『守る者たち』
地下水路へ続く石扉の前で、ついに足が止まった。
左右から迫る裏切り者たち。
上空を旋回する白翼の兵。
崩れた壁の向こうからは、さらに新手の気配が流れ込んでくる。
ネメシアはルシェラを抱いたまま、荒い息を整えた。
エルシオンが剣を構えたまま低く言う。
「数が多すぎる」
「ええ」
ネメシアの声は短い。
彼女も分かっていた。
庇いながらでは、躱せる攻撃に限界がある。
今までは突破のために動けた。
だがここで包囲されれば、それも終わる。
ルシェラは母へしがみついたまま、かすれた声を出す。
「おかあさま……」
ネメシアは一瞬だけ目を閉じた。
次の瞬間、決める。
「ルシェラ、聞いて」
その声に、ルシェラの体が強張る。
「ここにいて」
ネメシアは石扉脇のくぼみに娘をそっと降ろした。
崩れた石壁が半分だけ盾になっている場所。
完全ではない。
「いや……!」
ルシェラが思わず母の手を掴む。
ネメシアはその小さな手を強く握り返した。
「大丈夫。すぐ戻る」
嘘だと分かっていた。
すぐ戻れる保証なんて、どこにもない。
けれど母は、こういう時にしかつけない嘘をつく。
エルシオンも屈み、ルシェラの肩へ手を置いた。
「前だけ見ていろ」
その言葉に、ルシェラは泣きそうになりながら頷いた。
次の瞬間、二人は同時に前へ出た。
エルシオンが上から降る光槍を弾き、ネメシアが地を這う刃を払う。
白と紅の軌跡が炎の中で交差し、敵の動きを一瞬ごとに断ち切っていく。
だが数が減らない。
倒しても倒しても、背後から別の影が現れる。
天使族と悪魔族裏切り派が、互いを敵とも思わぬまま押し寄せてくる異様な戦場だった。
ネメシアは剣を返しながら、ちらりとルシェラを見る。
まだそこにいる。
怯えながらも、目を逸らさずに。
その一瞬が、隙になった。
横合いから伸びた黒い刃が、一直線にネメシアの脇腹を狙う。
深い。
まともに入れば致命になる。
エルシオンが叫ぶ。
「ネメシア!」
だが間に合わない。
その瞬間、別の影が割って入った。
鈍い音。
刃はネメシアではなく、その胸を深く貫いた。
「――ヴォルガ!」
ネメシアの声が裂けた。
民の避難を優先していたはずのヴォルガが、血を吐きながらそこに立っていた。
彼はネメシアを庇うように前へ出たまま、なお剣を離さなかった。
「間に……合った、か」
その声はもう掠れていた。
敵兵が刃を引き抜くと、ヴォルガの体が大きく揺れる。
それでも彼は最後の力で斧を振り抜き、相手を叩き潰した。
膝が折れる。
ネメシアがすぐに抱きとめた。
「ヴォルガ!」
「……そんな顔を、するな」
血に濡れた口元が、かすかに歪む。
それは笑おうとした顔だった。
周囲ではまだ戦いが続いている。
エルシオンが前へ出て二人の前を塞ぎ、迫る敵を押し返す。
だがその背中すら、今は遠く感じるほど、ネメシアの耳にはヴォルガの浅い呼吸しか届いていなかった。
「しゃべるな、今すぐ治療を――」
「無理だ」
ヴォルガははっきり言った。
自分の傷を、自分がいちばんよく分かっている声だった。
ネメシアの目が揺れる。
王ではなく、部下を失いたくないひとりの女の目だった。
ヴォルガはその目を見て、静かに言う。
「ネメシア様……あんたは、前を向け」
「民を……ルシェラ様を……守れ」
ルシェラの名が出た瞬間、ネメシアの喉が詰まる。
ヴォルガは血を吐きながら、それでも続けた。
「俺たちは……あんたが、守るものを守るために……ついてきた」
「だから……最後まで、そうしろ」
その言葉は遺言だった。
命令ではなく、願いだった。
ネメシアは唇を噛む。
涙が出そうになる。
けれど今ここで泣けば、この男の最期を弱くしてしまう気がした。
ヴォルガの視線が、ネメシアの肩越しにルシェラへ向く。
石壁の陰で震えながら、それでもこちらを見ている小さな姿。
「……よかった」
ヴォルガは小さく息を吐いた。
「未来が……まだ、そこにいる」
その一言とともに、彼の肩から力が抜ける。
ネメシアははっとして名を呼ぶ。
「ヴォルガ!」
返事はない。
血に濡れた顔は、苦痛の中にありながら不思議と穏やかだった。
守るべきものを守れた者の顔だった。
ネメシアは一瞬だけ目を閉じた。
その短い沈黙のあいだに、何かが確かに折れ、同時に何かがさらに強く結び直された。
ヴォルガの死を無駄にはできない。
エルシオンが背後から叫ぶ。
「ネメシア!」
ネメシアはゆっくり立ち上がる。
ヴォルガの血が手に残る。
温かいままのその重みを、彼女は振り払わなかった。
「……ええ」
低く答える。
その目には、さっきまでとは別の炎が宿っていた。
ルシェラは石壁の陰で、息もできずにその一部始終を見ていた。
ヴォルガが母を庇ったこと。
自分の名を呼んだこと。
そして、静かに動かなくなったこと。
これが死なのだと、まだ完全には理解できない。
けれど、もう戻らないのだということだけは分かった。
火の粉が舞う。
血の匂いが濃くなる。
そしてその中で、ヴォルガの最期の言葉だけが、ネメシアにもルシェラにも深く残った。
未来が、まだそこにいる。
その未来を守るために、戦いはまだ終われなかった。




