『見えない刃』
幸福とは、壊れる前ほど静かに見えるものなのかもしれない。
深都エルグラディアの夜は穏やかだった。
谷の壁に沿って灯る明かりは揺らぎ、家々の窓からは温かな色がこぼれている。
市場の喧騒はとうに引き、残っているのは食卓を囲む声と、遠くで交代を告げる兵の足音くらいのものだった。
王の居館の最奥でも、静けさは同じだった。
ネメシアは寝台の脇に腰を下ろし、眠ったばかりのルシェラを見つめている。
もう赤子ではない。
七つか八つほどに育ったその少女は、銀白の髪を枕へ広げ、小さな寝息を立てていた。
寝顔はあどけない。
けれど時折、眠りの浅い水面を渡るように眉がわずかに寄る。
最近は、こういうことが少し増えていた。
その隣では、エルシオンが低い灯りの下で書簡に目を通していた。
だが視線はたびたび紙面から外れ、ルシェラへ向いてしまう。
「さっきから三行に一回は見てるわよ」
ネメシアが小さく言う。
エルシオンは顔を上げた。
「そんなに見ていない」
「見てる」
「……確認しているだけだ」
「何を?」
「ちゃんと息をしているか」
ネメシアは呆れたように肩をすくめる。
「するに決まってるでしょう」
「分かっている」
「分かってない顔よ、それ」
エルシオンは少しだけ視線を逸らした。
その仕草に、ネメシアは思わず笑いそうになる。
戦場では誰よりも冷静に立つ男が、娘の寝息ひとつに神経を尖らせている。
その不器用さが、今のネメシアには愛おしかった。
「あなた、本当に変わったわね」
「そうか?」
「ええ。昔はもっと、“正しい顔”ばかりしてた」
エルシオンは手元の書簡を畳み、寝台の方を見る。
「今も正しくありたいとは思っている」
「でも、その“正しさ”の形が変わった」
ネメシアの言葉に、エルシオンは静かに頷いた。
そうかもしれない。
昔の自分なら、守るべきものをもっと大きな言葉で語っていただろう。
秩序。光。民。世界。
今もそれらが大切であることに変わりはない。
だが、今その言葉の中心には、確かにこの小さな寝息がある。
ルシェラが身じろぎし、小さく声をもらす。
「……おかあさま……」
寝言だった。
ネメシアがすぐに身を寄せるより早く、エルシオンの方が立っていた。
「起きたのか」
まだ眠っているに等しい反応に、そんな声をかけている。
ネメシアはつい吹き出す。
「起きてないわよ」
「いや、今……」
「寝言みたいなもの」
「そういうものか」
エルシオンはそう言いながらも、結局ルシェラの額にかかる髪をそっと払っていた。
指先を触れさせる仕草は驚くほど慎重で、まるで少し乱暴にすれば夢ごと壊してしまうのではないかと恐れているみたいだった。
その時だった。
部屋の外で、控えめなノックが響く。
ネメシアとエルシオンの空気が同時に変わる。
家庭の静けさから、王と戦士の顔へ戻るのに、一瞬もかからない。
「誰」
ネメシアが問うと、扉の向こうから女官の声が返る。
「族長様。北方監視台より、急ぎの報が」
ネメシアの眉がわずかに動いた。
「入って」
扉が開き、伝令役の女官が膝をつく。
その顔には、ただならぬ緊張があった。
「天空神殿側で、不自然な使者の動きが確認されました」
エルシオンの表情が変わる。
「父が?」
「断定はできません。ただ、通常の前線報告とは別系統の密使が、ここ数日で三度」
ネメシアは短く息を吐く。
それだけで十分だった。
ただの軍務ではない。
裏で何かを探り始めている動きだ。
「他には」
女官は一瞬ためらい、それから続けた。
「悪魔族側でも、旧貴族派の一部が水面下で接触を増やしています」
その言葉に、今度はネメシアの目が細くなる。
旧貴族派。
そしてその中心にいる男の名は、出されずとも分かっていた。
アルヴァディウス。
かつてネメシアの婚約候補とまで囁かれ、だが最後にはその座を失い、それ以降は前線と政争の間で不気味な沈黙を保ってきた銀髪の男。
ネメシアは低く言った。
「下がって。監視は増やして。気取られないように」
「はっ」
女官が去る。
扉が閉まったあと、部屋の空気はもう元には戻らなかった。
ルシェラは変わらず眠っている。
その静けさだけが、かえって胸に痛い。
エルシオンが先に口を開く。
「……父が動いたかもしれない」
ネメシアは否定しない。
「そしてこちら側も、アルヴァディウスが嗅ぎつけ始めている」
その名を聞いた瞬間、エルシオンの顔にかすかな険しさが走った。
ネメシアはそれを見て言う。
「会ったことはないわよね」
「噂だけだ」
「十分よ」
ネメシアの声は冷たかった。
「欲しいものを“愛”と呼ぶ男」
短い言葉だったが、それだけでエルシオンには十分だった。
敬意でも未練でもない。
むしろ、深い嫌悪に近い響きだった。
その時、寝台の上でルシェラが小さく動いた。
二人の視線が同時に向く。
ルシェラはまだ目を開けていない。
けれど眠りの底で、何か不穏な気配を感じ取ったみたいに、小さな手をきゅっと握っている。
「……最近、こういうことが増えたわね」
ネメシアが低く言う。
エルシオンも頷いた。
「空気に敏い」
「ええ。子どもだからって、何も分からないわけじゃない」
ネメシアはそう言いながら、ルシェラの手をそっと握った。
すると寝顔が少しだけ和らぐ。
その様子を見て、エルシオンの胸の奥に暗いものが沈んだ。
まだこの子は、世界の均衡を揺るがす存在だとは知らない。
ただ両親の気配が少し張っていること、家の外で何かが変わり始めていることを、眠りの中でぼんやり感じているだけだ。
それが余計に痛かった。
◇ ◇ ◇
天空神殿の最奥。
白き柱と静謐に満ちた高殿で、ヴァルセリオンはひとり立っていた。
その前には、膝をつく密使がいる。
「確かか」
ヴァルセリオンの声は低く、感情をほとんど含まない。
「は。断片的ではありますが、深都エルグラディアの最奥に、異質な幼子が秘匿されているとの情報が」
密使は額を床につけたまま続ける。
「特徴は、白に近い髪、金と赤の瞳」
その報告を聞いても、ヴァルセリオンの表情は動かなかった。
だが沈黙がわずかに深くなる。
「……混じったか」
その呟きは、嫌悪ではなく確認に近かった。
密使は答えない。
答える資格もない。
ヴァルセリオンは高殿の先、雲海の彼方を見つめた。
光と闇。
天使と悪魔。
本来交わるべきでないものが交わり、その果てに生まれた命。
それは単なる不義の証ではない。
秩序そのものを揺るがす異物だ。
彼の中では、すでに結論に近いものが生まれていた。
この世界は、境界によって保たれている。
光は光として、闇は闇として、分かれているからこそ均衡がある。
そこへ混ざり合う存在が生まれれば、やがて境界そのものが曖昧になる。
曖昧さは混乱を生み、混乱は争いよりも大きな破滅を呼ぶ。
少なくとも、ヴァルセリオンはそう信じていた。
「エルシオン……」
息子の名が、静かな高殿に落ちる。
あの揺らぎは、やはりここへ繋がっていたのか。
敵の王と交わり、その果てに禁忌の子を成した。
もはや情ではなく、秩序の問題だった。
ヴァルセリオンは密使へ視線を落とす。
「引き続き探れ」
「表へ出すな。まだ」
「はっ」
密使が去ったあとも、ヴァルセリオンはしばらく動かなかった。
その沈黙の中にあるのは、祖父としての情ではない。
世界を守る者だと自負する者の、冷えた決意だった。
一方その頃。
深都エルグラディアの地下に近い一室で、銀髪の男が静かに笑っていた。
アルヴァディウス。
燭台の火が、彼の長い銀髪と整いすぎた横顔を妖しく照らしている。
机の上には開封された報告書がいくつも並び、その一つに彼の指先が止まっていた。
「ネメシア」
その名を呼ぶ声は、恋慕のようでもあり、呪詛のようでもあった。
彼は報告書を閉じ、目を伏せる。
ネメシアが誰を選んだのか。
どんな子が生まれたのか。
その断片だけでも、彼には十分すぎた。
胸の奥で、古い執着が黒く泡立つ。
本来なら、自分の隣にいるべきだった女。
悪魔族の王として、共に立つはずだった存在。
それを奪ったのが白翼の男だという事実が、彼の理性を静かに削る。
「ずいぶん、楽しそうじゃないか」
笑みは柔らかい。
だが目だけが冷えきっている。
アルヴァディウスの“愛”は、相手の自由を祝福するものではない。
欲したものが自分の手を離れることを許さない。
届かぬなら壊してしまいたいと願う種類のものだった。
そしてそこに、子までいる。
ネメシアとエルシオンのあいだに生まれた、小さな証。
もう歩き、話し、笑う年頃にまでなっていると知った時、アルヴァディウスの中の憎悪はさらに濃くなった。
それは彼にとって、嫉妬の対象である以上に、消すべき侮辱だった。
「……いいだろう」
アルヴァディウスは静かに立ち上がる。
「なら、見せてやる」
「誰の手も汚さずに幸せでいられるほど、この世界は甘くないと」
その声音には、怒りよりも確信があった。
すでに彼の中では、壊すことが決まっている。
◇ ◇ ◇
ネメシアはルシェラの寝台のそばに座り、エルシオンは窓辺に立っていた。
どちらも言葉は少ない。
だが同じことを考えているのが分かる。
「隠しきれなかったわね」
ネメシアがぽつりと言う。
エルシオンは窓の外を見たまま答える。
「最初から、いつかは知られると思っていた」
「思っていたけど、思っていたより早かった」
「……ああ」
ルシェラが小さく寝返りを打つ。
その音だけで、二人とも自然にそちらを見る。
エルシオンが静かに言う。
「守る」
ネメシアはその言葉を聞いて、少しだけ目を閉じる。
「ええ」
「何が来ても」
「ええ」
短い返事。
だがそれは、もう何度も交わしてきた誓いの再確認だった。
それでも、今夜はどこか違う。
今までは“いつか来るかもしれない破滅”だった。
だが今は違う。
見えない刃は、もう抜かれている。
まだ喉元には届いていないだけで、確実にこちらへ向けられている。
ネメシアは眠るルシェラの額に触れる。
あどけない顔。
少し前まで起きていれば、他愛ないことを喋っていたはずの口元。
こんな子が、光の国にも闇の国にも脅威と見なされるのかと思うと、胸の奥に暗い怒りが灯る。
エルシオンもまた、寝台のそばまで戻ってきた。
「幸せは、長く隠しておけるものじゃないな」
その言葉は独り言のようだった。
ネメシアはかすかに笑う。
悲しい笑みだった。
「だから人は、失う前に必死で抱きしめるのかもしれないわね」
エルシオンは答えず、ただルシェラを見つめた。
この子は、自分が世界の均衡を揺らす存在だとは知らない。
ただ両親のそばがあたたかいと知っていて、時々少し不安そうに眠るだけだ。
その無垢さが、ひどく痛かった。
外では風が吹いている。
谷を渡る夜風は冷たく、灯りをわずかに揺らした。
深都エルグラディアでは今も、人々が眠りにつき、誰かが家族を抱き、誰かが明日の準備をしている。
天空神殿では、白き秩序の中でひとつの決意が静かに固まり始めている。
そして闇の奥では、銀髪の執着がゆっくりと牙を研いでいる。
まだ誰も、刃そのものは見ていない。
けれど確かに、もう始まっていた。
幸せが長くは続かないという気配だけが、静かに、確実に、家の輪郭へ入り込み始めていた。
そしてその夜。
眠るルシェラの小さな手が、まるで悪い夢でも見たように一度だけ震えた。




