『訪問者セリウス』
深都エルグラディアへ向かう谷道は、静かだった。
切り立った岩壁のあいだを縫うように続く細道。
崖下では細い水脈がかすかに光を返し、遠く、谷の奥には黒曜石と赤銅で築かれた都の輪郭が見える。
険しい土地だ。だが荒れ果ててはいない。
踏み固められた道には荷車の跡があり、途中には小さな休息所まで設けられている。
その道を、ひとりの男が歩いていた。
セリウス。
この時代の調停者だった。
どの種族にも属すことなく、世界そのものが壊れずに済む道を探すため、多くを見て、多くを失い、それでもまだ見限りきれずにいる男だった。
彼が深都エルグラディアへ来た理由は、興味本位ではない。
悪魔族の国。
その王ネメシア。
前線での戦い方。
民からの異様な信頼。
最近耳に入るいくつもの話が、本当に事実なら自分の目で見定めたくなった。
調停者として最も重要なのは、力の大きさだけではない。
王が、何を守ろうとしているのか。
その国が、何によって立っているのか。
そこを見誤れば、調停という言葉はただの飾りになる。
だからセリウスは、自分の目で見に来た。
やがて谷がひらけ、深都エルグラディアの外縁が姿を見せる。
高く積まれた城壁。
層を成す街路。
谷の壁面に沿って灯る無数の明かり。
外から見れば、いかにも悪魔族の都らしい重く暗い威容だった。
だが城門をくぐった瞬間、セリウスは小さく目を細めた。
予想と、実際は違った。
市場がある。
香草を売る露店がある。
鍛冶場から槌の音が響き、子どもたちが石段を駆け下り、母親に呼び戻されている。
荷を運ぶ兵もいれば、老人を支える若者もいる。
家々の前には洗われた布が干され、湯気の立つ鍋の匂いが風に混じっていた。
――普通だ。
それが最初の感想だった。
悪魔族の都だからといって、狂気と暴力だけが満ちているわけではない。
ここにも食卓があり、親子がいて、明日を前提に暮らしている者たちがいる。
それだけで、セリウスの胸には小さな安堵が生まれていた。
市場の端で、彼は果実を並べる女に声をかけた。
「旅人でも買い物はできるか」
女はちらりとセリウスを見た。
外套の下に剣があることも、旅の埃をかぶっていることもすぐ見抜いただろう。
だが敵意を見せることはなく、淡々と答えた。
「金を払うならね」
セリウスは干し果実をひと袋買い、礼代わりに問いを重ねる。
「都は思っていたより穏やかだ」
女は鼻で少し笑った。
「戦の真ん中で、都まで毎日修羅場にしてたら暮らせないよ」
「それもそうだな」
「兵は外で戦う。中にいるのは、生きるために残ってる者たちだ」
その言葉はあまりにも自然で、だからこそ重かった。
セリウスは周囲をもう一度見回す。
悪魔族にも生活がある。
そんな当たり前のことが、戦の外に立たなければ見えなくなる。
その事実を、改めて噛みしめる。
少し歩いた先では、小さな子どもが転んで泣いていた。
近くの兵がしゃがみ込み、砂を払ってやる。
別の場所では、薬師らしい女が年老いた男の腕を見ていた。
都は都として、ちゃんと機能している。
セリウスは心の中でひとつ頷いた。
――来た意味はあった。
その後、彼は王への謁見を求めた。
「調停者セリウス」
その名を告げると、門衛たちの空気が変わる。
無名の旅人としては通れない。
緊張を含みながらも、伝令が走った。
しばらくの後、思いのほか早く返事が戻る。
「通せ」
短い言葉だったらしい。
その速度に、セリウスは少しだけ意外さを覚えた。
慎重すぎる拒絶でもなく、軽率な歓迎でもない。
少なくとも、会って判断する程度の器量はあるらしい。
居館へ通される。
深都の王の住まいとしては、驚くほど質実だった。
重厚ではあるが過剰ではない。
威圧のための飾りより、実用と静けさを優先した空気がある。
案内された部屋で待っていると、やがて扉が開いた。
入ってきたのは、紅い髪の女だった。
ネメシア。
悪魔族の王。
セリウスは一目で理解する。
なるほど、と。
立っているだけで分かる。
この女は、王座に座らされているのではない。
自分の意志で前に立つ者だ。
姿は美しい。
だがそれ以上に、目が強い。
誰かに守られる側の目ではなく、守るものの数を背負っている目だった。
ネメシアもまた、セリウスを観察するように一度見て、それから向かいに立った。
「調停者が、悪魔族の都に何の用かしら」
挨拶はない。
だが無礼でもない。
探り合いとしては、まっすぐだった。
セリウスは率直に答える。
「国を見に来た」
ネメシアの眉がわずかに動く。
「悪魔族の国を?」
「そして、その王を」
短い沈黙が落ちる。
普通なら、挑発と取られてもおかしくない言い方だ。
だがネメシアは怒らなかった。
「見て、どうだった?」
問い返しが早い。
自信というより、覚悟のある者の反応だった。
セリウスは嘘をつかなかった。
「安堵した」
ネメシアは少しだけ目を細める。
「どういう意味で?」
「悪魔族の国も、ちゃんと“暮らしている国”だった」
「戦う者だけじゃなく、食べる者、育つ者、老いる者がいる」
「それを、自分の目で確かめたかった」
ネメシアはしばらく何も言わず、やがて小さく息を吐いた。
「そう」
そのひと言に、長い疲労が滲んでいた。
何度も誤解され、何度も一色に塗られてきた者の声音だった。
「で、王の方は?」
とネメシアが続ける。
セリウスは彼女を見たまま答える。
「まだ見定めている途中だ」
その返しに、ネメシアはわずかに口元を緩めた。
「正直ね」
「取り繕っても仕方ない」
「嫌いじゃないわ」
その空気が少しだけやわらいだ、その時だった。
部屋の奥から、はっきりした幼い声がした。
「おかあさまー?」
セリウスの視線がそちらへ向く。
仕切りの向こうから、小さな足音が近づいてくる。
次の瞬間、柔らかな布を押し分けるようにして現れたのは、五、六歳ほどの少女だった。
セリウスは息を止める。
淡い銀白の髪。
幼いながらも整った顔立ち。
金と赤の瞳。
天使でもない。
悪魔でもない。
そのどちらの気配も宿しながら、どちらにも収まりきらない。
ルシェラだった。
彼女はまずネメシアを見て、それから部屋にいる見慣れぬ男――セリウスを見た。
大きな瞳がじっとこちらを見つめる。
怯えてはいない。
けれど無邪気に近寄るほど無防備でもない。
幼いなりに、相手を見ている目だった。
ネメシアが少しだけ表情をやわらげる。
「ルシェラ、まだ起きていたの」
「ねむれなかった」
そう言ってから、ルシェラはまたセリウスを見る。
「だあれ?」
その問いはあまりにも自然で、部屋の空気を少しだけ柔らかくした。
セリウスは慎重に片膝をつき、目線を合わせた。
「旅の途中で、この国を見に来た者だ」
ルシェラは少し考えるように首を傾げる。
「たびびと?」
「そんなところだ」
「わるいひと?」
その問いに、ネメシアが小さく眉を上げる。
叱るより先に、セリウスが静かに答えた。
「悪くないといいと思っている」
ルシェラはその答えを真剣に聞き、それから少しだけネメシアの衣の裾を握った。
完全には警戒を解いていない。
だが、拒絶もしていない。
セリウスはその様子を見て、胸の奥に静かな衝撃を覚えていた。
こんな命が、本当に存在しうるのか。
その時、もうひとつの足音がした。
扉の前に立っていたのは、白い髪の男だった。
エルシオン。
セリウスはその姿を見て、さらに目を細める。
白翼の面影を持つ男。
だが今ここにいるということ自体が、もう単純な説明を拒んでいる。
エルシオンもまた、室内の様子を見て一瞬だけ足を止める。
見知らぬ男。
その男の前に立つルシェラ。
その構図に警戒したのだろう。
ネメシアが静かに言った。
「セリウス。調停者だそうよ」
それを聞いたエルシオンの表情がわずかに変わる。
ただの来訪者ではないと分かったのだろう。
セリウスは彼を見る。
この男もまた、噂の中にあった存在なのかもしれないと、直感した。
天使族の側に立ちながら、完全にはそこへ収まりきらない者。
エルシオンはネメシアのそばまで来ると、ルシェラの肩にそっと手を置き、それからセリウスへ向き直った。
「何をしに来た」
短い問いだった。
セリウスは少し考え、それから答えた。
「王を見に来た」
「そして、国を見た」
「今は……希望の形を見ている」
エルシオンの眉がわずかに動く。
だがその言葉を否定はしなかった。
むしろ一瞬だけ、ネメシアと視線を交わす。
その短いやりとりだけで、セリウスには十分だった。
ああ、この二人は本気なのだ、と。
打算でも、衝動でもない。
この子を守り、この子が生きられる何かを信じようとしている。
それが伝わってくる。
ルシェラはまだセリウスを見ていた。
やがて小さく一歩だけ前へ出ると、じっとその顔を見上げて言った。
「おめめ、やさしい」
部屋が一瞬静かになる。
セリウスは思わず目を見開き、それからわずかに苦笑した。
「そう見えるか」
ルシェラはこくりと頷く。
その素直さに、ネメシアの表情がかすかにやわらぐ。
エルシオンもまた、警戒を残しながらも完全には拒まなくなっていた。
セリウスは三人を見て、胸の奥で静かに思った。
――もしかしたら。
調停という言葉が、まだ完全に死んだわけではないのかもしれない。
光と闇のどちらかを消すことではなく、そのあいだに新しい道を作る可能性が、こんなに小さく、けれど確かな形で生まれているのなら。
ルシェラは不意に手を伸ばした。
その指先が宙を掴もうとするように揺れる。
幼い子どものなんでもない仕草。
それなのにセリウスには、その小さな動きが未来を探る手のように見えた。
「強い子になりそうだ」
それは占いでも予言でもなく、ただの実感だった。
ネメシアが少しだけ微笑む。
エルシオンは黙ってルシェラを見る。
その横顔には、戦場では見せないやわらかさがあった。
セリウスはそこでようやくはっきり理解する。
悪魔族の国は、普通に暮らしている国だった。
ネメシアは、民を束ねる王の器を持っていた。
エルシオンは、光の側にいながら境界の外へ踏み出した男だった。
そしてこの家族は――危うく、儚く、けれど確かに希望の形をしていた。
だからこそ、同時に不安も生まれる。
こんなものが、いつまでも隠し通せるはずがない。
光も闇も、この異質をいずれ嗅ぎつける。
そして、ただで済ませるはずがない。
セリウスはその予感を胸にしまい込み、静かに言った。
「今日は来てよかった」
ネメシアが問う。
「見たいものは見えた?」
セリウスは頷く。
「ああ。思っていたより、ずっと大切なものが見えた」
その言葉に、ネメシアは何も返さなかった。
だが目を伏せた一瞬の気配で、拒絶はしていないと分かった。
帰り際、セリウスは居館の外で一度だけ振り返る。
深都エルグラディアの灯。
そのどこかにある、あの小さな家族。
彼は誰に聞かせるでもなく、心の中で思った。
どうか、少しでも長く続いてくれ。
その願いは、祝福であると同時に、迫りつつある破滅への予感でもあった。




