」
ルシェラが目を閉じる。
「呼吸を普段通りにする。深く吸おうとしなくていい。力も入れるな」
「……うん」
「身体の中で、どこが熱いか。どこに力が集まっているように感じるか。それだけ探せ」
しばらく沈黙が続いた。
「……胸のところ」
「そこから動かそうとするな。今は感じるだけでいい」
ルシェラの眉が僅かに寄る。
「次に、その感覚を少しだけ手のひらへ向ける」
「少しって?」
「少しだ。一気に出そうとするな」
ルシェラが右手を開いた。
数秒後。
掌の上へ、小さな白い光が灯った。
「……出た」
声が震える。
「そのまま」
「大きくしなくていいの?」
「大きくする訓練ではない。同じ大きさを保て」
光は揺れた。
一度強くなり、また弱くなる。
「息を止めるな」
セリウスに言われ、ルシェラが慌てて息を吐く。
光が少しだけ落ち着いた。
「今度は消せ」
「どうやって?」
「外へ押し出すのをやめる。身体の中の魔力まで消そうとする必要はない」
ルシェラは目を閉じる。
数秒後。
白い光が消えた。
「……できた」
「ああ」
「何も壊れなかった」
その言葉に、セリウスは彼女を見る。
そこが一番怖かったのだろう。
「これを繰り返す。出す量を自分で決めて、自分で止められるようになるまでだ」
「強い魔法は?」
「そのあとだ」
「いつ?」
「少なくとも、自分で止められないうちは教えない」
ルシェラは少し不満そうな顔をした。
「……厳しい」
「君の力は大きい。だから順番を間違えるな」
セリウスは淡々と言う。
「力があることと、使えることは別だ」
ルシェラはしばらく自分の手を見つめ、それから静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
翌日の昼。
二人は森を抜けた先にある、小さな村へ立ち寄った。
街道から離れた山裾の村で、旅人も珍しくない。セリウスは念のため黒い鎧を外套で隠し、ルシェラにも深くフードを被らせた。
食料だけ買って出るつもりだった。
だが雑貨屋の前で、セリウスがルシェラの姿を見て足を止めた。
逃げ出した時から着ている服は、枝に引っかかって何か所も裂けていた。裾には泥が染みつき、靴もかなり傷んでいる。
「入るぞ」
「ここ?」
「服を買う」
ルシェラが自分の服を見る。
「まだ着られる」
「着られるかどうかではなく、旅を続けられるかだ」
「……セリウスの服も破れてる」
「私のはまだ使える」
「ずるい」
「何がだ」
結局、ルシェラは店へ連れていかれた。
店の奥には、旅人向けの丈夫な服だけでなく、村の娘たちが着るような、少し可愛らしい服も並んでいた。
セリウスは最初、動きやすさと丈夫さだけを基準に選ぼうとした。
だがルシェラは、淡い灰青色のワンピースへ目を留めた。
膝下まである丈で、裾には細い白い刺繍が入っている。腰には細い革紐が通され、上から短い濃紺のボレロを羽織れるようになっていた。
華美ではない。
けれど、旅装の中にも少女らしさが残る服だった。
「これ……」
ルシェラが小さく呟く。
「気に入ったのか」
「……少し」
セリウスは服とルシェラを見比べた。
「動けるか」
「うん。たぶん」
店主が笑う。
「その子なら、こっちの方が似合うよ。裾も長すぎないし、下にズボンを履けば山道でも大丈夫さ」
結局、灰青色のワンピースに、濃紺のボレロ、動きやすい濃色のズボン、丈夫な革靴を買うことになった。
さらに、寒さを防ぐための深い灰色のフード付き外套も選んだ。
ワンピースの裾からズボンが覗くため、走る時にも邪魔にならない。腰の革紐には小さな袋や短剣を結べるようになっていた。
旅に必要な実用性は残しながらも、今までよりずっと女の子らしい服装だった。
着替えて出てきたルシェラを、セリウスが上から下まで確認する。
「靴は痛くないか」
「大丈夫」
「裾は踏まないか」
ルシェラがその場で一度だけ回ってみせる。
「大丈夫。走れるよ」
「腕は動くか」
ルシェラが両腕を上げてみせる。
「動く」
「ならいい」
「……似合うとかは言わないの?」
セリウスが少しだけ止まった。
ルシェラは淡い灰青色の服の裾をつまみ、少し不安そうに見下ろしている。
セリウスはしばらく考えた。
「似合っている」
ルシェラが目を丸くする。
「……今、言った?」
「ああ」
「ちゃんと?」
「似合っている」
今度は、はっきりと。
ルシェラの頬が少し赤くなった。
「……そっか」
「旅にも向いている」
「そこは余計」
「必要な確認だ」
「でも……ありがとう」
ルシェラは嬉しそうに、ワンピースの裾をもう一度見た。
だがその顔には、以前にはなかった子どもらしさが戻っていた。
村を出たあと、ルシェラは新しい外套の裾と、灰青色のワンピースの刺繍を何度か触っていた。
木剣は荷物の横に結ばれている。
まだ剣士とは呼べない。
魔力も、ほんの小さな光を出して消すだけ。
それでも。
「セリウス」
「なんだ」
「わたし、ちゃんと覚える」
歩きながら、ルシェラが言う。
「お母さまと、お父さまが教えてくれたことも。セリウスが教えてくれることも」
セリウスは前を向いたまま答えた。
「ああ」
「忘れない?」
「使い続ければな」
ルシェラは少し考えて。
「じゃあ、使う」
新しい靴で地面を踏む。
一歩。
また一歩。
守るために立つ足を。
危険から離れるための動きを。
そして、自分の中にある大きな力を、自分で止める方法を。
ルシェラは旅を続けながら、一つずつ覚え始めていた。




