『名前を呼ぶ人』
雨は降っていなかった。
けれど、空気はずっと湿っていた。
深都エルグラディアを離れてから、何日も過ぎていた。
セリウスは街道を避け、山の陰と森の縁ばかりを選んで進んでいた。
追手を振り切るためでもあるし、何より今のルシェラを人の多い場所へ連れて行くわけにはいかなかった。
その日も二人は、山あいの古い山小屋を借りるでもなく、半ば打ち捨てられた小さな石小屋に身を寄せていた。
壁は冷たく、窓はひび割れ、扉も完全には閉まらない。
けれど風をしのげるだけで、今は十分だった。
火は小さく焚いてある。
鍋には湯を沸かしていた。
乾いた薬草を放り込み、少しでも体を休めるための、味気ない湯だ。
ルシェラはその火からいちばん遠い壁際に座っていた。
膝を抱え、銀白の髪を前へ垂らし、何も見ていない目で床のひびを見つめている。
泣いてはいなかった。
むしろ、あの日以来ほとんど泣いていない。
泣ききったあとに残る、空っぽに近い静けさだけがそこにあった。
セリウスは鍋の湯を見ながら、ちらりと彼女を見た。
細い。
もともと華奢な子どもだったが、この数日でさらに薄くなった気がする。
食べる量も少ない。
眠りも浅い。
夜中に何度か目を覚まし、そのたびに声も出さず窓の外を見ていた。
名前を呼ばない。
何かを欲しがらない。
ただ、ここに置かれているように座っている。
セリウスは木の器に湯を注ぎ、少し冷ましてから彼女の前へ置いた。
「熱い。少し待ってから飲め」
返事はない。
それももう、何度目か分からなかった。
セリウスは小さく息を吐き、自分の分を持って火のそばへ戻る。
どう扱うのが正しいのか分からない。
優しくしすぎれば壊れそうで、厳しくすると本当に消えてしまいそうだった。
しばらくして、器から湯気がやわらいだ頃。
ルシェラがようやく手を伸ばした。
両手で器を持つ。
だが飲む前に、じっと中を見つめるだけだった。
「……にがい」
それが、今日初めて彼女が口にした言葉だった。
セリウスは少しだけ顔を上げる。
「薬草を入れている」
「おいしくない」
「そうだな」
それだけのやり取り。
それだけなのに、石小屋の空気がほんの少しだけ動いた気がした。
ルシェラはひと口だけ飲み、すぐに顔をしかめる。
それでも器を置かなかった。
嫌でも飲まないといけないと、もう分かっている顔だった。
セリウスは火を見ながら言う。
「少しでも体力をつけよう、君は生きなければならない」
ルシェラは反応しない。
だが器を持つ指先は、さっきより少しだけ力が入っていた。
沈黙が落ちる。
外では風が木々を鳴らしていた。
どこか遠くで鳥が一度だけ鳴き、また静かになる。
セリウスは火へ薪をくべながら、言うべきか迷っていたことをようやく口にした。
「ルシェラ」
少女の肩が、ほんのわずかに揺れる。
名前を呼ばれたからか。
それとも、その声に何かを思い出したからか。
「お前は、ちゃんと眠れていない」
返事はない。
「夜中に起きているのは分かっている」
しばらく間があいてから、ルシェラが小さく言った。
「ねたら、ゆめみる」
「どんな夢だ」
「……わからない」
嘘だった。
本当は分かっている。
分かっているから言えないのだと、セリウスにも分かった。
火が、ぱちりと鳴る。
「おかあさまと、おとうさまが」
ルシェラは器を見たまま続けた。
「いるとこと、いなくなるとこ、どっちもみる」
その声は平坦だった。
泣いていない。
だからこそ、余計に痛かった。
セリウスはしばらく答えられなかった。
どんな言葉も浅くなる気がした。
「……そうか」
結局、それしか言えない。
ルシェラは少しだけ眉を寄せる。
「みんな、そういうとき、だいじょうぶっていう」
「私は言わない」
セリウスははっきり言った。
ルシェラがようやく顔を上げる。
赤い目。
泣き腫らしたあとの赤ではなく、眠れない夜が続いた赤だった。
セリウスはその目をまっすぐ見て続ける。
「大丈夫じゃない時に、大丈夫とは言わない」
「つらいなら、つらいままでいい」
「忘れなくてもいい」
ルシェラはじっと彼を見ていた。
その視線の奥で、何かが少しだけ揺れる。
「……じゃあ、どうすればいいの」
それは助けを求める声ではなかった。
途方に暮れた子どもが、ただ本当に分からなくて聞いた声だった。
セリウスは少し考えた。
それから、火の向こうで静かに答える。
「まず、生きる」
「食べて、眠って、朝が来たら起きる」
「それを繰り返す」
「今は、それでいい」
ルシェラはすぐには頷かなかった。
でも否定もしなかった。
器の中の湯をもうひと口飲む。
やっぱり苦かったのか、少しだけ顔をしかめる。
セリウスはその小さな変化を見て、胸の奥でほんの少しだけ息をついた。
壊れきってはいない。
まだ、こっちへ戻ってこられる。
その時、ルシェラがぽつりと呟いた。
「……セリウス」
今度は、セリウスの方が動きを止めた。
ルシェラが、自分の名を呼んだ。
初めてだった。
彼女は自分でも口にしたことに驚いたように、少しだけ目を伏せる。
けれど、もう一度言った。
「セリウス」
その呼び方は父ではない。
家族のそれではない。
でも他人でもない。
ここから始まる呼び方だった。
セリウスは短く返す。
「なんだ」
ルシェラは少しだけ迷ってから、かすかに言った。
「……いかないで」
その一言は、小さすぎるくらい小さかった。
でも間違いなく本音だった。
セリウスは火を見つめたまま、静かに答える。
「どこにも行かない」
ルシェラの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
その夜、彼女はいつもより少しだけ火の近くで眠った。
セリウスからはまだ遠い。
けれど、壁際ではなくなっていた。
名前を呼ぶ人がいる。
その事実だけが、失った世界のあとに残った最初の細い糸だった。
そしてセリウスは、眠りについたルシェラを見ながら思う。
この子はまだ、自分を必要としているわけじゃない。
ただ、完全なひとりではいたくないだけだ。
それでもいい、と彼は思った。
それで十分だった。
まだ絆と呼ぶにはあまりにも遠い場所から、静かに始まっていく。




