『湖畔の約束』
セリウスがルシェラを抱えて闇の中へ消えたあとも、戦場の熱はまるで弱まらなかった。
ネメシアはセリウスの背が完全に見えなくなるまで、決して振り返らなかった。
振り返れば、母になってしまう。
母になれば、足が止まる。
「行ったわね」
血を吐きながらも、ネメシアは低く言った。
エルシオンが剣を握り直す。
「ああ」
それで十分だった。
もう二人には、守るべきものの位置が変わっていた。
今この場で守るべきは、自分たちの命ではない。
ルシェラが少しでも遠くへ逃げるための時間だけだ。
白翼の兵が一斉に降下する。
エルシオンが先に踏み込み、最前の一人の槍を弾く。
返しの一撃で二人目の懐へ入り、肩口を斬り裂く。
三人目が頭上から光槍を落とすと、彼は半歩だけ踏み込み角度を殺し、そのまま剣を振り上げて光ごと叩き割った。
砕けた白光が雨のように散る。
同時に地上から裏切り者たちが押し寄せる。
ネメシアは一歩前へ出ると、剣を地へ突き立てた。
紅い魔力が石畳の亀裂へ走る。
次の瞬間、広場全体を円形に炎が駆け抜けた。
地を這うような火ではない。
まるで大地そのものの血が噴き上がるような紅蓮の波だった。
裏切り者たちが悲鳴を上げて飛び退く。
白翼の兵すら空中で体勢を崩す。
ネメシアはその炎の中心に立っていた。
紅い髪が熱風に舞い上がる。
剣の切っ先には火がまとわりつき、彼女が一歩踏み出すたびに石が焼け、空気がうなる。
「来なさい」
その声音に揺らぎはない。
「ルシェラには、指一本触れさせない」
それは宣言だった。
次に踏み込んできた裏切り者の剣を、ネメシアは真正面から叩き折った。
返す刃で手首を断ち、さらに後ろの一人へ肘を叩き込み、膝を払う。
止まらない。
流れるように敵を崩していく。
そこに迷いはなく、怒りさえも磨き上げられていた。
エルシオンは一瞬、その背に見惚れそうになる。
強い。
もともと知っていた。
だが今のネメシアは、それまで知っていた強さのさらに先にいた。
王として前に立ち続けた強さ。
母として奪わせないと決めた強さ。
その両方が、今この瞬間の彼女を押し上げている。
白翼の兵が後方から呟く。
「紅き守護者……!」
恐れが滲んだ声だった。
ネメシアはそれすら聞かず、さらに前へ出る。
剣を払えば炎が帯になって走り、刃を返せば熱波が壁となる。
敵が多いほど、彼女の戦場は広がった。
まるでこの都そのものが彼女に力を貸しているみたいだった。
だが、その圧倒の中心へ、ひとつだけ異質な気配が近づいてきた。
音もなく。
熱にも飲まれず。
まるで最初からそこにいた影が輪郭を持ったように。
アルヴァディウスだった。
銀髪。
整いすぎた顔。
炎と血に囲まれてなお、その笑みだけが不気味なほど崩れない。
「やはり、美しい」
その一言だけで、ネメシアの目が凍る。
「まだその口が利けるのね」
アルヴァディウスは笑みを深めた。
「君のその顔を壊すまで、黙る気はないよ」
ネメシアが地を蹴る。
紅い一閃。
アルヴァディウスはすれすれで躱すが、頬が裂け、血が飛ぶ。
次の瞬間には銀の刃が下から跳ね上がる。
ネメシアは身を沈め、回転するようにその懐へ入り込み、柄頭で胸を打つ。
骨の軋む音。
アルヴァディウスの体が後ろへ弾かれる。
だが彼は倒れない。
後退しながら笑う。
「そうだ、それだ。そうでなくては困る」
ネメシアは返答しない。
次の一歩で間合いを詰め、炎を纏わせた斬撃を三連で叩き込む。
銀の刃が受けるたびに、火花ではなく火炎そのものが爆ぜる。
一撃目でアルヴァディウスの防御を崩し、
二撃目で肩を裂き、
三撃目で腹を薙ぐ。
深い。
銀髪の男が初めて苦悶を漏らす。
それでもネメシアは止まらない。
剣を返し、そのまま左手に紅い魔力を集める。
凝縮された火球が、至近距離からアルヴァディウスの胸へ叩き込まれた。
轟音。
爆炎が広場の半分を呑み込み、白翼の兵まで巻き込んで吹き飛ばす。
石壁が割れ、熱風が荒れ狂う。
炎が晴れた時、アルヴァディウスは片膝をついていた。
外套は焼け落ち、銀髪も半ば焦げ、胸元は血と煤で黒く濡れている。
それでもまだ立っていること自体が異様だった。
エルシオンが息を呑む。
ネメシアの剣先が、その喉元へ突きつけられる。
「終わりよ」
アルヴァディウスは顔を上げた。
敗北の顔ではない。
むしろ、ようやく届く位置まで来た者の顔だった。
「そうかな」
その声は掠れている。
だが、まだ壊れていない。
ネメシアは一歩踏み込む。
殺す気だった。
今ここで終わらせる。
ルシェラへ二度と手が伸びないように、完全に断つために。
その瞬間だった。
アルヴァディウスが、ネメシアだけに聞こえる声で囁く。
「・・・・・・」
たったそれだけ。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、ネメシアの顔からすべての色が消えた。
目が見開かれる。
呼吸が止まる。
剣先が、わずかに揺れる。
絶望と怒りがこみ上げた。
「アルヴァディウス!!」
その一瞬を、アルヴァディウスは待っていた。
銀の刃が下から跳ね上がる。
深い。
脇腹から胸下を抉るような一撃。
「ネメシア!!」
エルシオンの叫びが裂ける。
ネメシアの体が大きく揺れ、血が噴き上がる。
剣が地面に当たり、火の粉を散らした。
アルヴァディウスは追撃に入る。
今度こそ本当に壊し切るために。
だがエルシオンが割って入る。
白い光が剣へ集まり、彼は渾身でその一撃を受ける。
受け止め切ることはできず、肩口から背へ深い裂傷が走る。
さらに白翼の兵がその隙を見逃さず、光槍が脇腹を貫いた。
「っ……!」
膝が沈む。
それでもエルシオンは倒れない。
倒れたら、終わる。
アルヴァディウスが笑う。
「やはり、君は邪魔だ」
その声に、エルシオンの中で何かが切れた。
怒りではない。
もっと深いところにある、最後の力の封だった。
彼は血を吐きながらネメシアの前へ立つ。
剣を両手で握り、目を閉じる。
「下がれ」
ネメシアは傷口を押さえたまま、かすれた声で言う。
「エル……」
「まだ、終わらせない」
その言葉とともに、彼の剣へ白い光が集まり始めた。
最初は細い筋。
それが次第に太く、激しく、眩い奔流へ変わる。
白翼の血。
剣士として鍛えた技。
そして今この瞬間だけは、守りたいものすべてを押し込んだ最後の一撃。
空気が震える。
敵兵がたじろぐ。
アルヴァディウスの笑みが初めて消えた。
エルシオンが剣を振り下ろす。
白閃。
ただの斬撃ではなかった。
広場そのものを縦に割るような光の奔流が走り、石畳を砕き、壁を裂き、敵兵ごと一直線に吹き飛ばす。
白翼も裏切り者も、その道の上にいた者はまとめて弾き飛ばされた。
広場の中央に、巨大な裂け目が生まれる。
その向こうは、一瞬だけ完全に開いた。
道だ。
エルシオンはその場で膝をつく。
もう立つ力はほとんど残っていない。
だが目だけはまだ死んでいなかった。
「……今だ」
ネメシアは息も絶え絶えのまま、彼のもとへ這うように寄る。
彼女自身も、もうまともに歩ける状態ではない。
エルシオンは最後の力で立ち上がり、ネメシアを抱きかかえた。
血が二人分、地面へ落ちる。
「エル、もう……」
「喋るな」
「でも……」
「湖まで行く」
その一言に、ネメシアは目を見開いた。
湖。
最初に二人が本当の意味で出会った場所。
敵ではなく、守る者同士として言葉を交わした場所。
ネメシアは、かすかに笑った。
「……本当に、最後まで」
「意地が悪い」
エルシオンは答えない。
ただネメシアを抱えたまま、裂けた道の向こうへ歩き出す。
「アルヴァディウス様、いかがいたしましょう?」
「あの傷じゃぁ助からない、絶望も与えたしもう良いよ。」
「はっ!」
二人が稼いだ時間は、十分だった。
ルシェラはもう遠い。
セリウスがきっと連れて行った。
ならば、自分たちの役目は終わる。
湖畔に着いた時、夜明けはもう始まっていた。
水面が薄く白み、風が静かに渡っている。
初めて手を取り合った日のように。
エルシオンはネメシアを岸辺の岩へそっと下ろし、その隣へ崩れるように座った。
どちらも、もう限界だった。
しばらくは何も言わず、ただ互いの呼吸だけを聞いていた。
血の匂いも、痛みもある。
それでも、この湖畔だけは不思議なほど穏やかだった。
やがてネメシアが、小さく笑う。
「……ひどい顔」
エルシオンもかすかに口元を緩めた。
「お前もだ」
「女に言うことじゃないわね」
「最期まで文句を言うのか」
「ええ。たぶん」
そのやりとりが、少しだけ二人を昔へ戻す。
エルシオンは湖面を見つめたまま言う。
「ルシェラは、行けたな」
「あの子なら、大丈夫」
ネメシアの声は弱い。
けれど迷いはなかった。
「泣くでしょうけど」
「怒るかもしれない」
「恨まれるかもしれない」
「それでも、生きてほしい」
エルシオンがゆっくりと言う。
「お前と出会えてよかった」
ネメシアは目を閉じた。
「……遅いのよ」
「そうかもな」
「もっと早く言いなさいよ」
「言っていただろう。たぶん、お前が聞いていなかっただけだ」
ネメシアは小さく笑い、それから血を吐いた。
エルシオンが手を伸ばす。
その手を、ネメシアはそっと握った。
「ルシェラ」
彼女が呟く。
「優しい子だから……苦しむわね」
「でも、あの子は大丈夫だ」
エルシオンの声はもうほとんど囁きだった。
「お前に似て、強い」
ネメシアは首を振る。
「あなたにも似てる」
「……なら、余計に大丈夫か」
湖の風が吹く。
最初に出会った日のように。
ネメシアは最後に空を見上げた。
「もし」
その声は、もう消えそうだった。
「もし次があるなら」
エルシオンは迷わず答える。
「ああ」
「また、一緒に」
その言葉に、エルシオンは即座に答えた。
「必ず」
それが最後の約束になった。
湖面が光る。
朝が来る。
そして、光と闇の手は、静かにほどけた。




