『守るための力』
黒曜石の床。
水盤の静かな水面。
庭石のあいだに植えられた白い花。
その中央に、ルシェラはひとり立っていた。
十歳になったばかりの少女。
銀白の髪は肩を越えてやわらかく流れ、瞳は金と赤を宿していた。
天使でもなく、悪魔でもない。
けれどそのどちらも確かに宿した姿だった。
ルシェラは両手を胸の前でそっと合わせていた。
目の前には、地面に落ちた一羽の小鳥がいる。
羽を傷めたのか、飛べずに弱々しく呼吸していた。
「……だいじょうぶ」
ルシェラは小さく囁く。
その声に応えるように、彼女の指先に淡い光が滲んだ。
朝靄のようにやわらかく、雪よりも静かな光。
それが少しずつ小鳥を包み込んでいく。
最初はうまくいかなかった。
力を込めすぎれば、光は一気に広がって周囲の花びらまで持ち上げてしまう。
怖くなって止めようとすると、今度はふっと消えてしまう。
ルシェラは息を整えた。
お母様みたいに。
お父様みたいに。
そう心の中で繰り返す。
すると光は今度こそ穏やかに留まり、小鳥の折れかけていた羽のまわりへやさしく集まっていった。
小鳥が小さく身じろぎし、やがてふるふると翼を震わせる。
「……!」
ルシェラの目が少しだけ明るくなる。
次の瞬間、小鳥は頼りないながらも空へ飛び上がり、中庭の木の枝へ止まった。
完全に治ったわけではないのか、まだ動きはぎこちない。
けれど、地面に落ちたままではなくなった。
ルシェラはほっと息を吐く。
「できた……」
「半分ね」
後ろから声がした。
振り返ると、ネメシアが立っていた。
紅い髪を朝の光に照らし、いつもの王の衣をまだ着ていない。
政務へ向かう前の、少しだけ柔らかな姿だった。
けれど目には、娘の細かな変化を見逃さない鋭さがある。
ルシェラは少しだけ口を尖らせる。
「半分?」
「ええ。飛べるようにはなった。でも、まだ羽根の震えが残ってる」
ネメシアはルシェラの隣まで来て、枝の上の小鳥を見上げた。
「治すことと、急いで動けるようにすることは違うのよ」
ルシェラは少しだけ肩を落とす。
「……むずかしい」
「そうでしょうね」
ネメシアはあっさり言った。
「力が強いほど、雑に使った時の差も大きいもの」
その言葉に、ルシェラは自分の手を見た。
細く、小さな、まだ子どもの手。
けれど時々そこから、自分でも驚くほど大きなものが零れることがある。
花が急に開く。
弱っていた動物が立ち上がる。
逆に、感情が乱れた時は部屋の物が揺れたり、灯りが明滅したりもする。
うれしい時もある。
でも少しだけ、怖い時もあった。
ネメシアはそんな娘の顔を見て、しゃがんで目線を合わせた。
「怖い?」
ルシェラは少し迷ってから頷いた。
「……ちょっとだけ」
「何がいちばん怖いの」
「へんなふうになったら」
「へんなふう?」
「だれか、いたくしたら」
その答えを聞いた瞬間、ネメシアの目がほんの少しだけやわらかくなる。
「あなただから、そう思うのね」
ルシェラは意味が分からず首を傾げた。
ネメシアは答えず、ただ娘の髪をひと撫でする。
その時、中庭の外から足音が近づいてきた。
前線兵のひとりが膝をつく。
「族長様。北門にて小さな揉め事が」
ネメシアはすぐ立ち上がった。
「内容は」
「補給順のことで避難民と兵の間に言い争いが。大事には至っておりませんが、空気が少々……」
「分かった。行くわ」
兵が頭を下げる。
ネメシアはルシェラを見下ろした。
「一緒に来る?」
ルシェラの目が少しだけ大きくなる。
「いいの?」
「見ておいた方がいいこともある」
その言い方は、母というより王だった。
けれどそこに冷たさはない。
ルシェラは少しだけ緊張しながらも頷いた。
「うん」
北門近くの広場には、思ったより多くの人が集まっていた。
兵たちが道を開け、その向こうで老いた女と若い兵が険しい顔で言い合っている。
周囲には避難してきた民や荷を運ぶ者たちが立ち止まり、ざわめきが波のように広がっていた。
「族長様だ」
誰かがそう言うと、空気が少し変わる。
ネメシアは足を速めなかった。
慌てず、威圧せず、だが確かに全員がその姿を見てしまう歩き方で輪の中央へ入っていく。
ルシェラはその少し後ろを歩きながら、母の背を見つめていた。
やっぱりお母様は、凄い。
そう思う。
ネメシアは老女と兵を順に見て、静かに言った。
「何があったの」
先に兵が頭を下げた。
「補給の順が乱れ、避難民の一部が割り込んだと……」
「割り込んだんじゃないよ!」
老女が震える声で言い返す。
「この子が熱を出してるんだ。だから薬師の列へ急いだだけで……」
見れば、老女の後ろには小さな男の子がいた。
顔が赤く、母親らしい女に抱かれて苦しそうにしている。
ネメシアは一瞬で状況を把握した。
兵の判断も間違いではない。
補給列が乱れれば全体に響く。
だが老女の焦りも当然だ。
「あなたは規律を守ろうとした。それは正しい」
兵の顔に少しだけ安堵が浮かぶ。
だが次の言葉で、すぐに表情が引き締まった。
「でも、守るべきものの順番を見誤ったわね」
ネメシアは男の子を見る。
「列はまた整えられる。でもあの子の熱は、今この瞬間を逃したら重くなる」
兵は目を伏せた。
「……申し訳ありません」
「謝る相手は私じゃない」
老女と、その子の母親が息を呑む。
兵はぎこちなくそちらへ向き直り、深く頭を下げた。
ネメシアはそれを見届けてから、近くの薬師へ短く命じた。
「優先して診なさい。補給列は私が責任を持つ」
その声が落ちた瞬間、ざわめきは不思議なくらい静まった。
ルシェラはその光景をじっと見ていた。
お母様は怒鳴らない。
誰かを恥をかかせるために強く出るわけでもない。
でも、間違いをそのままにはしない。
“守る”って、こういうことなんだ。
ただ優しいだけじゃない。
ただ強いだけでもない。
正しく見て、決めて、立つことなんだ。
広場を離れる時、ルシェラは思わず言った。
「おかあさま、すごかった」
ネメシアは少しだけ目を細めた。
「何が?」
「みんな、ちゃんとみた」
「怒ってないのに、ちゃんときいた」
ネメシアは少し考えてから答える。
「怒ることより、伝わることの方が大事な時もあるのよ」
「……つよいから?」
「いいえ」
ネメシアはルシェラの頭に手を置いた。
「守りたいものがはっきりしているから」
その言葉が、ルシェラの胸へ静かに落ちていく。
その日の夕暮れ、居館の裏庭ではエルシオンが待っていた。
石畳の訓練場。
木剣が二本。
その脇には、小さな布玉がいくつも置かれている。
ルシェラが来ると、エルシオンはしゃがんで目線を合わせた。
「今日は少し教える」
「たたかいかた?」
「その前に、力の使い方だ」
ルシェラは真剣な顔で頷いた。
ネメシアも遅れて合流し、訓練場の端に立つ。
夕日の赤が彼女の髪に映っていた。
エルシオンは木剣を一本持ち、もう一本をルシェラへ差し出した。
ルシェラは受け取ったものの、少し戸惑う。
「わたし、これでだれか、きずつけるのやだ」
その言葉に、エルシオンはすぐ頷いた。
「それでいい」
「え?」
「その気持ちは、忘れるな」
ルシェラが目を瞬かせる。
エルシオンは木剣を地面へ置き直し、代わりに布玉をひとつ拾った。
「力は、奪うためにあるんじゃない」
彼は布玉を軽く投げる。
ルシェラは反射的に身を引くが、布玉は彼女の前でふわりと止まった。
エルシオンが手で受け止める。
「まず守ることを覚えろ。止めることを覚えろ。避けることを覚えろ」
ネメシアが後ろから続ける。
「壊すのは簡単よ。強い力があれば、なおさら」
「でも本当に難しいのは、壊さずに守ること」
ルシェラは二人を見比べた。
「おかあさまも、おとうさまも、そうしてるの?」
エルシオンは少しだけ苦く笑う。
「できない時もある」
ネメシアも静かに頷く。
「でも、そうあろうとはしている」
「力を持つなら、それを忘れちゃいけない」
ルシェラは木剣を見つめ、それから自分の手を見た。
時々光が溢れる手。
誰かを癒せるかもしれない手。
でも使い方を間違えれば、傷つけるかもしれない手。
「……まもるため」
「そう」
ネメシアが言う。
「あなたの力は、誰かから奪うためじゃない」
「弱いものを踏みにじるためでもない」
「泣いている人がいたら、その涙を止められるように」
「傷ついている人がいたら、その前に立てるように」
エルシオンがさらに続ける。
「それでも戦わなければならない時はある」
「でもその時も、忘れるな」
「お前が何を守りたいのかを」
ルシェラは小さく頷いた。
その表情は、子どもらしい無邪気さよりも、何かを受け取ろうとする真剣さを帯びていた。
訓練は静かに始まった。
エルシオンはまず、立ち方を教えた。
崩されない重心。
足の運び方。
ネメシアは呼吸を教えた。
怖い時ほど止めないこと。
怒った時ほど広げないこと。
力は押し出すものではなく、まず胸の中へ収めること。
ルシェラは何度も失敗した。
布玉を避け損ね、足をもつれさせ、呼吸を乱し、指先の光を急に散らせてしまう。
そのたびにネメシアは「もう一度」と言い、
エルシオンは「焦るな」と言った。
やがて日が沈みかけた頃。
ネメシアが庭の隅に置かれた萎れた小さな花を指した。
「最後に、ひとつだけ」
ルシェラはそこへ歩いていく。
小さな白い花。
朝から少し元気がなく、水をやっても戻らなかったものだ。
「治せるかな」
ルシェラが不安そうに言う。
エルシオンは答える。
「治そうとするな」
「え?」
「守ろうとしろ」
ネメシアも静かに言う。
「この花が、また明日を迎えられるようにって思いなさい」
ルシェラは花の前にしゃがんだ。
目を閉じる。
呼吸を整える。
怒りでも、焦りでも、見せたい気持ちでもない。
ただ、この花が元気になればいいと思った。
その瞬間、彼女の手のひらに淡い光が灯る。
今までよりも静かで、今までよりも揺れが少ない。
その光はそっと花を包み、花弁の先へやわらかく染み込んでいく。
少しの沈黙。
やがて萎れていた花弁が、ほんのわずかに持ち上がった。
大きな奇跡ではない。
枯れたものを完全に蘇らせるほどではない。
けれど、確かにそこには“明日へ繋ぐ力”があった。
ルシェラが目を開ける。
「……できた?」
ネメシアはすぐには答えなかった。
代わりに、少し潤んだ目で花と娘を見つめていた。
エルシオンが低く言う。
「ああ」
その声には、静かな誇りがあった。
ルシェラはほっと息を吐き、それから少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、ネメシアは胸の奥で強く思う。
この子は、本当に希望なのかもしれない、と。
強いからではない。
優しいからだ。
傷つけることより、守ることを先に選べるからだ。
だからこそ守らなければならない。
ネメシアとエルシオンは、夕闇の中で同じことを思っていた。
まだ幼い。
まだ不完全だ。
けれどこの子の中には、たしかに世界を変えるかもしれない光がある。
それは奪う力ではなく、守る力。
癒しの力。
明日へ繋ぐ力。
そしてその尊さを、世界はきっと簡単には許さない。
ルシェラはそんなことを知らず、少し照れくさそうに両親を見上げた。
「もっと、れんしゅうする」
ネメシアは微笑んだ。
「ええ、そうしましょう」
エルシオンも頷く。
「ああ。でも忘れるな」
「うん?」
「何のための力かを」
ルシェラは夕闇の中で、しっかりと頷いた。
「まもるため」
その答えはまだ小さかった。
けれど確かだった。
その日、深都エルグラディアの静かな庭で、ひとつの力の意味が娘へ受け継がれた。
それは後に、どれほど世界が壊れようとしても、ルシェラの中で最後まで消えない灯になる。




