『炎の侵入』
ルシェラはネメシアの後ろで、今起きている現実を理解しきれないまま息を呑んでいた。
昨日まで、自分が眠っていた部屋。
父と母が話していた廊下。
笑い声のあった庭。
その全部が、たった今、壊されていく音を立てている。
「しっかりつかまって」
ネメシアの声が耳元で響く。
ルシェラは母の手にしがみついた。
前を走るエルシオンが振り返らずに言う。
「裏庭を抜ける。地下水路へ入れれば、ひとまず視線は切れる」
その直後、右手の壁が轟音とともに砕けた。
白い光が突き抜ける。
天使族の投槍だ。
エルシオンが反射的に身を翻し、剣の柄で軌道を逸らす。
光槍は壁際へ叩きつけられ、爆ぜた石片が彼の肩と頬を浅く裂いた。
「おとうさま!」
「前を見るんだ」
短い声だった。
だがルシェラには、その背中が少しだけ揺れたのが見えた。
回廊の先に黒い影が二つ降り立つ。
悪魔族の兵だった。
だがその目に忠誠はない。
「族長を止めろ!」
「子を逃がすな!」
その叫びに、ルシェラの背筋が冷たくなる。
ネメシアは足を止めなかった。
男が斬りかかってきた瞬間、半身で躱し、手首を切り払う。
もう一人にはエルシオンが踏み込み、喉を外して肩を打ち、そのまま壁へ叩きつけた。
二人の刃は、進路をこじ開けるように動いていた。
その時、上空から羽音が落ちてきた。
白翼。
割れた天窓から三人の天使兵が降下し、光槍を一斉に向ける。
「伏せろ!」
エルシオンの声と同時に、ネメシアがルシェラを抱えたまま身を沈めた。
床が白く爆ぜる。
耳鳴りが広がり、砕けた石片が頬を掠めた。
ルシェラは母の腕の中で目を閉じた。
怖い。
でも、耳を塞ぐことはできなかった。
ネメシアの呼吸。
父の足音。
金属がぶつかる高い音。
全部が近すぎた。
「……おかあさま」
「大丈夫」
その声は低く、強かった。
「今は、私たちを信じて」
裏庭へ出ると、そこにも火が回っていた。
白い花を植えた一角が焼け、池の水面には火の粉が浮いている。
昨日までルシェラが練習していた場所だった。
胸が痛む。
ここで呼吸を教わった。
ここで花を守るように光を使った。
その場所が、いま燃えている。
「……いや」
思わず漏れた声に、ネメシアは一瞬だけルシェラを見た。
けれど止まれない。
立ち止まれば終わる。
その前方、石門が内側から吹き飛んだ。
黒い外套をまとった一団が現れる。
悪魔族。
だが近衛ではない。
袖に隠した旧貴族派の紋が、火に照らされて見えた。
「お逃げになるのですか、族長」
ネメシアの目が凍る。
「アルヴァディウス……!」
男の視線がルシェラへ向く。
子どもを見る目ではなかった。
値踏みするような、ぞっとするほど冷たい目だった。
その瞬間、ルシェラははっきり分かった。
自分は守られるだけの子どもではない。
狙われているのだ。
上空から再び白翼が降りる。
完全に挟まれた。
エルシオンが前へ出る。
光槍を払い、地上の剣を受け、二つの攻撃線をずらす。
ネメシアはその隙を縫って走るが、一人がすぐ進路を塞いだ。
振り下ろされる刃。
ルシェラは反射的に手を伸ばした。
怖い。
でも――守らなきゃ。
手のひらに熱が宿る。
ごく小さく、淡い光が滲む。
刃がそこに触れた瞬間、ほんの一瞬だけ軌道が鈍った。
ネメシアがその隙を逃さず、男の肩口を斬り払う。
「ルシェラ!」
驚きと痛みが混じった声だった。
ルシェラ自身も、自分が何をしたのかよく分からない。
ただ守りたいと思った。
それだけで、力が応えた。
だが次の瞬間、ひどい疲労が押し寄せる。
視界が揺らぎ、指先から力が抜けた。
ネメシアはすぐにそれを察し、ルシェラをさらに強く抱き寄せる。
「力を使わなくていい!」
その声には、母の切実さが滲んでいた。
エルシオンが振り返らずに叫ぶ。
「行け!」
ネメシアは走る。
ルシェラは母の肩越しに、父の背中を見た。
白い髪。
振るわれる剣。
迫る光と刃の中で、ただ前に立っている背中。
父は言った。
力は守るために使うのだと。
母は言った。
守りたいものがはっきりしていれば、立てるのだと。
今、二人は言葉ではなく、その生き方そのものを見せていた。
地下水路へ続く石扉が見える。
だが背後では、なおも敵の足音が迫っていた。




