『世界の希望』
光が降っていた。
空を切り裂き、無数の白い槍が石畳と壁と血の上へ突き刺さっていく。
そのたびに火花が散り、居館の残骸が砕け、深都エルグラディアの空気そのものが震えた。
地上では悪魔族の裏切り者たちが間断なく押し寄せ、上空では白翼の兵が逃げ道を狭めている。
石門前の広場は、もはや戦場ではなく、崩壊の中心だった。
セリウスは光槍をひとつ弾き飛ばし、その勢いのまま踏み込んできた者の剣を受け流した。
返しの一撃で相手の膝を払う。
倒れたところへもう一人が躍りかかる。
息をつく暇もない。
ネメシアは一歩退き、浅く息を吐く。
肩の傷から落ちる血が、赤い外套をさらに重くしていた。
エルシオンも肩で息をしている。
頬を裂いた傷は乾く暇もなく、剣を握る指先にはもう、わずかな震えすらあった。
それでも二人はまだ立っている。
いや、立っていなければならないのだ。
ルシェラがここにいる限り。
「セリウス!」
ネメシアの声が飛ぶ。
セリウスはひとりの敵兵を弾き飛ばしながら視線だけを向けた。
その一瞬で、彼女の目が何を決めたのか分かってしまった。
腹の底が冷える。
ネメシアは短く言う。
「もう時間がない」
エルシオンも息を整える間もなく続ける。
「次の波で完全に包囲される」
セリウスは剣を構えたまま低く返す。
「なら、なおさら三人で動け」
「無理よ」
ネメシアは即座に言った。
その即答に、一切の迷いがないことがかえって痛かった。
「もう私たちは、ルシェラを連れてここを抜け切れる状態じゃない」
「何を言っている」
「分かっているでしょう」
その声は鋭い。
だが怒りではなく、自分自身を切り捨てるような覚悟の響きだった。
エルシオンがセリウスをまっすぐ見る。
「お前なら行ける」
「俺たち二人よりも、まだ動ける」
「この場を突破する力も、判断もある」
セリウスは歯を食いしばる。
「だからといって――」
「だからだ」
エルシオンが言葉を断ち切った。
その顔に、もう迷いはなかった。
ネメシアがちらりとルシェラを見る。
娘は石壁の陰で、震えながらも必死に泣くのをこらえている。
その姿を見た瞬間、ネメシアの目の奥に一瞬だけ母の痛みが滲んだ。
そしてそのすぐあと、王の決断がそれを覆う。
「ルシェラ」
その声に、ルシェラが顔を上げる。
「こっちへ来なさい」
ルシェラはふらつく足で二人のそばまで来た。
顔は涙で滲みかけている。
でもまだ泣いていない。
泣いたら何かが決まってしまう気がするからだろう。
ネメシアはしゃがんで、娘と目を合わせた。
その目があまりにも真っ直ぐで、ルシェラは息ができなくなる。
「よく聞いて」
「いや」
ルシェラは首を振った。
「いや、おかあさま」
「いや、だめ」
ネメシアの喉が、目に見えない刃で裂かれるように痛む。
だがそれでも、言わなければならない。
「ルシェラ」
今度は少しだけ、声をやわらげる。
「あなたは、生きなさい」
その一言で、ルシェラの目が大きく揺れた。
「いっしょに……」
「聞いて」
ネメシアは娘の頬に手を添えた。
戦場の中にあるとは思えないほど、静かな手つきだった。
「あなたは、生きて、前へ行くの」
「でも……!」
「でもじゃない」
そこで初めて、ネメシアの声が少しだけ震えた。
「あなたは、ここで終わっちゃいけない」
ルシェラは唇を噛み、必死に涙を堪える。
でももう無理だった。
ぽろりと落ちた一粒が、灰と血に汚れた頬を伝う。
エルシオンがその横へ膝をついた。
「ルシェラ」
父の声は、いつもより低く、けれど驚くほどやさしかった。
「前に教えたな」
ルシェラは震えながら頷く。
「……まもるため」
「そうだ」
エルシオンはその小さな手を包み込む。
「お前の力は奪うためじゃない。壊すためでもない」
「守るための力だ」
「だから、生きろ」
その言葉は厳しい。
けれど、ルシェラには分かってしまう。
これは突き放しているんじゃない。
父が自分に残せる最後の“生き方”を押し込んでいるのだと。
「やだ……」
ルシェラはとうとう嗚咽を漏らした。
「やだ、いっしょがいい」
「おとうさまと、おかあさまと……」
その叫びは、十歳の子どものすべてだった。
希望でも使命でもなく、ただ家族でいたいという願いだけがむき出しになっている。
ネメシアは目を閉じた。
もし今、母としていられるなら、きっとこの子を抱きしめて一緒に逃げることを選んだだろう。
だができない。
王であることも、母であることも、どちらも本物だからだ。
そして今、二つを両立させる唯一の方法が、娘だけを先へ行かせることだった。
セリウスはそのやり取りを見ながら、剣を握る手に力を込めていた。
重い。
重すぎる。
自分は今、ただの援軍ではない。
この家族の最後の選択の受け皿にされようとしている。
しかも、断ることはできない。
断れば、この子はここで終わる。
ネメシアが立ち上がり、セリウスを見る。
その目には、もう一切の揺らぎがなかった。
「セリウス」
名を呼ばれた瞬間、セリウスの背筋が伸びる。
「この子を連れて行って」
頼みではない。
託しだった。
セリウスはすぐには答えられなかった。
ネメシアは続ける。
「この子は、ただ生き残ればいいわけじゃない」
「この子は……希望なの」
その言葉が、戦場の音を押しのけるほど強く届く。
エルシオンもまた、低く言葉を重ねる。
「光と闇が争うしかなかったこの世界で、初めて違う可能性として生まれた」
「守るための力を持っている」
「この子が何になるのか、俺たちにはもう見届けられないかもしれない」
そこまで言って、エルシオンの声がわずかに詰まる。
だが彼は最後まで言い切った。
「だから、お前に託す」
セリウスはその言葉の重みを、胸ではなく骨で受けた気がした。
希望。
あまりに大きい言葉だった。
だが目の前の二人は、戦場の中でなお、その言葉を軽々しく使っていない。
本気でそう信じているからこそ、娘を自分から引き剥がしてでも先へ送ろうとしている。
ルシェラが泣きながら首を振る。
「いや、いや、いや……!」
ネメシアは娘を抱きしめた。
今度こそ強く、壊れそうなほど強く。
「ルシェラ、聞いて」
耳元で囁く。
「あなたは、何になってもいい」
「王にならなくていい。誰かの期待に応えなくてもいい」
「でも――」
ネメシアは一度息を詰め、それから続けた。
「どうか、あなたの優しさだけは失わないで」
ルシェラの嗚咽が止まらない。
エルシオンも手を伸ばし、母に抱かれた娘の頭へ触れる。
「怖くてもいい」
「泣いてもいい」
「でも生きろ」
「俺たちが教えたことを、ひとつでも覚えているなら、それでいい」
ルシェラは二人のあいだで震えながら、必死に声を絞り出す。
「わすれない……」
「おかあさまも、おとうさまも……わすれない」
その言葉に、ネメシアの目からついに一筋の涙が落ちた。
だがすぐに拭う。
泣いている時間すら惜しい。
セリウスは一歩前へ出る。
「……必ず連れて行く」
その声は低かった。
けれど確かだった。
「生きて、次へ繋ぐ」
ネメシアが頷く。
エルシオンもまた、セリウスを見つめる。
その短い視線の交差だけで、言葉以上のものが渡された気がした。
信頼ではないかもしれない。
だが覚悟は渡された。
その瞬間、上空から再び光が集まり始める。
次の波が来る。
もう時間はない。
ネメシアはルシェラをセリウスの方へ押し出した。
ルシェラは最後の最後まで母の衣を掴んでいたが、セリウスがその小さな体を抱き上げる。
軽い。
けれどその重みは、都ひとつより重かった。
ルシェラはセリウスの腕の中でもなお手を伸ばす。
「おかあさま!」
「おとうさま!」
その声に、ネメシアとエルシオンは同時に振り返る。
ネメシアは微笑んだ。
血に濡れ、火に照らされながらも、それは確かに母の笑みだった。
エルシオンもまた、傷だらけの顔で静かに頷く。
「行け」
その一言が、別れだった。
セリウスはルシェラを抱きしめる。
暴れる体を押さえつけるためではない。
この子が今ここで砕けてしまわないように、全身で支えるために。
胸の奥で、苦いものがせり上がる。
重い。
あまりにも重い。
だが、それでも受け取るしかない。
この子は希望だと、二人は言った。
ならば、自分はこの希望をただ運ぶだけでは足りない。
守り、繋ぎ、生かし続けなければならない。
調停者としてではない。
今この瞬間だけは、それ以上の何かとして。
セリウスは低く、けれどはっきりと答えた。
「預かる」
その言葉を聞いたネメシアの目が、ほんのわずかに安堵したように見えた。
次の瞬間、無数の光が落ち始める。
エルシオンが前へ出る。
ネメシアもまた剣を構える。
二人の背中が、炎の中で並ぶ。
セリウスはルシェラを抱いたまま踵を返した。
走り出す寸前、胸の中でただひとつだけ、強く思う。
絶対に、失わせない。
たとえここから先、どんな地獄が続こうと。
この希望だけは、折らせてはいけない。
背後で轟音が上がる。
その音を振り返らずに、セリウスは闇の中へ駆けた。




