『旅の始まり』
夜が明ける前に、セリウスは火を消した。
石小屋の中に残っていた小さな赤い火種を、靴の先ではなく、濡らした布で丁寧に覆う。
煙が立たないように。
匂いが残らないように。
追手は、足跡だけを追うわけではない。
火の匂い、踏まれた草、折れた枝。
そういうものすべてが、逃げる者の背中を指す。
セリウスは外へ出て、空を見上げた。
まだ夜の色が残っている。
東の山際だけが、薄く青みはじめていた。
風は冷たい。
雨は降っていないが、土は湿っていて、歩けば足跡が残りやすい朝だった。
小屋の中では、ルシェラが目を覚ましていた。
眠っていた、というより。
目を閉じていた、という方が近かった。
昨夜、彼女はいつもより火の近くで眠った。
それでもセリウスからは離れていたし、体を丸めるようにしていた。
何かを守るように。
あるいは、何かが欠けた場所を両腕で押さえるように。
「起きられるか」
セリウスが声をかけると、ルシェラは少し遅れて頷いた。
言葉はない。
だが、昨日のように床を見つめたまま固まっているわけではなかった。
セリウスは干した布を手早く畳み、荷に押し込む。
食べ残した硬いパンを二つに割り、片方をルシェラへ差し出した。
ルシェラは受け取ったものの、すぐには口に運ばなかった。
セリウスは自分の分を水に浸す。
しばらく待ち、柔らかくなったところで噛んだ。
ルシェラがそれを見て、同じように水袋の口を開ける。
小さな手では紐がうまくほどけず、何度か指を滑らせた。
セリウスは黙って近づき、水袋の紐をゆるめる。
それから、彼女の手に戻した。
「濡らすと、少し食べやすい」
それだけ言う。
ルシェラはパンを水に浸した。
ふやけた端を少しだけかじる。
味はほとんどしなかったはずだ。
それでも、昨日よりは長く噛んでいた。
セリウスは外套を羽織り、扉の隙間から外を見る。
「出るか」
ルシェラの肩が小さく揺れた。
「……もう?」
「ここには長くいられない」
その言葉に、ルシェラは何かを飲み込むように目を伏せた。
家を失ってから、彼女にとって“長くいられない”という言葉は、ひどく重いものになっていた。
セリウスはそれに気づいたが、言い換えなかった。
ただ、荷を背負う前に、小屋の隅に置いていた小さな布包みを拾う。
中には、昨夜乾かしていた薄手の外套が入っていた。
「冷える」
そう言って、ルシェラの肩にかけた。
彼女は反射的に身を縮めた。
けれど、払いのけはしなかった。
外へ出ると、朝の空気が二人の頬を刺した。
森は静かだった。
鳥の声も少ない。
遠くの谷底から、水の流れる音だけが聞こえていた。
セリウスは街道へは向かわなかった。
小屋の裏手に回り、岩肌に沿って細い獣道へ入っていく。
ルシェラはその後をついて歩いた。
最初は距離があった。
五歩。
六歩。
ときどき、それ以上。
セリウスは振り返りすぎないように歩いた。
振り返れば急かしているように見える。
振り返らなければ、置いていくように見える。
だから、歩幅だけを落とした。
ルシェラの足音が遅くなれば、少し先の木の根元で立ち止まる。
水を飲むふりをする。
地図を見るふりをする。
剣の帯を直すふりをする。
その間に、ルシェラが追いつく。
彼女は何も言わない。
セリウスも、何も言わない。
ただ、同じ方向へ進んだ。
昼前、森の中ほどで、ルシェラの足が止まった。
セリウスは数歩先で気づき、振り返る。
彼女は右足をかばっていた。
顔色は変えないようにしているが、唇に力が入っている。
「足を見せろ」
ルシェラは首を振った。
「だいじょうぶ」
その言葉を聞いた瞬間、セリウスの眉がわずかに動いた。
「大丈夫かどうかは、見てから決める」
少しだけ強い声だった。
けれど冷たくはなかった。
ルシェラは迷ったあと、近くの倒木に腰を下ろした。
セリウスは膝をつき、彼女の靴をそっと脱がせる。
かかとの皮が擦れて赤くなっていた。
まだ血は出ていない。
だがこのまま歩けば、すぐに破れる。
セリウスは荷から布を取り出し、細く裂いた。
水で汚れを落とし、乾いた部分を当てる。
巻き方は手慣れていた。
ルシェラは自分の足に触れるその手を、じっと見ていた。
セリウスは結び目を強くしすぎないよう確かめてから、靴を履かせ直した。
立ち上がるとき、彼女に手を差し出す。
ルシェラはその手を見た。
少し前なら、取らなかったかもしれない。
取れば、何かが戻ってしまうようで。
取れば、また失うものが増えるようで。
でも今は違った。
彼女は迷いながら、指先だけをセリウスの手に触れさせた。
セリウスは強く握らなかった。
ただ、立ち上がる分だけ支えた。
ルシェラが立つと、すぐに離す。
その距離が、今の二人にはちょうどよかった。
午後になると、森の気配が変わった。
セリウスが先に気づいた。
風の流れが一瞬止まり、鳥の声が消えた。
遠くで、枝を踏む音がする。
一つではない。
複数。
セリウスは手を上げ、ルシェラを止めた。
「声を出すな」
ルシェラの目が見開かれる。
彼女の呼吸が浅くなった。
思い出したのだろう。
炎。
叫び声。
崩れる家。
差し伸べられた手。
届かなかった手。
セリウスはルシェラの前に立った。
剣には触れない。
ただ、彼女の視界を少しだけ遮る位置に立つ。
それから近くの岩陰を指す。
ルシェラは言われた通り、そこへ身を寄せた。
セリウスもすぐ隣に膝をつく。
足音は近づき、やがて遠ざかった。
山狩りの兵ではない。
旅の狩人か、あるいは周辺を探る者か。
どちらにせよ、今は見つからない方がいい。
しばらくして、森に鳥の声が戻った。
セリウスはようやく息を吐く。
「行くぞ」
ルシェラは頷いた。
だが立とうとして、少しふらついた。
セリウスは咄嗟に腕を伸ばしかけて、止めた。
代わりに、自分の水袋を彼女へ渡す。
ルシェラはそれを受け取る。
水をひと口飲んだあと、小さく言った。
「……セリウス」
その名は、昨日より少しだけ自然だった。
セリウスは短く答える。
「なんだ」
「さっきの人たち……おって?」
「分からない」
「また、くる?」
「来るかもしれない」
ルシェラの指が水袋を握りしめる。
セリウスは少しだけ間を置き、言った。
「だから、先に進む」
「どこへ?」
「追いつかれにくい場所へ」
「そこに、いえはある?」
セリウスは答えに詰まった。
家。
その言葉は、今のルシェラにはあまりにも遠い。
彼は嘘をつかなかった。
「まだない」
ルシェラは目を伏せる。
けれど、セリウスは続けた。
「休める場所は探す」
「火を焚ける場所も」
「眠れる場所も」
「その日ごとに、一つずつ」
ルシェラはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの小さく頷いた。
夕暮れの頃、二人は森を抜け、岩の多い斜面に出た。
そこからは遠くの谷が見えた。
深都エルグラディアの方角は、もう見えない。
ルシェラは振り返らなかった。
振り返れば、もう戻れないことが本当になる気がしたのかもしれない。
セリウスは平らな岩場を選び、そこに荷を下ろした。
今夜はここで休むしかない。
火は小さく。
煙は少なく。
眠りは浅く。
それでも、昨夜より少しだけ空は広かった。
ルシェラは外套に包まり、岩にもたれて座った。
セリウスは干し肉を薄く裂き、硬い部分を自分の方へ、柔らかい部分を彼女の方へ置いた。
「食べろ」
ルシェラはそれを見て、少しだけ眉を寄せる。
「セリウスのは?」
「ある」
ルシェラは何か言いたそうにしたが、結局黙って受け取った。
そして、ゆっくり噛んだ。
夜が降りてくる。
山の向こうに星が出始める。
ルシェラは空を見上げていた。
「……おかあさまも、星を見てるかな」
セリウスはすぐには答えなかった。
軽い慰めを言えば、彼女はきっと分かってしまう。
だから、こう言った。
「分からない」
ルシェラの目が少し沈む。
「だが」
セリウスは火打ち石をしまいながら、静かに続けた。
「君が見ていることは、忘れないと思う」
ルシェラは空を見たまま、何も言わなかった。
でもその夜、彼女は眠る前に一度だけ、セリウスの方を見た。
「……おやすみ、セリウス」
声は小さかった。
風に消えそうなほどだった。
セリウスは火の番をしながら答える。
「おやすみ、ルシェラ」
それだけで、十分だった。
家はまだない。
帰る場所もない。
追手はどこかで二人を探している。
けれど旅は始まった。
失ったものの重さを抱えたまま。
まだ名前を呼ぶことしかできない距離のまま。
二人は、朝の来る方へ歩いていく。




