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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第4章『ルシェラ過去編』

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『訪問者セリウス』


深都エルグラディアへ向かう谷道は、静かだった。


切り立った岩壁のあいだを縫うように続く細道。

崖下では細い水脈がかすかに光を返し、遠く、谷の奥には黒曜石と赤銅で築かれた都の輪郭が見える。

険しい土地だ。だが荒れ果ててはいない。

踏み固められた道には荷車の跡があり、途中には小さな休息所まで設けられている。


その道を、ひとりの男が歩いていた。


セリウス。


この時代の調停者だった。


どの種族にも属すことなく、世界そのものが壊れずに済む道を探すため、多くを見て、多くを失い、それでもまだ見限りきれずにいる男だった。


彼が深都エルグラディアへ来た理由は、興味本位ではない。


悪魔族の国。

その王ネメシア。

前線での戦い方。

民からの異様な信頼。


最近耳に入るいくつもの話が、本当に事実なら自分の目で見定めたくなった。


調停者として最も重要なのは、力の大きさだけではない。

王が、何を守ろうとしているのか。

その国が、何によって立っているのか。

そこを見誤れば、調停という言葉はただの飾りになる。


だからセリウスは、自分の目で見に来た。


やがて谷がひらけ、深都エルグラディアの外縁が姿を見せる。


高く積まれた城壁。

層を成す街路。

谷の壁面に沿って灯る無数の明かり。

外から見れば、いかにも悪魔族の都らしい重く暗い威容だった。


だが城門をくぐった瞬間、セリウスは小さく目を細めた。


予想と、実際は違った。


市場がある。

香草を売る露店がある。

鍛冶場から槌の音が響き、子どもたちが石段を駆け下り、母親に呼び戻されている。

荷を運ぶ兵もいれば、老人を支える若者もいる。

家々の前には洗われた布が干され、湯気の立つ鍋の匂いが風に混じっていた。


――普通だ。


それが最初の感想だった。


悪魔族の都だからといって、狂気と暴力だけが満ちているわけではない。

ここにも食卓があり、親子がいて、明日を前提に暮らしている者たちがいる。


それだけで、セリウスの胸には小さな安堵が生まれていた。


市場の端で、彼は果実を並べる女に声をかけた。


「旅人でも買い物はできるか」


女はちらりとセリウスを見た。

外套の下に剣があることも、旅の埃をかぶっていることもすぐ見抜いただろう。

だが敵意を見せることはなく、淡々と答えた。


「金を払うならね」


セリウスは干し果実をひと袋買い、礼代わりに問いを重ねる。


「都は思っていたより穏やかだ」


女は鼻で少し笑った。


「戦の真ん中で、都まで毎日修羅場にしてたら暮らせないよ」


「それもそうだな」


「兵は外で戦う。中にいるのは、生きるために残ってる者たちだ」


その言葉はあまりにも自然で、だからこそ重かった。


セリウスは周囲をもう一度見回す。


悪魔族にも生活がある。

そんな当たり前のことが、戦の外に立たなければ見えなくなる。

その事実を、改めて噛みしめる。


少し歩いた先では、小さな子どもが転んで泣いていた。

近くの兵がしゃがみ込み、砂を払ってやる。

別の場所では、薬師らしい女が年老いた男の腕を見ていた。


都は都として、ちゃんと機能している。


セリウスは心の中でひとつ頷いた。


――来た意味はあった。


その後、彼は王への謁見を求めた。


「調停者セリウス」


その名を告げると、門衛たちの空気が変わる。

無名の旅人としては通れない。


緊張を含みながらも、伝令が走った。


しばらくの後、思いのほか早く返事が戻る。


「通せ」


短い言葉だったらしい。


その速度に、セリウスは少しだけ意外さを覚えた。

慎重すぎる拒絶でもなく、軽率な歓迎でもない。

少なくとも、会って判断する程度の器量はあるらしい。


居館へ通される。


深都の王の住まいとしては、驚くほど質実だった。

重厚ではあるが過剰ではない。

威圧のための飾りより、実用と静けさを優先した空気がある。


案内された部屋で待っていると、やがて扉が開いた。


入ってきたのは、紅い髪の女だった。


ネメシア。


悪魔族の王。


セリウスは一目で理解する。


なるほど、と。


立っているだけで分かる。

この女は、王座に座らされているのではない。

自分の意志で前に立つ者だ。


姿は美しい。

だがそれ以上に、目が強い。

誰かに守られる側の目ではなく、守るものの数を背負っている目だった。


ネメシアもまた、セリウスを観察するように一度見て、それから向かいに立った。


「調停者が、悪魔族の都に何の用かしら」


挨拶はない。

だが無礼でもない。

探り合いとしては、まっすぐだった。


セリウスは率直に答える。


「国を見に来た」


ネメシアの眉がわずかに動く。


「悪魔族の国を?」


「そして、その王を」


短い沈黙が落ちる。


普通なら、挑発と取られてもおかしくない言い方だ。

だがネメシアは怒らなかった。


「見て、どうだった?」


問い返しが早い。

自信というより、覚悟のある者の反応だった。


セリウスは嘘をつかなかった。


「安堵した」


ネメシアは少しだけ目を細める。


「どういう意味で?」


「悪魔族の国も、ちゃんと“暮らしている国”だった」


「戦う者だけじゃなく、食べる者、育つ者、老いる者がいる」


「それを、自分の目で確かめたかった」


ネメシアはしばらく何も言わず、やがて小さく息を吐いた。


「そう」


そのひと言に、長い疲労が滲んでいた。

何度も誤解され、何度も一色に塗られてきた者の声音だった。


「で、王の方は?」


とネメシアが続ける。


セリウスは彼女を見たまま答える。


「まだ見定めている途中だ」


その返しに、ネメシアはわずかに口元を緩めた。


「正直ね」


「取り繕っても仕方ない」


「嫌いじゃないわ」


その空気が少しだけやわらいだ、その時だった。


部屋の奥から、はっきりした幼い声がした。


「おかあさまー?」


セリウスの視線がそちらへ向く。


仕切りの向こうから、小さな足音が近づいてくる。

次の瞬間、柔らかな布を押し分けるようにして現れたのは、五、六歳ほどの少女だった。


セリウスは息を止める。


淡い銀白の髪。

幼いながらも整った顔立ち。

金と赤の瞳。


天使でもない。

悪魔でもない。

そのどちらの気配も宿しながら、どちらにも収まりきらない。


ルシェラだった。


彼女はまずネメシアを見て、それから部屋にいる見慣れぬ男――セリウスを見た。

大きな瞳がじっとこちらを見つめる。

怯えてはいない。

けれど無邪気に近寄るほど無防備でもない。

幼いなりに、相手を見ている目だった。


ネメシアが少しだけ表情をやわらげる。


「ルシェラ、まだ起きていたの」


「ねむれなかった」


そう言ってから、ルシェラはまたセリウスを見る。


「だあれ?」


その問いはあまりにも自然で、部屋の空気を少しだけ柔らかくした。


セリウスは慎重に片膝をつき、目線を合わせた。


「旅の途中で、この国を見に来た者だ」


ルシェラは少し考えるように首を傾げる。


「たびびと?」


「そんなところだ」


「わるいひと?」


その問いに、ネメシアが小さく眉を上げる。

叱るより先に、セリウスが静かに答えた。


「悪くないといいと思っている」


ルシェラはその答えを真剣に聞き、それから少しだけネメシアの衣の裾を握った。

完全には警戒を解いていない。

だが、拒絶もしていない。


セリウスはその様子を見て、胸の奥に静かな衝撃を覚えていた。


こんな命が、本当に存在しうるのか。


その時、もうひとつの足音がした。


扉の前に立っていたのは、白い髪の男だった。


エルシオン。


セリウスはその姿を見て、さらに目を細める。


白翼の面影を持つ男。

だが今ここにいるということ自体が、もう単純な説明を拒んでいる。


エルシオンもまた、室内の様子を見て一瞬だけ足を止める。

見知らぬ男。

その男の前に立つルシェラ。

その構図に警戒したのだろう。


ネメシアが静かに言った。


「セリウス。調停者だそうよ」


それを聞いたエルシオンの表情がわずかに変わる。

ただの来訪者ではないと分かったのだろう。


セリウスは彼を見る。


この男もまた、噂の中にあった存在なのかもしれないと、直感した。

天使族の側に立ちながら、完全にはそこへ収まりきらない者。


エルシオンはネメシアのそばまで来ると、ルシェラの肩にそっと手を置き、それからセリウスへ向き直った。


「何をしに来た」


短い問いだった。


セリウスは少し考え、それから答えた。


「王を見に来た」


「そして、国を見た」


「今は……希望の形を見ている」


エルシオンの眉がわずかに動く。

だがその言葉を否定はしなかった。

むしろ一瞬だけ、ネメシアと視線を交わす。


その短いやりとりだけで、セリウスには十分だった。


ああ、この二人は本気なのだ、と。


打算でも、衝動でもない。

この子を守り、この子が生きられる何かを信じようとしている。

それが伝わってくる。


ルシェラはまだセリウスを見ていた。


やがて小さく一歩だけ前へ出ると、じっとその顔を見上げて言った。


「おめめ、やさしい」


部屋が一瞬静かになる。


セリウスは思わず目を見開き、それからわずかに苦笑した。


「そう見えるか」


ルシェラはこくりと頷く。


その素直さに、ネメシアの表情がかすかにやわらぐ。

エルシオンもまた、警戒を残しながらも完全には拒まなくなっていた。


セリウスは三人を見て、胸の奥で静かに思った。


――もしかしたら。


調停という言葉が、まだ完全に死んだわけではないのかもしれない。


光と闇のどちらかを消すことではなく、そのあいだに新しい道を作る可能性が、こんなに小さく、けれど確かな形で生まれているのなら。


ルシェラは不意に手を伸ばした。

その指先が宙を掴もうとするように揺れる。

幼い子どものなんでもない仕草。

それなのにセリウスには、その小さな動きが未来を探る手のように見えた。


「強い子になりそうだ」


それは占いでも予言でもなく、ただの実感だった。


ネメシアが少しだけ微笑む。


エルシオンは黙ってルシェラを見る。

その横顔には、戦場では見せないやわらかさがあった。


セリウスはそこでようやくはっきり理解する。


悪魔族の国は、普通に暮らしている国だった。

ネメシアは、民を束ねる王の器を持っていた。

エルシオンは、光の側にいながら境界の外へ踏み出した男だった。

そしてこの家族は――危うく、儚く、けれど確かに希望の形をしていた。


だからこそ、同時に不安も生まれる。


こんなものが、いつまでも隠し通せるはずがない。

光も闇も、この異質をいずれ嗅ぎつける。

そして、ただで済ませるはずがない。


セリウスはその予感を胸にしまい込み、静かに言った。


「今日は来てよかった」


ネメシアが問う。


「見たいものは見えた?」


セリウスは頷く。


「ああ。思っていたより、ずっと大切なものが見えた」


その言葉に、ネメシアは何も返さなかった。

だが目を伏せた一瞬の気配で、拒絶はしていないと分かった。


帰り際、セリウスは居館の外で一度だけ振り返る。


深都エルグラディアの灯。

そのどこかにある、あの小さな家族。


彼は誰に聞かせるでもなく、心の中で思った。


どうか、少しでも長く続いてくれ。


その願いは、祝福であると同時に、迫りつつある破滅への予感でもあった。

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