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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第4章『ルシェラ過去編』

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『湖畔の約束』

セリウスがルシェラを抱えて闇の中へ消えたあとも、戦場の熱はまるで弱まらなかった。


ネメシアはセリウスの背が完全に見えなくなるまで、決して振り返らなかった。


振り返れば、母になってしまう。

母になれば、足が止まる。


「行ったわね」


血を吐きながらも、ネメシアは低く言った。


エルシオンが剣を握り直す。


「ああ」


それで十分だった。


もう二人には、守るべきものの位置が変わっていた。

今この場で守るべきは、自分たちの命ではない。

ルシェラが少しでも遠くへ逃げるための時間だけだ。


白翼の兵が一斉に降下する。


エルシオンが先に踏み込み、最前の一人の槍を弾く。

返しの一撃で二人目の懐へ入り、肩口を斬り裂く。

三人目が頭上から光槍を落とすと、彼は半歩だけ踏み込み角度を殺し、そのまま剣を振り上げて光ごと叩き割った。


砕けた白光が雨のように散る。


同時に地上から裏切り者たちが押し寄せる。

ネメシアは一歩前へ出ると、剣を地へ突き立てた。


紅い魔力が石畳の亀裂へ走る。


次の瞬間、広場全体を円形に炎が駆け抜けた。


地を這うような火ではない。

まるで大地そのものの血が噴き上がるような紅蓮の波だった。

裏切り者たちが悲鳴を上げて飛び退く。

白翼の兵すら空中で体勢を崩す。


ネメシアはその炎の中心に立っていた。


紅い髪が熱風に舞い上がる。

剣の切っ先には火がまとわりつき、彼女が一歩踏み出すたびに石が焼け、空気がうなる。


「来なさい」


その声音に揺らぎはない。


「ルシェラには、指一本触れさせない」


それは宣言だった。


次に踏み込んできた裏切り者の剣を、ネメシアは真正面から叩き折った。

返す刃で手首を断ち、さらに後ろの一人へ肘を叩き込み、膝を払う。

止まらない。

流れるように敵を崩していく。

そこに迷いはなく、怒りさえも磨き上げられていた。


エルシオンは一瞬、その背に見惚れそうになる。


強い。


もともと知っていた。

だが今のネメシアは、それまで知っていた強さのさらに先にいた。

王として前に立ち続けた強さ。

母として奪わせないと決めた強さ。

その両方が、今この瞬間の彼女を押し上げている。


白翼の兵が後方から呟く。


「紅き守護者……!」


恐れが滲んだ声だった。


ネメシアはそれすら聞かず、さらに前へ出る。

剣を払えば炎が帯になって走り、刃を返せば熱波が壁となる。

敵が多いほど、彼女の戦場は広がった。

まるでこの都そのものが彼女に力を貸しているみたいだった。


だが、その圧倒の中心へ、ひとつだけ異質な気配が近づいてきた。


音もなく。

熱にも飲まれず。

まるで最初からそこにいた影が輪郭を持ったように。


アルヴァディウスだった。


銀髪。

整いすぎた顔。

炎と血に囲まれてなお、その笑みだけが不気味なほど崩れない。


「やはり、美しい」


その一言だけで、ネメシアの目が凍る。


「まだその口が利けるのね」


アルヴァディウスは笑みを深めた。


「君のその顔を壊すまで、黙る気はないよ」


ネメシアが地を蹴る。


紅い一閃。


アルヴァディウスはすれすれで躱すが、頬が裂け、血が飛ぶ。

次の瞬間には銀の刃が下から跳ね上がる。

ネメシアは身を沈め、回転するようにその懐へ入り込み、柄頭で胸を打つ。

骨の軋む音。

アルヴァディウスの体が後ろへ弾かれる。


だが彼は倒れない。

後退しながら笑う。


「そうだ、それだ。そうでなくては困る」


ネメシアは返答しない。

次の一歩で間合いを詰め、炎を纏わせた斬撃を三連で叩き込む。

銀の刃が受けるたびに、火花ではなく火炎そのものが爆ぜる。


一撃目でアルヴァディウスの防御を崩し、

二撃目で肩を裂き、

三撃目で腹を薙ぐ。


深い。


銀髪の男が初めて苦悶を漏らす。


それでもネメシアは止まらない。


剣を返し、そのまま左手に紅い魔力を集める。

凝縮された火球が、至近距離からアルヴァディウスの胸へ叩き込まれた。


轟音。


爆炎が広場の半分を呑み込み、白翼の兵まで巻き込んで吹き飛ばす。

石壁が割れ、熱風が荒れ狂う。


炎が晴れた時、アルヴァディウスは片膝をついていた。


外套は焼け落ち、銀髪も半ば焦げ、胸元は血と煤で黒く濡れている。

それでもまだ立っていること自体が異様だった。


エルシオンが息を呑む。


ネメシアの剣先が、その喉元へ突きつけられる。


「終わりよ」


アルヴァディウスは顔を上げた。


敗北の顔ではない。

むしろ、ようやく届く位置まで来た者の顔だった。


「そうかな」


その声は掠れている。

だが、まだ壊れていない。


ネメシアは一歩踏み込む。

殺す気だった。

今ここで終わらせる。

ルシェラへ二度と手が伸びないように、完全に断つために。


その瞬間だった。


アルヴァディウスが、ネメシアだけに聞こえる声で囁く。


「・・・・・・」


たったそれだけ。


けれど、その言葉を聞いた瞬間、ネメシアの顔からすべての色が消えた。


目が見開かれる。

呼吸が止まる。

剣先が、わずかに揺れる。


絶望と怒りがこみ上げた。


「アルヴァディウス!!」


その一瞬を、アルヴァディウスは待っていた。


銀の刃が下から跳ね上がる。


深い。


脇腹から胸下を抉るような一撃。


「ネメシア!!」


エルシオンの叫びが裂ける。


ネメシアの体が大きく揺れ、血が噴き上がる。

剣が地面に当たり、火の粉を散らした。


アルヴァディウスは追撃に入る。

今度こそ本当に壊し切るために。


だがエルシオンが割って入る。


白い光が剣へ集まり、彼は渾身でその一撃を受ける。

受け止め切ることはできず、肩口から背へ深い裂傷が走る。

さらに白翼の兵がその隙を見逃さず、光槍が脇腹を貫いた。


「っ……!」


膝が沈む。


それでもエルシオンは倒れない。

倒れたら、終わる。


アルヴァディウスが笑う。


「やはり、君は邪魔だ」


その声に、エルシオンの中で何かが切れた。


怒りではない。

もっと深いところにある、最後の力の封だった。


彼は血を吐きながらネメシアの前へ立つ。

剣を両手で握り、目を閉じる。


「下がれ」


ネメシアは傷口を押さえたまま、かすれた声で言う。


「エル……」


「まだ、終わらせない」


その言葉とともに、彼の剣へ白い光が集まり始めた。


最初は細い筋。

それが次第に太く、激しく、眩い奔流へ変わる。

白翼の血。

剣士として鍛えた技。

そして今この瞬間だけは、守りたいものすべてを押し込んだ最後の一撃。


空気が震える。


敵兵がたじろぐ。


アルヴァディウスの笑みが初めて消えた。


エルシオンが剣を振り下ろす。


白閃。


ただの斬撃ではなかった。

広場そのものを縦に割るような光の奔流が走り、石畳を砕き、壁を裂き、敵兵ごと一直線に吹き飛ばす。

白翼も裏切り者も、その道の上にいた者はまとめて弾き飛ばされた。


広場の中央に、巨大な裂け目が生まれる。


その向こうは、一瞬だけ完全に開いた。


道だ。


エルシオンはその場で膝をつく。

もう立つ力はほとんど残っていない。

だが目だけはまだ死んでいなかった。


「……今だ」


ネメシアは息も絶え絶えのまま、彼のもとへ這うように寄る。

彼女自身も、もうまともに歩ける状態ではない。


エルシオンは最後の力で立ち上がり、ネメシアを抱きかかえた。


血が二人分、地面へ落ちる。


「エル、もう……」


「喋るな」


「でも……」


「湖まで行く」


その一言に、ネメシアは目を見開いた。


湖。


最初に二人が本当の意味で出会った場所。

敵ではなく、守る者同士として言葉を交わした場所。


ネメシアは、かすかに笑った。


「……本当に、最後まで」


「意地が悪い」


エルシオンは答えない。

ただネメシアを抱えたまま、裂けた道の向こうへ歩き出す。


「アルヴァディウス様、いかがいたしましょう?」


「あの傷じゃぁ助からない、絶望も与えたしもう良いよ。」


「はっ!」


二人が稼いだ時間は、十分だった。


ルシェラはもう遠い。


セリウスがきっと連れて行った。

ならば、自分たちの役目は終わる。


湖畔に着いた時、夜明けはもう始まっていた。


水面が薄く白み、風が静かに渡っている。

初めて手を取り合った日のように。


エルシオンはネメシアを岸辺の岩へそっと下ろし、その隣へ崩れるように座った。


どちらも、もう限界だった。


しばらくは何も言わず、ただ互いの呼吸だけを聞いていた。

血の匂いも、痛みもある。

それでも、この湖畔だけは不思議なほど穏やかだった。


やがてネメシアが、小さく笑う。


「……ひどい顔」


エルシオンもかすかに口元を緩めた。


「お前もだ」


「女に言うことじゃないわね」


「最期まで文句を言うのか」


「ええ。たぶん」


そのやりとりが、少しだけ二人を昔へ戻す。


エルシオンは湖面を見つめたまま言う。


「ルシェラは、行けたな」


「あの子なら、大丈夫」


ネメシアの声は弱い。

けれど迷いはなかった。


「泣くでしょうけど」


「怒るかもしれない」


「恨まれるかもしれない」


「それでも、生きてほしい」


エルシオンがゆっくりと言う。


「お前と出会えてよかった」


ネメシアは目を閉じた。


「……遅いのよ」


「そうかもな」


「もっと早く言いなさいよ」


「言っていただろう。たぶん、お前が聞いていなかっただけだ」


ネメシアは小さく笑い、それから血を吐いた。

エルシオンが手を伸ばす。

その手を、ネメシアはそっと握った。


「ルシェラ」


彼女が呟く。


「優しい子だから……苦しむわね」


「でも、あの子は大丈夫だ」


エルシオンの声はもうほとんど囁きだった。


「お前に似て、強い」


ネメシアは首を振る。


「あなたにも似てる」


「……なら、余計に大丈夫か」


湖の風が吹く。

最初に出会った日のように。


ネメシアは最後に空を見上げた。


「もし」


その声は、もう消えそうだった。


「もし次があるなら」


エルシオンは迷わず答える。


「ああ」


「また、一緒に」


その言葉に、エルシオンは即座に答えた。


「必ず」


それが最後の約束になった。


湖面が光る。

朝が来る。


そして、光と闇の手は、静かにほどけた。

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