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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第4章『ルシェラ過去編』

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『開戦』

夜明けは、静かに来るものだとずっと思っていた。


少なくともルシェラは、そう信じていた。


昨日までは。


だが、夜明けより先に響いたのは、警鐘だった。


乾いた鐘の音が、谷全体へ叩きつけられるように鳴り渡る。

一度。二度。三度。

それは日常を告げる鐘ではない。

誰もが本能で分かる、異常の鐘だった。


ルシェラは寝台の上で飛び起きた。


胸が強く鳴っている。

夢から覚めたというより、夢の続きへ突き落とされたような感覚だった。

昨夜の不穏な静けさ。

見えない何かに見られているような気配。

その全部が、今この鐘の音で現実になったのだと、十歳の彼女にすら分かった。


扉が開く。


ネメシアだった。


もう母の顔ではない。

王の顔だ。

紅い髪を高く結い、戦装束の上へ外套を羽織っている。

その目は鋭く、けれどルシェラを見た瞬間だけ、ほんのひと呼吸ぶんやわらいだ。


「ルシェラ」


「おかあさま、何が――」


「聞いて」


ネメシアは短く遮る。


「今から何があっても、私かお父様のそばを離れないこと」


その声に一切の揺らぎはなかった。


ルシェラの喉がひゅっと鳴る。

こんなふうに言われたことは、今まで一度もなかった。


「敵が来るの?」


ネメシアは一瞬だけ沈黙し、それから答えた。


「ええ」


その二文字だけで十分だった。


ルシェラの指先が冷たくなる。

だが泣きはしなかった。

泣けば母の目が曇る気がしたし、何より今の母は、泣いて縋る相手ではなく、前へ出る者の顔をしていた。


その時、廊下の向こうから速い足音が近づいてきた。


エルシオンだった。


白い髪を風に乱し、すでに剣帯を締めている。

その顔にも、もはや迷いはなかった。


「北門だけじゃない」


入ってくるなり、彼は短く言った。


「東の補給路もやられた。正面侵攻に見せかけて、内部の扉まで同時に動いてる」


ネメシアの目が鋭く細くなる。


「やっぱり内側も、ね」


「アルヴァディウス派が開けた可能性が高い」


その言葉が部屋の空気をさらに重くした。


外から天使族。

内から旧貴族派。


ただの開戦ではない。

崩しに来ている。

この都と、均衡そのものを。


ルシェラは二人の会話を聞きながら、ようやく昨夜までの違和感の正体を理解し始めていた。


外の小競り合い。

都の中のざわめき。

母と父の短い沈黙。

全部が、ここへ繋がっていたのだ。


「ルシェラ」


エルシオンが彼女の前に膝をつく。


「怖いか」


ルシェラは少しだけ唇を噛み、そして正直に頷いた。


「……こわい」


「そうだろうな」


エルシオンは否定しない。


「でも、覚えているな」


彼の目はまっすぐだった。


「力は何のために使う」


ルシェラは一瞬だけ息を止める。

あの日の夕暮れ。

庭で教わったこと。

花を守るように光を使ったこと。


そして、小さく答えた。


「まもるため」


エルシオンは静かに頷いた。


「そうだ。奪うためじゃない」


ネメシアもそばへ来て、ルシェラの肩に手を置いた。


「今日は、まず自分を守るの」


「分かった?」


ルシェラは頷く。

けれど心の奥では、何かがざわついていた。

ただ隠れているだけでいいのだろうか。

でも、母の手の温度がその迷いを抑える。


「約束して」


ネメシアが言う。


「勝手にひとりで動かない」


「……約束する」


その返事を聞いて、ネメシアはほんの一瞬だけ母の顔に戻った。


次の瞬間、また王の顔へ戻る。


「ヴォルガたちは北門へ。エルシオン、あなたは中層の民を下げて。私は東へ行く」


「いや」


エルシオンは即座に否定した。


「分散は危険だ。相手はそれを狙ってる」


「でも両方動かなければ都が割れる」


「割らせないために、まず中心を守る」


二人の声がぶつかる。

そこには夫婦としての感情ではなく、同じだけこの都とルシェラを守ろうとする者同士の切迫があった。


だがそこで、外からさらに重い爆音が響いた。


壁が震える。


窓の外で、赤い火が上がるのが見えた。

東側の倉庫群だ。


ネメシアが息を呑む。


「早い……!」


報告より先に火が上がった。

つまり敵は、こちらの初動すら計算に入れている。


エルシオンはすぐ決断した。


「ルシェラを連れて地下へ」


ネメシアは彼を見る。


その判断の意味は分かっていた。

都の王と、かつての後継。

二人とも前線級の戦力だ。

だが今この瞬間、優先すべきは都全体ではなく、狙われている核心を動かすことだと、エルシオンは言っている。


そしてその核心が何かを、ネメシアももう否定できなかった。


ルシェラだ。


天使族の侵攻も、悪魔族内部の反乱も、すべてがただの偶然で同時に起きたとは思えない。

この崩壊の中心に、自分たち家族がいる。


ネメシアは短く頷いた。


「……分かった。中央回廊から下へ行く」


だがその時、扉の外から別の声が響いた。


「ネメシア様!」


ヴォルガだった。

血相を変えて駆け込んでくる。


「東だけじゃない! 西の内門も開けられました! 旧貴族派の兵が民の避難路を遮ってる!」


ネメシアの目が鋭く染まる。


「アルヴァディウス……!」


それはもはや確信だった。


正面から天使族を入れ、内側では避難路を切る。

ただ落とすための侵攻ではない。

逃げ場ごと潰し、混乱の中で狙ったものを奪うための戦いだ。


ルシェラはそこで初めて、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


自分たちは本当に狙われているのだと。


その瞬間、居館の外から叫び声が聞こえた。


「火だ!」


「近衛を集めろ!」


「王を守れ!」


次の瞬間、窓の外を白い光が走る。


天使族の投槍だ。


石壁の一角が砕け、破片が室内へ飛び込む。

エルシオンが反射的にルシェラの前へ出る。

ネメシアも同時に彼女を抱き寄せた。


衝撃のあと、部屋に粉塵が満ちる。


ルシェラは咳き込みながら、父と母の腕の中にいることだけでかろうじて呼吸を保った。


「……早すぎる」


エルシオンが低く言う。


その声の意味は重かった。

まだ都全体の防衛線も整いきっていない。

なのに、ここを直接叩きに来た。

狙いが明確すぎる。


ネメシアはルシェラを抱いたまま立ち上がる。


「ヴォルガ、中央の兵を動かして。民の避難を最優先」


「ですが、ネメシア様――」


「これは命令よ!」


その一喝に、ヴォルガはすぐに頭を下げた。


ネメシアはそのままエルシオンを見る。


「裏庭から行く。地下水路へ繋がる道がまだ生きているはず」


「俺が先に出る」


「ルシェラは私が守る」


二人は目を合わせた一瞬で、それぞれの役割を決めた。


エルシオンが前。

ネメシアがルシェラを庇いながら動く。


裏庭へ出ると、すでに居館の周囲は戦場に変わりつつあった。


兵が走る。

火の粉が舞う。

遠くでは白翼が降下し、別の場所では悪魔族同士が刃を向け合っている。

ありえない光景だった。


ルシェラは母のそばから、その全てを見てしまった。


「おかあさま……」


声が震える。


ネメシアは走りながら言う。


「大丈夫。前だけ見て」


だが大丈夫ではないことくらい、ルシェラにも分かった。

大丈夫ではないのに、母はそう言うしかないのだ。


前を走るエルシオンが一人、飛び込んできた敵兵を柄で打ち落とす。

斬り伏せるのではなく、道を開くために。

ネメシアも横から伸びた槍を払い、相手を壁へ叩きつけて進路を守る。


相手を殺すより、ルシェラを通すこと。


すでに二人の戦いはそういう形になっていた。


だがその時、屋根の上から声が響いた。


「見つけたぞ!」


白い光が走る。

次いで黒い影も飛ぶ。

天使族と、悪魔族内部の裏切り者たちが、同じ方向を向いていた。


ネメシアの胸が冷たく沈む。


やはり、そうか。


この戦争は、ただの開戦ではない。

家族を潰すための戦いだ。


エルシオンもまた、振り向きざまにその全貌を理解していた。


「ネメシア!」


「分かってる!」


その叫びと同時に、二人はほとんど同時に動いた。


エルシオンが白い光を弾き、ネメシアが黒い刃を逸らす。

火花が散る。

ルシェラは母のそばで目を見開いたまま、何もできずにその光景を見るしかなかった。


昨日までは家だった場所が、もう戦場になっている。


今まで教わっていた“守るための力”が、今は両親の背中の中で現実になっている。


この瞬間、家族の穏やかな時間は終わった。

残されたのは、守りながら戦うしかない現実だけだった。


ネメシアはルシェラを庇いながら、低く囁く。


「目を逸らさないで」


ルシェラは震えながらも頷く。


「……うん」


「でも、心まで奪われないで」


その言葉の意味を、ルシェラはまだ全部は分からなかった。

けれど、その声だけは胸に刺さる。


エルシオンが振り返らずに言う。


「行くぞ!」


三人は火と血と裏切りの中へ走る。


夜明けは、もう静かには来なかった。


この朝を境に、世界は完全に壊れる側へ動き出したのだ。

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