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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第4章『ルシェラ過去編』

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『世界の希望』

光が降っていた。


空を切り裂き、無数の白い槍が石畳と壁と血の上へ突き刺さっていく。

そのたびに火花が散り、居館の残骸が砕け、深都エルグラディアの空気そのものが震えた。

地上では悪魔族の裏切り者たちが間断なく押し寄せ、上空では白翼の兵が逃げ道を狭めている。


石門前の広場は、もはや戦場ではなく、崩壊の中心だった。


セリウスは光槍をひとつ弾き飛ばし、その勢いのまま踏み込んできた者の剣を受け流した。

返しの一撃で相手の膝を払う。

倒れたところへもう一人が躍りかかる。

息をつく暇もない。


ネメシアは一歩退き、浅く息を吐く。

肩の傷から落ちる血が、赤い外套をさらに重くしていた。

エルシオンも肩で息をしている。

頬を裂いた傷は乾く暇もなく、剣を握る指先にはもう、わずかな震えすらあった。


それでも二人はまだ立っている。


いや、立っていなければならないのだ。

ルシェラがここにいる限り。


「セリウス!」


ネメシアの声が飛ぶ。


セリウスはひとりの敵兵を弾き飛ばしながら視線だけを向けた。

その一瞬で、彼女の目が何を決めたのか分かってしまった。


腹の底が冷える。


ネメシアは短く言う。


「もう時間がない」


エルシオンも息を整える間もなく続ける。


「次の波で完全に包囲される」


セリウスは剣を構えたまま低く返す。


「なら、なおさら三人で動け」


「無理よ」


ネメシアは即座に言った。


その即答に、一切の迷いがないことがかえって痛かった。


「もう私たちは、ルシェラを連れてここを抜け切れる状態じゃない」


「何を言っている」


「分かっているでしょう」


その声は鋭い。

だが怒りではなく、自分自身を切り捨てるような覚悟の響きだった。


エルシオンがセリウスをまっすぐ見る。


「お前なら行ける」


「俺たち二人よりも、まだ動ける」


「この場を突破する力も、判断もある」


セリウスは歯を食いしばる。


「だからといって――」


「だからだ」


エルシオンが言葉を断ち切った。


その顔に、もう迷いはなかった。


ネメシアがちらりとルシェラを見る。

娘は石壁の陰で、震えながらも必死に泣くのをこらえている。

その姿を見た瞬間、ネメシアの目の奥に一瞬だけ母の痛みが滲んだ。


そしてそのすぐあと、王の決断がそれを覆う。


「ルシェラ」


その声に、ルシェラが顔を上げる。


「こっちへ来なさい」


ルシェラはふらつく足で二人のそばまで来た。

顔は涙で滲みかけている。

でもまだ泣いていない。

泣いたら何かが決まってしまう気がするからだろう。


ネメシアはしゃがんで、娘と目を合わせた。


その目があまりにも真っ直ぐで、ルシェラは息ができなくなる。


「よく聞いて」


「いや」


ルシェラは首を振った。


「いや、おかあさま」


「いや、だめ」


ネメシアの喉が、目に見えない刃で裂かれるように痛む。

だがそれでも、言わなければならない。


「ルシェラ」


今度は少しだけ、声をやわらげる。


「あなたは、生きなさい」


その一言で、ルシェラの目が大きく揺れた。


「いっしょに……」


「聞いて」


ネメシアは娘の頬に手を添えた。


戦場の中にあるとは思えないほど、静かな手つきだった。


「あなたは、生きて、前へ行くの」


「でも……!」


「でもじゃない」


そこで初めて、ネメシアの声が少しだけ震えた。


「あなたは、ここで終わっちゃいけない」


ルシェラは唇を噛み、必死に涙を堪える。

でももう無理だった。

ぽろりと落ちた一粒が、灰と血に汚れた頬を伝う。


エルシオンがその横へ膝をついた。


「ルシェラ」


父の声は、いつもより低く、けれど驚くほどやさしかった。


「前に教えたな」


ルシェラは震えながら頷く。


「……まもるため」


「そうだ」


エルシオンはその小さな手を包み込む。


「お前の力は奪うためじゃない。壊すためでもない」


「守るための力だ」


「だから、生きろ」


その言葉は厳しい。

けれど、ルシェラには分かってしまう。

これは突き放しているんじゃない。

父が自分に残せる最後の“生き方”を押し込んでいるのだと。


「やだ……」


ルシェラはとうとう嗚咽を漏らした。


「やだ、いっしょがいい」


「おとうさまと、おかあさまと……」


その叫びは、十歳の子どものすべてだった。

希望でも使命でもなく、ただ家族でいたいという願いだけがむき出しになっている。


ネメシアは目を閉じた。

もし今、母としていられるなら、きっとこの子を抱きしめて一緒に逃げることを選んだだろう。


だができない。


王であることも、母であることも、どちらも本物だからだ。

そして今、二つを両立させる唯一の方法が、娘だけを先へ行かせることだった。


セリウスはそのやり取りを見ながら、剣を握る手に力を込めていた。


重い。


重すぎる。


自分は今、ただの援軍ではない。

この家族の最後の選択の受け皿にされようとしている。

しかも、断ることはできない。


断れば、この子はここで終わる。


ネメシアが立ち上がり、セリウスを見る。


その目には、もう一切の揺らぎがなかった。


「セリウス」


名を呼ばれた瞬間、セリウスの背筋が伸びる。


「この子を連れて行って」


頼みではない。

託しだった。


セリウスはすぐには答えられなかった。


ネメシアは続ける。


「この子は、ただ生き残ればいいわけじゃない」


「この子は……希望なの」


その言葉が、戦場の音を押しのけるほど強く届く。


エルシオンもまた、低く言葉を重ねる。


「光と闇が争うしかなかったこの世界で、初めて違う可能性として生まれた」


「守るための力を持っている」


「この子が何になるのか、俺たちにはもう見届けられないかもしれない」


そこまで言って、エルシオンの声がわずかに詰まる。


だが彼は最後まで言い切った。


「だから、お前に託す」


セリウスはその言葉の重みを、胸ではなく骨で受けた気がした。


希望。


あまりに大きい言葉だった。

だが目の前の二人は、戦場の中でなお、その言葉を軽々しく使っていない。

本気でそう信じているからこそ、娘を自分から引き剥がしてでも先へ送ろうとしている。


ルシェラが泣きながら首を振る。


「いや、いや、いや……!」


ネメシアは娘を抱きしめた。


今度こそ強く、壊れそうなほど強く。


「ルシェラ、聞いて」


耳元で囁く。


「あなたは、何になってもいい」


「王にならなくていい。誰かの期待に応えなくてもいい」


「でも――」


ネメシアは一度息を詰め、それから続けた。


「どうか、あなたの優しさだけは失わないで」


ルシェラの嗚咽が止まらない。


エルシオンも手を伸ばし、母に抱かれた娘の頭へ触れる。


「怖くてもいい」


「泣いてもいい」


「でも生きろ」


「俺たちが教えたことを、ひとつでも覚えているなら、それでいい」


ルシェラは二人のあいだで震えながら、必死に声を絞り出す。


「わすれない……」


「おかあさまも、おとうさまも……わすれない」


その言葉に、ネメシアの目からついに一筋の涙が落ちた。


だがすぐに拭う。


泣いている時間すら惜しい。


セリウスは一歩前へ出る。


「……必ず連れて行く」


その声は低かった。

けれど確かだった。


「生きて、次へ繋ぐ」


ネメシアが頷く。


エルシオンもまた、セリウスを見つめる。


その短い視線の交差だけで、言葉以上のものが渡された気がした。


信頼ではないかもしれない。

だが覚悟は渡された。


その瞬間、上空から再び光が集まり始める。


次の波が来る。


もう時間はない。


ネメシアはルシェラをセリウスの方へ押し出した。

ルシェラは最後の最後まで母の衣を掴んでいたが、セリウスがその小さな体を抱き上げる。


軽い。

けれどその重みは、都ひとつより重かった。


ルシェラはセリウスの腕の中でもなお手を伸ばす。


「おかあさま!」


「おとうさま!」


その声に、ネメシアとエルシオンは同時に振り返る。


ネメシアは微笑んだ。

血に濡れ、火に照らされながらも、それは確かに母の笑みだった。


エルシオンもまた、傷だらけの顔で静かに頷く。


「行け」


その一言が、別れだった。


セリウスはルシェラを抱きしめる。

暴れる体を押さえつけるためではない。

この子が今ここで砕けてしまわないように、全身で支えるために。


胸の奥で、苦いものがせり上がる。


重い。

あまりにも重い。


だが、それでも受け取るしかない。


この子は希望だと、二人は言った。

ならば、自分はこの希望をただ運ぶだけでは足りない。

守り、繋ぎ、生かし続けなければならない。


調停者としてではない。

今この瞬間だけは、それ以上の何かとして。


セリウスは低く、けれどはっきりと答えた。


「預かる」


その言葉を聞いたネメシアの目が、ほんのわずかに安堵したように見えた。


次の瞬間、無数の光が落ち始める。


エルシオンが前へ出る。

ネメシアもまた剣を構える。


二人の背中が、炎の中で並ぶ。


セリウスはルシェラを抱いたまま踵を返した。


走り出す寸前、胸の中でただひとつだけ、強く思う。


絶対に、失わせない。


たとえここから先、どんな地獄が続こうと。


この希望だけは、折らせてはいけない。


背後で轟音が上がる。


その音を振り返らずに、セリウスは闇の中へ駆けた。

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