『崩れる均衡』
最初に異変として現れたのは、地図の上だった。
深都エルグラディアの政務室。
黒曜石の長机の上に広げられた北方戦線図には、ここ数日の報告を示す小さな赤印がいくつも増えていた。
本来なら、前線の小競り合いには一定の流れがある。
偵察。牽制。補給路の確認。
戦が長く続いている以上、衝突そのものは珍しくない。
だが、今広がっている赤印には妙な偏りがあった。
規模が小さい。
だが回数が多い。
しかも重要拠点を狙うには中途半端な位置ばかりが燃やされ、潰され、荒らされている。
まるで勝つためではなく、落ち着かせないために火をつけているようだった。
ネメシアは椅子の背にもたれず、机に手をついたままその地図を見下ろしていた。
紅い髪は今夜も結い上げたままだが、目の奥にある疲れは隠しきれていない。
政務、前線、都の空気、その全部を同時に見続けている者の顔だった。
向かいには前線将ヴォルガが立っている。
彼もまた、報告書の束を片手に苦い顔をしていた。
「今日だけで三件」
ヴォルガが低く言う。
「北の補給道、東の見張り台、そのあと南の避難路近くまで小規模衝突」
「天使族側は?」
とネメシアが問う。
「いつもより浅い。押し切る気は見えない」
「引き際は」
「妙に綺麗だ。こっちが増援を回す頃には、もう消えてる」
ネメシアは小さく息を吐いた。
やはりそうだ。
これは正面からの侵攻前に防衛線を削るやり方にも見える。
だが、それにしては効率が悪すぎる。
本気で崩すなら、もっと要点を突いてくるはずだ。
「揺らしてるのよ」
ネメシアがぽつりと言う。
ヴォルガが眉をひそめた。
「揺らす?」
「ええ。前線を疲弊させて、兵を眠らせず、民を不安にさせて、判断を鈍らせる」
ネメシアの指先が地図上を滑る。
「ここと、ここ。それにここ。戦果としては小さいのに、全部“放っておくと嫌な場所”ばかりでしょう」
ヴォルガは数秒黙り、それから低く唸った。
「……嫌なやり方だな」
「だから余計に嫌なのよ。勝つための戦なら、まだ読みやすい」
ネメシアはそう言いながら、地図から目を離す。
窓の外には深都の灯りが見える。
都はまだ普段通りを保っている。
市場も開き、家々には食事の匂いがあり、子どもたちの声も消えてはいない。
けれど、その灯りの奥に、じわじわと見えない不安が広がっていることも感じていた。
最近、兵の交代がぎこちない。
伝令の顔に余裕がない。
民の中にも、“何か隠しているのではないか”という視線が混じり始めている。
しかもそれは、ただの戦疲れではない。
誰かが、意図してその空気を育てている。
ネメシアはそれを口にしなかったが、ヴォルガもまた察していたのだろう。
「都の中も、少し変だ」
彼が言う。
「前から火種はあった。だが最近は“偶然そうなった”にしては出来すぎてる」
ネメシアは短く頷いた。
「内と外、両方ね」
その一言で、部屋の空気がさらに重くなる。
ネメシアは書簡をまとめると、静かに言った。
「近衛の巡回を増やす。あからさまにではなく、自然に」
「ルシェラ様の方は」
ヴォルガが言いかけて、すぐに言葉を飲み込む。
それでもネメシアは目を逸らさなかった。
「ええ。あの子の周りも、変える」
声に感情は乗せなかった。
だが、その短い言葉の奥には鋭い緊張があった。
ヴォルガは静かに頭を下げた。
「はっ」
ネメシアはようやく窓の外へ目を向ける。
深都はまだ眠りきっていない。
あの日の夕暮れ、真剣な顔で「まもるため」と言った、あの小さな声が胸に蘇る。
だからこそ、余計に胸が重い。
守るための力を教えたのに、守るべき世界の方が崩れ始めている。
そんな皮肉があるだろうかと、ネメシアは一瞬だけ思った。
同じ頃、深都エルグラディアの別棟にある静かな一室では、エルシオンが灯りの下に座っていた。
机の上には、封のない小さな書簡が置かれている。
そこへ窓から、夜気とともにひとつの影が滑り込んだ。
足音はない。
灰色がかった短い髪。
鋭い目。
若い男だった。
エルシオンは顔を上げる。
「遅かったな、カイル」
カイルは窓辺に片膝をつき、低く答える。
「見張りが増えてた。前よりずっとな」
この男だけが、今のエルシオンにとって天使族側からの情報を運んでくる唯一の存在。
古くからの友人だった。
「向こうはどうなっている」
エルシオンが問うと、カイルはすぐに書簡を差し出した。
「北方の小競り合いは表向き偶発扱いだが、内部じゃ違う空気になってる」
「族長の周りが妙に動いてる。前線報告とは別の密使が何度も出入りしてる」
「それと……」
そこでカイルはわずかに声を低くした。
「エルシオンの名前が、また裏で出始めてる」
エルシオンの表情がわずかに硬くなる。
「どういう形で」
「“堕ちた後継”って言い方だ」
短い沈黙が落ちた。
エルシオンは目を閉じるでもなく、ただ机の木目を見つめた。
予想はしていた。
だが、こうして言葉になるとやはり重い。
カイルはさらに続ける。
「変なのはそれだけじゃない。前線の兵も妙に荒れてる」
「勝つためってより、眠らせないために動かされてる感じだ。俺でもそう思う」
エルシオンは書簡を開く。
記された地点は、ネメシアがいま見ているものとほとんど重なっていた。
内と外。
両方からだ。
「……やはりか」
カイルがじっとエルシオンを見る。
「何か心当たりがあるんだな」
「あると言えばある。だが、まだ線にならない」
「線になった頃には遅い気もするけどな」
その言葉に、エルシオンは苦く息を吐いた。
「珍しく弱気だな」
「弱気じゃない。嫌な予感が当たりそうな時の顔だ」
カイルはそう言って窓の外へ一瞬目をやる。
「ルシェラは」
その問いに、エルシオンの表情がさらに静かになる。
「今日は落ち着いていた」
そう言いながらも、その声にはどこか迷いが混じっていた。
ネメシアと共に力を使う意味を教え、布玉を止め、守るように光を使った娘の真剣な顔を思い出す。
カイルはその微かな揺れを見逃さなかったのだろう。
「でも、たぶん何かは感じてる」
エルシオンは否定しなかった。
「……ああ」
子どもは空気のひずみに敏い。
ましてルシェラは、ただの子どもではない。
周囲の感情や気配を、言葉になる前の揺れとして受け取っている節がある。
エルシオンは書簡を畳み、低く言う。
「引き続き向こうを見ていてくれ」
「言われなくても」
「無理はするな」
「それも今さらだ」
短くそれだけ交わすと、カイルは来た時と同じように窓から消えた。
部屋には静けさが戻る。
けれどエルシオンの胸の中では、静けさとは正反対のものが膨らみ始めていた。
悪魔族の側でも何かが起きている。
天空神殿でも何かが動いている。
そしてそのどちらも、偶然とは思えない。
ルシェラのいるこの家の周りに、見えない刃が少しずつ寄ってきている。
その感覚だけが、嫌にはっきりしていた。
その夜遅く。
セリウスは国境沿いの山道を馬で進んでいた。
深都エルグラディアと天空神殿、そのどちらにも属さない場所を巡りながら、彼はこのところ頻繁に前線沿いを見て回っていた。
調停者として長く戦を見てきた勘がある。
戦の匂いが変わる時は、まず空気ではなく人の顔に出ることを知っていた。
そして今、その顔が変わり始めている。
野営地に立ち寄れば、兵たちの目がぎらついている。
村を通れば、民の声が落ちている。
商人たちは道を急ぎ、伝令はやけに無口だ。
何かが近い。
まだ正体は掴めない。
だが“ただの長引く戦疲れ”ではないことだけは分かる。
日が傾いた頃、セリウスは国境沿いの小さな休息所に馬を止めた。
木造の簡素な建物。
表には湯気の立つ鍋が置かれ、中には前線帰りの兵や旅人が数人、黙って食事をしている。
その空気が妙に重い。
セリウスは席に着き、湯を受け取りながら耳を澄ませた。
「また北でやったらしい」
「でも大きな戦じゃないんだろ」
「だから気味が悪いんだよ」
小さな囁きが、別々の口からこぼれている。
それを聞きながら、セリウスの背に冷たいものが走った。
誰かが均衡を崩そうとしている。
ただ勝つためではなく、互いの神経を削り、疑いを増やし、いずれ大きな崩壊へ雪崩れ込ませるために。
セリウスは湯を飲むふりをしながら目を伏せる。
ネメシア。
エルシオン。
そしてルシェラ。
あの家族が、今いちばん危うい場所にいることを彼は知っていた。
戦の両側から見ても異質で、しかもどちらの秩序にも収まりきらない。
こういう時、最初に狙われるのは、往々にして“曖昧なもの”だ。
休息所を出る時、空には薄い雲が流れていた。
風向きが、いつもと違う。
セリウスは馬の手綱を握りながら、低く呟く。
「間に合えばいいが」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、自分の中で膨らみ始めた嫌な予感に形を与えるような独り言だった。
その夜。
深都エルグラディアでは、ルシェラが珍しく眠りの浅い様子を見せていた。
もう十歳になる彼女は、幼い頃のようにただ寝言をもらすだけではない。
眠りの中でも時々、何かを探るように指先を動かし、眉を寄せる。
夢の中で見えない気配を払うみたいに何度も震えていた。
ネメシアが抱き起こすと、ルシェラは半分眠ったまま母の肩へ額を寄せる。
「……へんなゆめ」
かすれた小さな声だった。
「どんな夢?」
ネメシアが優しく問うと、ルシェラは目を閉じたまま言う。
「だれかが、ずっとみてるの」
その言葉に、ネメシアとエルシオンのあいだに短い沈黙が落ちた。
ルシェラ自身は、まだそれ以上うまく言葉にできない。
だが感じ取っている。
家の外の空気が少しずつ変わっていることを。
エルシオンがそっと額へ手を当てる。
「熱はない」
「ええ。でも……」
ネメシアはルシェラの背をゆっくり撫でた。
ルシェラはようやく少し落ち着いたが、その表情は眠りながらも不安げだった。
エルシオンはその顔を見て、胸の奥に鈍い痛みを覚える。
もうこの子は、何も分からない小さな赤子ではない。
空気の重さも、両親の沈黙も、家に出入りする人間の目の変化も、子どもなりに感じ取ってしまう年齢だ。
「ネメシア」
「何」
「しばらく、外との接触はもっと絞るべきかもしれない」
ネメシアはすぐには答えなかった。
エルシオンが言っている意味は、分からないはずがない。
天使族側との密かな連絡。
前線の外で交わされる情報。
必要だから続けてきたものだが、今となっては、そのひとつひとつが見つかれば致命傷になる。
だが同時に、それを絶てば状況はもっと見えなくなる。
目を閉じたまま刃を待つようなものだった。
「……完全に断てば、余計に遅れる気がするわ」
ネメシアの返事は静かだった。
「でも、今まで以上に慎重にはする」
エルシオンは頷く。
それしかない。
何が近づいているのか、まだ見えない以上、できることは限られている。
ルシェラは二人のあいだで小さく身じろぎし、それからようやく少し深い眠りへ落ちていく。
その寝顔を見ながら、ネメシアはぽつりと言った。
「嫌な感じがする」
エルシオンも、同じ言葉を心の中で繰り返していた。
そして同じ夜、離れた道の上でセリウスもまた、馬を止めて暗い空を見上げていた。
国境沿いでは小さな火が増え続けている。
だが本当に燃え始めているのは、まだ目に見えない別のものだ。
信頼。
均衡。
そして、守られていたはずの時間。
それらが少しずつ軋み始めている。
崩れる時は、一気だ。
セリウスはそのことを知っていた。
だからこそ、何も起きていない今の方が怖かった。
風が吹く。
深都にも、天空にも、そのどちらにも届く同じ夜風だった。
だがもう、その風は以前と同じものではない。




