↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第4章『ルシェラ過去編』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
146/188

『旅の始まり』

夜が明ける前に、セリウスは火を消した。


石小屋の中に残っていた小さな赤い火種を、靴の先ではなく、濡らした布で丁寧に覆う。

煙が立たないように。

匂いが残らないように。


追手は、足跡だけを追うわけではない。

火の匂い、踏まれた草、折れた枝。

そういうものすべてが、逃げる者の背中を指す。


セリウスは外へ出て、空を見上げた。


まだ夜の色が残っている。

東の山際だけが、薄く青みはじめていた。

風は冷たい。

雨は降っていないが、土は湿っていて、歩けば足跡が残りやすい朝だった。


小屋の中では、ルシェラが目を覚ましていた。


眠っていた、というより。

目を閉じていた、という方が近かった。


昨夜、彼女はいつもより火の近くで眠った。

それでもセリウスからは離れていたし、体を丸めるようにしていた。

何かを守るように。

あるいは、何かが欠けた場所を両腕で押さえるように。


「起きられるか」


セリウスが声をかけると、ルシェラは少し遅れて頷いた。


言葉はない。

だが、昨日のように床を見つめたまま固まっているわけではなかった。


セリウスは干した布を手早く畳み、荷に押し込む。

食べ残した硬いパンを二つに割り、片方をルシェラへ差し出した。


ルシェラは受け取ったものの、すぐには口に運ばなかった。


セリウスは自分の分を水に浸す。

しばらく待ち、柔らかくなったところで噛んだ。


ルシェラがそれを見て、同じように水袋の口を開ける。

小さな手では紐がうまくほどけず、何度か指を滑らせた。


セリウスは黙って近づき、水袋の紐をゆるめる。

それから、彼女の手に戻した。


「濡らすと、少し食べやすい」


それだけ言う。


ルシェラはパンを水に浸した。

ふやけた端を少しだけかじる。

味はほとんどしなかったはずだ。

それでも、昨日よりは長く噛んでいた。


セリウスは外套を羽織り、扉の隙間から外を見る。


「出るか」


ルシェラの肩が小さく揺れた。


「……もう?」


「ここには長くいられない」


その言葉に、ルシェラは何かを飲み込むように目を伏せた。

家を失ってから、彼女にとって“長くいられない”という言葉は、ひどく重いものになっていた。


セリウスはそれに気づいたが、言い換えなかった。


ただ、荷を背負う前に、小屋の隅に置いていた小さな布包みを拾う。

中には、昨夜乾かしていた薄手の外套が入っていた。


「冷える」


そう言って、ルシェラの肩にかけた。


彼女は反射的に身を縮めた。

けれど、払いのけはしなかった。


外へ出ると、朝の空気が二人の頬を刺した。


森は静かだった。

鳥の声も少ない。

遠くの谷底から、水の流れる音だけが聞こえていた。


セリウスは街道へは向かわなかった。

小屋の裏手に回り、岩肌に沿って細い獣道へ入っていく。


ルシェラはその後をついて歩いた。


最初は距離があった。

五歩。

六歩。

ときどき、それ以上。


セリウスは振り返りすぎないように歩いた。

振り返れば急かしているように見える。

振り返らなければ、置いていくように見える。


だから、歩幅だけを落とした。


ルシェラの足音が遅くなれば、少し先の木の根元で立ち止まる。

水を飲むふりをする。

地図を見るふりをする。

剣の帯を直すふりをする。


その間に、ルシェラが追いつく。


彼女は何も言わない。

セリウスも、何も言わない。


ただ、同じ方向へ進んだ。


昼前、森の中ほどで、ルシェラの足が止まった。


セリウスは数歩先で気づき、振り返る。


彼女は右足をかばっていた。

顔色は変えないようにしているが、唇に力が入っている。


「足を見せろ」


ルシェラは首を振った。


「だいじょうぶ」


その言葉を聞いた瞬間、セリウスの眉がわずかに動いた。


「大丈夫かどうかは、見てから決める」


少しだけ強い声だった。

けれど冷たくはなかった。


ルシェラは迷ったあと、近くの倒木に腰を下ろした。

セリウスは膝をつき、彼女の靴をそっと脱がせる。


かかとの皮が擦れて赤くなっていた。

まだ血は出ていない。

だがこのまま歩けば、すぐに破れる。


セリウスは荷から布を取り出し、細く裂いた。

水で汚れを落とし、乾いた部分を当てる。

巻き方は手慣れていた。


ルシェラは自分の足に触れるその手を、じっと見ていた。


セリウスは結び目を強くしすぎないよう確かめてから、靴を履かせ直した。

立ち上がるとき、彼女に手を差し出す。


ルシェラはその手を見た。


少し前なら、取らなかったかもしれない。

取れば、何かが戻ってしまうようで。

取れば、また失うものが増えるようで。


でも今は違った。


彼女は迷いながら、指先だけをセリウスの手に触れさせた。


セリウスは強く握らなかった。

ただ、立ち上がる分だけ支えた。

ルシェラが立つと、すぐに離す。


その距離が、今の二人にはちょうどよかった。


午後になると、森の気配が変わった。


セリウスが先に気づいた。

風の流れが一瞬止まり、鳥の声が消えた。

遠くで、枝を踏む音がする。


一つではない。

複数。


セリウスは手を上げ、ルシェラを止めた。


「声を出すな」


ルシェラの目が見開かれる。


彼女の呼吸が浅くなった。

思い出したのだろう。

炎。

叫び声。

崩れる家。

差し伸べられた手。

届かなかった手。


セリウスはルシェラの前に立った。

剣には触れない。

ただ、彼女の視界を少しだけ遮る位置に立つ。


それから近くの岩陰を指す。


ルシェラは言われた通り、そこへ身を寄せた。

セリウスもすぐ隣に膝をつく。


足音は近づき、やがて遠ざかった。


山狩りの兵ではない。

旅の狩人か、あるいは周辺を探る者か。

どちらにせよ、今は見つからない方がいい。


しばらくして、森に鳥の声が戻った。


セリウスはようやく息を吐く。


「行くぞ」


ルシェラは頷いた。

だが立とうとして、少しふらついた。


セリウスは咄嗟に腕を伸ばしかけて、止めた。

代わりに、自分の水袋を彼女へ渡す。


ルシェラはそれを受け取る。

水をひと口飲んだあと、小さく言った。


「……セリウス」


その名は、昨日より少しだけ自然だった。


セリウスは短く答える。


「なんだ」


「さっきの人たち……おって?」


「分からない」


「また、くる?」


「来るかもしれない」


ルシェラの指が水袋を握りしめる。


セリウスは少しだけ間を置き、言った。


「だから、先に進む」


「どこへ?」


「追いつかれにくい場所へ」


「そこに、いえはある?」


セリウスは答えに詰まった。


家。

その言葉は、今のルシェラにはあまりにも遠い。


彼は嘘をつかなかった。


「まだない」


ルシェラは目を伏せる。


けれど、セリウスは続けた。


「休める場所は探す」


「火を焚ける場所も」


「眠れる場所も」


「その日ごとに、一つずつ」


ルシェラはしばらく黙っていた。


やがて、ほんの小さく頷いた。


夕暮れの頃、二人は森を抜け、岩の多い斜面に出た。

そこからは遠くの谷が見えた。

深都エルグラディアの方角は、もう見えない。


ルシェラは振り返らなかった。

振り返れば、もう戻れないことが本当になる気がしたのかもしれない。


セリウスは平らな岩場を選び、そこに荷を下ろした。

今夜はここで休むしかない。

火は小さく。

煙は少なく。

眠りは浅く。


それでも、昨夜より少しだけ空は広かった。


ルシェラは外套に包まり、岩にもたれて座った。

セリウスは干し肉を薄く裂き、硬い部分を自分の方へ、柔らかい部分を彼女の方へ置いた。


「食べろ」


ルシェラはそれを見て、少しだけ眉を寄せる。


「セリウスのは?」


「ある」


ルシェラは何か言いたそうにしたが、結局黙って受け取った。

そして、ゆっくり噛んだ。


夜が降りてくる。

山の向こうに星が出始める。


ルシェラは空を見上げていた。


「……おかあさまも、星を見てるかな」


セリウスはすぐには答えなかった。

軽い慰めを言えば、彼女はきっと分かってしまう。


だから、こう言った。


「分からない」


ルシェラの目が少し沈む。


「だが」


セリウスは火打ち石をしまいながら、静かに続けた。


「君が見ていることは、忘れないと思う」


ルシェラは空を見たまま、何も言わなかった。


でもその夜、彼女は眠る前に一度だけ、セリウスの方を見た。


「……おやすみ、セリウス」


声は小さかった。

風に消えそうなほどだった。


セリウスは火の番をしながら答える。


「おやすみ、ルシェラ」


それだけで、十分だった。


家はまだない。

帰る場所もない。

追手はどこかで二人を探している。


けれど旅は始まった。


失ったものの重さを抱えたまま。

まだ名前を呼ぶことしかできない距離のまま。


二人は、朝の来る方へ歩いていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。