『利害の一致』
夜は深く、空は閉ざされていた。
白き天空神殿にも、深都エルグラディアにも属さないその場所は、古い時代に捨てられた中継
神殿の跡だった。
山脈の中腹、雲と霧が交わる断崖に半ば埋もれた石造りの遺構。
かつては国と国を結ぶ交渉の場として使われたとも言われているが、今はもう、誰も近づかない。
だからこそ、ちょうどよかった。
崩れた円柱。
ひび割れた石床。
天井の抜けた大広間には月光が斜めに落ち、そこに吹き込む風だけが、ここにまだ世界の時間が流れていることを示していた。
その広間に、先に来ていたのはアルヴァディウスだった。
銀髪の男は崩れた祭壇の前に立ち、片手で古びた石像の欠片を撫でている。
やがて、上空から音もなく白い影が降りる。
ヴァルセリオンだった。
六枚翼を持つ天使族の族長。
白き秩序そのものを纏うような男が、崩れた交渉の遺跡へ足を下ろす。
本来なら、同じ空間に立つことすらあり得ない二人だった。
だが今夜は違う。
ヴァルセリオンはアルヴァディウスを見ても、驚きも嫌悪も顔に出さなかった。
ただ静かに、値踏みするような目を向けるだけだった。
アルヴァディウスは先に笑う。
「まさか本当に来るとは思わなかったよ、天使の族長」
「お前もな」
ヴァルセリオンの声は冷たい。
「悪魔族の旧貴族が、わざわざ敵国の族長へ手を伸ばすとは」
「利があるからだろう?」
アルヴァディウスは即座に返す。
「君も、俺も」
その一言で、会話の本質は剥き出しになる。
信義でも理念でもない。
利害だ。
ヴァルセリオンは崩れた石段の上で足を止めた。
「回りくどい話は好かぬ」
「結構」
アルヴァディウスは肩をすくめる。
「なら簡単に言おう。ネメシアと、白翼の男と、その子」
そこでわずかに間を置き、口元を歪めた。
「消えてもらいたい」
風が吹く。
崩れた天井から差す月光が、二人のあいだに薄い線を引く。
ヴァルセリオンの表情は動かない。
だがその沈黙自体が、すでに否定ではなかった。
「理由は」
と彼は低く問う。
アルヴァディウスは少しだけ笑みを深くした。
「君ほど立派じゃない理由だよ」
「ネメシアは本来、俺の隣に立つべきだった」
「それを白翼の男が奪った」
「そしてあろうことか、あの女はそいつとの子まで生んだ」
言葉は静かだ。
だが中に渦巻くものは、どろどろと濁っている。
「だから壊したい」
「分かりやすいだろう?」
ヴァルセリオンは一瞬だけ目を細めた。
軽蔑はあった。
だが同時に、利用価値も見ていた。
「愚かな執着だ」
「そうかもしれない」
アルヴァディウスはあっさり認める。
「でも君の理由は、もっと高尚なのか?」
その問いに、今度はヴァルセリオンが月光の下へ一歩出た。
「高尚かどうかは問題ではない」
「問題は、あの子が存在するだけで境界が揺らぐことだ」
その声には揺らぎがない。
「光と闇は、交わってはならぬ」
「交われば、どちらを守るべきかという秩序そのものが崩れる」
「一つの例外は、やがて世界全体の曖昧さになる」
アルヴァディウスはその言葉を聞きながら、内心で笑っていた。
なるほど。
この男は本当に、自分こそが世界を守っていると信じている。
そこが面白かった。
自分はただ奪えぬものを壊したいだけだ。
だがヴァルセリオンは、それを“必要な断罪”と呼べる。
その差は大きいようでいて、実際には目的地が同じなら大した違いではない。
「つまり」
アルヴァディウスがまとめるように言う。
「君は秩序のために消したい。俺は愛のために壊したい」
「言葉は違うが、結末は同じだ」
ヴァルセリオンは否定しなかった。
代わりに、より冷たい問いを返す。
「お前に何ができる」
アルヴァディウスの目がわずかに光る。
試された。
そう理解した瞬間の顔だった。
「悪魔族側の火種は俺が撒く」
彼は指を一本立てる。
「ネメシアが何かを隠していること。近衛の配置を変え、私室を閉ざし、政務の判断にも私情が混じっていること」
「それを少しずつ流す」
二本目の指を立てる。
「旧貴族派の不満も煽る。王が“異質な何か”に囚われ、国を危険に晒していると思わせる」
三本目。
「前線でも動かす。小競り合いを増やし、ネメシアが後手に回るよう火を散らす」
ヴァルセリオンは静かに聞いている。
アルヴァディウスは続ける。
「君は天使族側を動かせばいい」
「境界を乱す危険が生まれた、という大義で」
その言葉に、ヴァルセリオンは初めて明確な反応を見せた。
「大義ではない」
声は低く、断定的だった。
「必要だ」
アルヴァディウスは口元だけで笑う。
「言い方の違いさ」
その軽さに、ヴァルセリオンの目には一瞬、露骨な嫌悪が宿る。
だが彼は感情に流されない。
重要なのは、アルヴァディウスがネメシアの足元を内側から崩せる位置にいること。
そして自分が外から圧をかけられること。
その二つが噛み合えば、家族は必ず孤立する。
「天使族側ではすでに揺らぎが出ている」
ヴァルセリオンが言う。
「エルシオンの一件で、一部の兵に疑問が生まれた」
「ならなおさら都合がいい」
アルヴァディウスがすぐに応じる。
「“悪魔族と交わった後継が堕ちた”と広めれば、君は秩序の再統一を図れる」
ヴァルセリオンは沈黙した。
その沈黙は、肯定だった。
一方でアルヴァディウスもまた理解している。
ヴァルセリオンは自分を信用していない。
利用し終えたら切り捨てる気でいるだろう。
だがそれでいい。
こちらも同じだ。
ネメシアとエルシオンとルシェラ。
その三人が壊れれば、あとはどうなろうと構わない。
むしろその後で、混乱の中から自分の位置を取り戻せるなら、それに越したことはない。
「直接手を下すつもりは?」
とアルヴァディウスが問う。
ヴァルセリオンはしばらく月光の差す床を見つめ、やがて答える。
「まだだ」
「まずは孤立させる」
「守りたいものを守れぬ状況を作る」
「そのうえで断つ」
その言い方に、アルヴァディウスは愉快そうに目を細めた。
残酷だ。
しかも本人はそれを残酷だと思っていない。
そこが実に都合がよかった。
「いいね」
アルヴァディウスは低く笑う。
「ネメシアは強い。正面から折ろうとしても、そう簡単には折れない」
「だからこそ、奪うべきなんだ」
「守るものを」
その言葉に、ヴァルセリオンは微動だにしない。
エルシオン。
ネメシア。
ルシェラ。
彼らはまだ、自分たちがどの程度見られているかを知らない。
それが最大の弱みだった。
崩すのは難しくない。
少しずつ周囲を濁らせ、疑念と敵意を増やし、互いに手を伸ばせない状況へ追い込めばいい。
守るために分散し、分散した瞬間を断つ。
あまりにも冷静な計画だった。
だがその計画は、この場の二人にとっては自然だった。
秩序の名で断つ者。
愛の名で壊す者。
まるで違う顔をした狂気が、ここで初めて完全に手を結ぶ。
「一つ忠告しておく」
ヴァルセリオンが最後に言う。
「私の目的は、あの子の排除と境界の維持だ」
「お前の執着に付き合うつもりはない」
アルヴァディウスは微笑む。
「分かってるとも」
それが嘘ではないことが、かえって不気味だった。
彼にとってもまた、最終目的は十分に重なっているのだ。
「こちらも一つ忠告しようか、天使の族長」
「何だ」
「ネメシアを甘く見ない方がいい」
その声だけが、少し本音に近かった。
「彼女は壊れにくい」
「だからこそ、壊れる時は……大きい」
ヴァルセリオンはそれに答えない。
必要なのは警告ではなく結果だ。
彼にとっては、それだけだった。
やがて二人は同時に背を向ける。
これ以上会話を重ねる意味はない。
必要なことはすでに決まった。
アルヴァディウスは地下へ通じる暗がりへ消える。
ヴァルセリオンは白き翼を広げ、再び夜空へ上がる。
遺跡には風だけが残った。
その夜を境に、見えないところでいくつもの火種が撒かれ始めた。
天空神殿では、一部の高位神官と将が密かに招集される。
境界を乱す危険についての文書が作られ、エルシオンの“堕落”を示唆する噂が流される。
前線には、強硬策を支持する者たちが目に見えて増えていった。
深都エルグラディウス……ではなく深都エルグラディアでも、旧貴族派の声が強まる。
王が近頃、私情で判断を歪めている。
前線よりも私室を優先している。
秘匿している何かがある。
そんな断片的な噂が、日々、別々の口から囁かれるようになる。
兵の間にも、民の間にも、説明のつかないざわめきが広がった。
まだ誰も真実は知らない。
だが、何かがおかしいという空気だけが育っていく。
それはまるで、水面下で広がるひびのようだった。
当の本人たちは、まだその全容を知らない。
ネメシアは政務の合間に、少しずつ増える違和感を感じ始めていた。
エルシオンもまた、天空側の空気がさらに硬く、冷たくなっていくことに気づいていた。
セリウスも各地を巡る中で、国境沿いの風向きが明らかに変わったことを察していた。
だが、この時点ではまだ、誰もひとつの線に結びきれていない。
結びきれないまま、状況だけが悪くなる。
そしてその中心には、静かに眠る小さな命がある。
ルシェラはその夜も、何も知らずに眠っていた。
その寝息の外側で、世界はすでに彼女を中心に壊れ始めているとも知らずに。




