『開戦』
夜明けは、静かに来るものだとずっと思っていた。
少なくともルシェラは、そう信じていた。
昨日までは。
だが、夜明けより先に響いたのは、警鐘だった。
乾いた鐘の音が、谷全体へ叩きつけられるように鳴り渡る。
一度。二度。三度。
それは日常を告げる鐘ではない。
誰もが本能で分かる、異常の鐘だった。
ルシェラは寝台の上で飛び起きた。
胸が強く鳴っている。
夢から覚めたというより、夢の続きへ突き落とされたような感覚だった。
昨夜の不穏な静けさ。
見えない何かに見られているような気配。
その全部が、今この鐘の音で現実になったのだと、十歳の彼女にすら分かった。
扉が開く。
ネメシアだった。
もう母の顔ではない。
王の顔だ。
紅い髪を高く結い、戦装束の上へ外套を羽織っている。
その目は鋭く、けれどルシェラを見た瞬間だけ、ほんのひと呼吸ぶんやわらいだ。
「ルシェラ」
「おかあさま、何が――」
「聞いて」
ネメシアは短く遮る。
「今から何があっても、私かお父様のそばを離れないこと」
その声に一切の揺らぎはなかった。
ルシェラの喉がひゅっと鳴る。
こんなふうに言われたことは、今まで一度もなかった。
「敵が来るの?」
ネメシアは一瞬だけ沈黙し、それから答えた。
「ええ」
その二文字だけで十分だった。
ルシェラの指先が冷たくなる。
だが泣きはしなかった。
泣けば母の目が曇る気がしたし、何より今の母は、泣いて縋る相手ではなく、前へ出る者の顔をしていた。
その時、廊下の向こうから速い足音が近づいてきた。
エルシオンだった。
白い髪を風に乱し、すでに剣帯を締めている。
その顔にも、もはや迷いはなかった。
「北門だけじゃない」
入ってくるなり、彼は短く言った。
「東の補給路もやられた。正面侵攻に見せかけて、内部の扉まで同時に動いてる」
ネメシアの目が鋭く細くなる。
「やっぱり内側も、ね」
「アルヴァディウス派が開けた可能性が高い」
その言葉が部屋の空気をさらに重くした。
外から天使族。
内から旧貴族派。
ただの開戦ではない。
崩しに来ている。
この都と、均衡そのものを。
ルシェラは二人の会話を聞きながら、ようやく昨夜までの違和感の正体を理解し始めていた。
外の小競り合い。
都の中のざわめき。
母と父の短い沈黙。
全部が、ここへ繋がっていたのだ。
「ルシェラ」
エルシオンが彼女の前に膝をつく。
「怖いか」
ルシェラは少しだけ唇を噛み、そして正直に頷いた。
「……こわい」
「そうだろうな」
エルシオンは否定しない。
「でも、覚えているな」
彼の目はまっすぐだった。
「力は何のために使う」
ルシェラは一瞬だけ息を止める。
あの日の夕暮れ。
庭で教わったこと。
花を守るように光を使ったこと。
そして、小さく答えた。
「まもるため」
エルシオンは静かに頷いた。
「そうだ。奪うためじゃない」
ネメシアもそばへ来て、ルシェラの肩に手を置いた。
「今日は、まず自分を守るの」
「分かった?」
ルシェラは頷く。
けれど心の奥では、何かがざわついていた。
ただ隠れているだけでいいのだろうか。
でも、母の手の温度がその迷いを抑える。
「約束して」
ネメシアが言う。
「勝手にひとりで動かない」
「……約束する」
その返事を聞いて、ネメシアはほんの一瞬だけ母の顔に戻った。
次の瞬間、また王の顔へ戻る。
「ヴォルガたちは北門へ。エルシオン、あなたは中層の民を下げて。私は東へ行く」
「いや」
エルシオンは即座に否定した。
「分散は危険だ。相手はそれを狙ってる」
「でも両方動かなければ都が割れる」
「割らせないために、まず中心を守る」
二人の声がぶつかる。
そこには夫婦としての感情ではなく、同じだけこの都とルシェラを守ろうとする者同士の切迫があった。
だがそこで、外からさらに重い爆音が響いた。
壁が震える。
窓の外で、赤い火が上がるのが見えた。
東側の倉庫群だ。
ネメシアが息を呑む。
「早い……!」
報告より先に火が上がった。
つまり敵は、こちらの初動すら計算に入れている。
エルシオンはすぐ決断した。
「ルシェラを連れて地下へ」
ネメシアは彼を見る。
その判断の意味は分かっていた。
都の王と、かつての後継。
二人とも前線級の戦力だ。
だが今この瞬間、優先すべきは都全体ではなく、狙われている核心を動かすことだと、エルシオンは言っている。
そしてその核心が何かを、ネメシアももう否定できなかった。
ルシェラだ。
天使族の侵攻も、悪魔族内部の反乱も、すべてがただの偶然で同時に起きたとは思えない。
この崩壊の中心に、自分たち家族がいる。
ネメシアは短く頷いた。
「……分かった。中央回廊から下へ行く」
だがその時、扉の外から別の声が響いた。
「ネメシア様!」
ヴォルガだった。
血相を変えて駆け込んでくる。
「東だけじゃない! 西の内門も開けられました! 旧貴族派の兵が民の避難路を遮ってる!」
ネメシアの目が鋭く染まる。
「アルヴァディウス……!」
それはもはや確信だった。
正面から天使族を入れ、内側では避難路を切る。
ただ落とすための侵攻ではない。
逃げ場ごと潰し、混乱の中で狙ったものを奪うための戦いだ。
ルシェラはそこで初めて、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
自分たちは本当に狙われているのだと。
その瞬間、居館の外から叫び声が聞こえた。
「火だ!」
「近衛を集めろ!」
「王を守れ!」
次の瞬間、窓の外を白い光が走る。
天使族の投槍だ。
石壁の一角が砕け、破片が室内へ飛び込む。
エルシオンが反射的にルシェラの前へ出る。
ネメシアも同時に彼女を抱き寄せた。
衝撃のあと、部屋に粉塵が満ちる。
ルシェラは咳き込みながら、父と母の腕の中にいることだけでかろうじて呼吸を保った。
「……早すぎる」
エルシオンが低く言う。
その声の意味は重かった。
まだ都全体の防衛線も整いきっていない。
なのに、ここを直接叩きに来た。
狙いが明確すぎる。
ネメシアはルシェラを抱いたまま立ち上がる。
「ヴォルガ、中央の兵を動かして。民の避難を最優先」
「ですが、ネメシア様――」
「これは命令よ!」
その一喝に、ヴォルガはすぐに頭を下げた。
ネメシアはそのままエルシオンを見る。
「裏庭から行く。地下水路へ繋がる道がまだ生きているはず」
「俺が先に出る」
「ルシェラは私が守る」
二人は目を合わせた一瞬で、それぞれの役割を決めた。
エルシオンが前。
ネメシアがルシェラを庇いながら動く。
裏庭へ出ると、すでに居館の周囲は戦場に変わりつつあった。
兵が走る。
火の粉が舞う。
遠くでは白翼が降下し、別の場所では悪魔族同士が刃を向け合っている。
ありえない光景だった。
ルシェラは母のそばから、その全てを見てしまった。
「おかあさま……」
声が震える。
ネメシアは走りながら言う。
「大丈夫。前だけ見て」
だが大丈夫ではないことくらい、ルシェラにも分かった。
大丈夫ではないのに、母はそう言うしかないのだ。
前を走るエルシオンが一人、飛び込んできた敵兵を柄で打ち落とす。
斬り伏せるのではなく、道を開くために。
ネメシアも横から伸びた槍を払い、相手を壁へ叩きつけて進路を守る。
相手を殺すより、ルシェラを通すこと。
すでに二人の戦いはそういう形になっていた。
だがその時、屋根の上から声が響いた。
「見つけたぞ!」
白い光が走る。
次いで黒い影も飛ぶ。
天使族と、悪魔族内部の裏切り者たちが、同じ方向を向いていた。
ネメシアの胸が冷たく沈む。
やはり、そうか。
この戦争は、ただの開戦ではない。
家族を潰すための戦いだ。
エルシオンもまた、振り向きざまにその全貌を理解していた。
「ネメシア!」
「分かってる!」
その叫びと同時に、二人はほとんど同時に動いた。
エルシオンが白い光を弾き、ネメシアが黒い刃を逸らす。
火花が散る。
ルシェラは母のそばで目を見開いたまま、何もできずにその光景を見るしかなかった。
昨日までは家だった場所が、もう戦場になっている。
今まで教わっていた“守るための力”が、今は両親の背中の中で現実になっている。
この瞬間、家族の穏やかな時間は終わった。
残されたのは、守りながら戦うしかない現実だけだった。
ネメシアはルシェラを庇いながら、低く囁く。
「目を逸らさないで」
ルシェラは震えながらも頷く。
「……うん」
「でも、心まで奪われないで」
その言葉の意味を、ルシェラはまだ全部は分からなかった。
けれど、その声だけは胸に刺さる。
エルシオンが振り返らずに言う。
「行くぞ!」
三人は火と血と裏切りの中へ走る。
夜明けは、もう静かには来なかった。
この朝を境に、世界は完全に壊れる側へ動き出したのだ。




