『激しい戦場』
深都エルグラディアが見えた時、セリウスはすでに間に合わない可能性を感じていた。
谷の奥、黒曜石と赤銅の都は、いつもの静かな灯ではなく、いくつもの火の筋に裂かれていた。
夜明けの薄明かりと炎の赤が混じり合い、街の輪郭そのものが揺らいで見える。
鐘の音はもう秩序を告げるものではなく、壊れた呼吸のように乱れていた。
遅い。
その二文字が、馬を走らせるより先に胸の奥へ突き刺さる。
セリウスは手綱を強く引き、谷道を一気に駆け下りた。
山肌を打つ風が外套を鳴らす。
耳に入るのは、遠くの怒号と、金属が砕ける乾いた音。
そのどれもが、ただの戦況悪化ではないことを告げていた。
これは侵攻だ。
しかも都を落とすためだけのものじゃない。
誰かを狙っている。
城門近くへ着いた時には、もう隠す意味もなかった。
天使族の白翼が低空を掠め、地上では悪魔族同士が刃を向け合っている。
一瞬、セリウスは目を細める。
外と内。
両方から崩している。
そこまで見えた瞬間、この戦が偶然の連鎖ではないと確信した。
誰かが、最初から深都の中心を割るつもりで火を入れている。
セリウスは馬を飛び降り、正門脇で負傷兵を庇っていた近衛兵へ駆け寄った。
「生きているな」
その兵は肩口から血を流しながらも剣を構え、セリウスを見て一瞬だけ警戒を浮かべる。
だが、すぐにその顔が変わる。
「……調停者」
「説明は後だ。ネメシアとエルシオン、それにルシェラはどこだ」
兵は息を荒げながら答える。
「中央居館から地下水路へ向かったはずです……ですが、途中で敵が回り込んで……」
「どこで止められている」
「裏庭から西回廊へ抜ける石門の先……! 近衛の半数がそちらへ向かいましたが、天使族と裏切り派が合流して……!」
それで十分だった。
セリウスは兵の肩を一度だけ押さえる。
「生き延びろ」
そして次の瞬間には、もう走り出していた。
石畳の上を、火の粉を踏み越えながら進む。
途中、白翼の兵が二人、回廊の上から降りてくる。
片方は光槍を構え、片方は短剣で足を狙うつもりだと一目で分かった。
セリウスは減速しない。
最初の一歩で槍の軌道を外し、二歩目で剣の腹を使って手首を打つ。
槍が落ちる。
振り下ろした返しで二人目の短剣を弾き、そのまま膝を払う。
悲鳴すら上がる前に、二人とも床へ沈んだ。
走りながら、セリウスは自分の呼吸が荒くなるのを感じていた。
もしこの戦場の中心に、あの家族がいるのなら。
ネメシア。
王として前に立つ女。
エルシオン。
どちらの秩序からもはみ出しながら、なお守ることを選んだ男。
そしてルシェラ。
光と闇のあいだに生まれた、小さな希望。
――間に合え。
それは祈りに近かった。
調停者である自分が、誰よりも祈るべきでないと分かっていながら、それでも心の奥ではそう願っていた。
西回廊へ差しかかると、空気が変わった。
血の匂いが濃い。
火薬と焦げた布と、焼けた羽の匂いまで混じっている。
そして、ここだけ明らかに戦いが一点へ集中していた。
曲がり角の向こうから、怒声が響く。
「押せ!」
「子を逃がすな!」
「王を通すな!」
セリウスの背筋に冷たいものが走った。
その叫びだけで、この戦の本質がすべて剥き出しになる。
都のためではない。
勝利のためでもない。
狙っているのは、あの家族そのものだ。
角を曲がった瞬間、視界が開ける。
石門前の広場。
崩れた壁。
倒れた兵。
その中心に、ネメシアとエルシオンがいた。
ネメシアはルシェラを背後の石壁際へ下がらせ、自ら前へ出ていた。
肩と脇腹に血が滲み、呼吸は明らかに浅い。
それでも剣を下ろさない。
エルシオンもまた、肩口と頬を裂かれ、袖口には乾ききらない血がこびりついていた。
二人とも、すでに限界に近い。
それでも立っている。
セリウスはその姿を見た瞬間、胸の奥が痛むのを感じた。
遅かった。
まだ生きている。
だが間に合ったとは言えない。
助けに来たというには、あまりにも遅すぎた。
その視界の隅に、さらにひとつの姿が映る。
倒れている近衛兵。
大柄な体。
血の広がり方。
ヴォルガだとすぐ分かった。
ネメシアの将。
すでに動かない。
その一瞬の認識だけで、この場に何が起きたのか、すべてを聞かずとも理解できた。
セリウスは剣を抜く。
金属音が戦場へ鋭く走った。
最初にこちらへ気づいたのは、白翼の兵だった。
「調停者だ!」
叫び声と同時に三人が向き直る。
遅い。
セリウスは一気に間合いを詰めた。
一人目の光槍を外へ逸らし、そのまま柄頭で顎を打つ。
二人目の刃は半歩引いて躱し、返しの一閃で肩口を裂く。
三人目が後ろへ跳ぼうとしたところへ踏み込み、腹へ蹴りを入れて壁へ叩きつける。
一連の動きは、もはや考えていなかった。
最短で、最少で、ネメシアたちへ届くための動きだけが体を走らせていた。
「セリウス!」
ネメシアが初めてその名を叫ぶ。
その声に、セリウスはようやく彼女の目を見る。
強い女だと思っていた。
実際そうだ。
だが今、その目の奥には、王の顔の下に押し込められた疲労と焦りが見えた。
エルシオンが荒い息のまま言う。
「遅い」
それは皮肉にも聞こえた。
だが声の底にあるのは、安堵に近いものだった。
セリウスは短く返す。
「自覚している」
そのやりとりの間にも、敵は止まらない。
悪魔族裏切り派が石門脇から回り込み、上空では白翼が再び降下の体勢を取る。
セリウスは一歩、ネメシアたちの前へ出た。
「ルシェラは」
ネメシアが顎で示す。
石壁の陰。
そこに、十歳の少女が息を殺していた。
ルシェラ。
目が合う。
その瞳を見た瞬間、セリウスは胸の奥を殴られたような気がした。
前に会った時よりも、ずっと大きくなっている。
子どもらしい丸みをまだ残しながら、それでももう、何も分からない年齢ではない目だった。
恐怖を知っている。
失われるかもしれないものの輪郭を知り始めている。
それでも泣かずに、ただ両親を見ている。
あまりにも、早く戦場を知りすぎた目だった。
セリウスは視線を戻す。
「地下水路まで通せるか」
エルシオンが低く答える。
「通すしかない」
「現状は」
「最悪だ」
「見れば分かる」
そう返しながらも、セリウスはすでに敵の数と位置を頭の中で組み直していた。
正面に六。
上に三。
死角にまだ潜んでいる気配が二つ。
そして遠くからさらに足音。
多すぎる。
三人だけなら突破できたかもしれない。
ルシェラを庇いながら動く二人に、後から加わった自分。
選べる手は少ない。
「私が前を割る」
セリウスが言う。
「お前たちはルシェラを連れて下がれ」
「断る」
ネメシアが即答する。
「あなた一人で抜けられる数じゃない」
「分かっている」
「なら――」
「それでも、今この場でいちばん戦えるのは私だ」
その言葉に、ネメシアもエルシオンも黙る。
事実だった。
二人はすでに傷だらけだ。
動けているのが奇跡に近い。
セリウスが来たことで、ようやく“形”だけは立て直せる。
だが戦局そのものをひっくり返すほどの余力はない。
それが、あまりにも重かった。
セリウスはそこでようやく痛感する。
自分は遅れたのだ。
来た。
戦っている。
加勢もできる。
だが、覆せない。
遅れてきた者にできるのは、勝つことではない。
崩れきる前に、何かをひとつでも先へ繋ぐことだけだ。
その時、上空から光が集まり始める。
白翼の兵たちが一斉に投槍の構えを取った。
地上でも裏切り者たちが半円状に広がっていく。
逃げ道を消す陣形だ。
ネメシアが低く吐き捨てた。
「本当に、都ごと焼く気ね」
エルシオンの声は冷たかった。
「最初からそのつもりだ」
セリウスは剣を構え直す。
光が落ちる前の、ほんのわずかな静止。
その一瞬に、彼は自分の中で何かを決めた。
この戦場はもう救えない。
だが、あの子だけは違う。
ルシェラだけは、ここで失ってはいけない。
次の瞬間、夜明け前の空気を裂いて、無数の光が降り始める。




