『幸せな家』
朝の光は、深都エルグラディアでは貴重だった。
天空の国のように大空から惜しみなく降り注ぐわけではない。
谷の上から差し込む光は細く、時間も短い。
それでも朝のある刻になると、都の高所に築かれた居館の窓辺には、やわらかな金色が静かに滑り込んでくる。
薄い光が部屋の床を這い、黒曜石の壁に淡く反射している。
静かな寝息。
小さな衣擦れ。
外では都の目覚めを告げる遠い鐘がひとつだけ鳴っていた。
だが、その部屋の中では、すでにもっと大きな“朝”が始まっていた。
「……うぅ」
小さな声がした。
寝台の中央で布にくるまれていたルシェラが、眠りの浅い水面から浮かび上がるように身じろぎしたのだ。
まだ幼いその体は、あまりに小さい。
銀とも白ともつかない髪が、ふわりと頬へ落ちる。
ルシェラは目を開ける前に、先に口をむずむずと動かした。
何かを探しているような、小さな仕草だった。
そのすぐ隣で、ネメシアが薄く目を開ける。
戦場では誰より早く気配を拾う王も、ここではまず娘の寝息で目を覚ます母だった。
「……起きたの」
まだ少し眠たげな声でそう言って、ネメシアは身を起こした。
いつものように髪を整える間もなく、肩へ流れた紅い髪を片手で払い、そっとルシェラを抱き上げる。
ルシェラは母の腕に収まると、安心したように小さく息を吐いた。
そして次の瞬間、目を開ける。
天使族の澄んだ金、悪魔族の燃えるような赤。
どちらにも似ていて、どちらにも収まりきらない目。
その目が、まっすぐネメシアを映す。
「……んぁ」
「おはよう、ルシェラ」
ネメシアがそう囁くと、ルシェラは何か分かったような顔で、ぱたぱたと翼を揺らした。
その動きは機嫌の良さを全身で表しているようだった。
そこで寝台の反対側から、低い声が聞こえる。
「朝から俺の場所がないな」
エルシオンだった。
寝起きだというのに、妙に真面目な顔をしている。
白い髪は少しだけ乱れ、いつもなら整っているはずの襟元も崩れていた。
そんな姿で、どこか拗ねたような口調をしているのが、ネメシアには少しおかしい。
「何よ、その言い方」
「明らかに今、お前の方しか見ていない」
「当たり前でしょう。起きたばかりなんだから」
「父親も起きているが」
「あなたは勝手に起きてればいいのよ」
ネメシアがそう返すと、エルシオンは小さく息を吐いて手を伸ばした。
「ルシェラ」
その声色だけは、戦場でも天使族の都でも見せないくらい柔らかかった。
ルシェラはその声に反応して顔を向ける。
一拍遅れて、ぱっと目を丸くし、それから手を伸ばした。
「あぅ」
「……ほらな」
エルシオンが少しだけ勝ち誇ったように言う。
ネメシアは呆れ半分で娘を父の腕へ渡した。
エルシオンが抱き上げると、ルシェラは途端に機嫌よく足をパタパタと動かし始める。
どうやら気分によって反応が露骨に変わるらしい。
「ずるいわね」
ネメシアが言うと、エルシオンは娘を抱いたまま目を細めた。
「何がだ」
「その顔。戦場の将がする顔じゃない」
「父親だからな」
「知ってるけど」
知っている。
そしてそれが、ネメシアには時々信じられないほど愛おしかった。
エルシオンはルシェラを抱きながら窓辺へ歩く。
差し込む朝の細い光が、娘の銀髪をやわらかく照らした。
ルシェラはその光に興味を持ったのか、小さな手を伸ばして掴もうとする。
当然掴めるはずもない。
けれど本人は真剣だった。
「……見てる」
エルシオンがぽつりと言う。
「何を?」
「光を」
ネメシアも寝台から下り、父娘の隣へ立った。
ルシェラの指先は空を掴むように開いたり閉じたりしている。
光に触れたいのか、光そのものと遊んでいるつもりなのか、まだ分からない。
だがその仕草は、ひどく無垢だった。
「この子、光が好きなのかもしれないわね」
ネメシアがそう言うと、エルシオンは少し考えるように目を細めた。
「あるいは、お前に似て好奇心が強いのかもしれない」
「それ、褒めてる?」
「半分は」
「残り半分は何よ」
「手がかかるという意味だ」
「失礼ね」
そんなやりとりの最中、ルシェラは唐突に小さく笑った。
声になりきらない、息のような笑い。
だがそれだけで、二人の会話が止まる。
ネメシアとエルシオンは同時に娘を見る。
ルシェラは嬉しそうに、父の指を小さな手で掴んでいた。
「……今、笑った?」
ネメシアが低く言う。
「笑ったな」
「今の見た?」
「見た」
「もう一回」
「無茶を言うな」
だがルシェラは二人の視線を浴びていることが分かるのか、ますます楽しそうに足を揺らした。
ネメシアは思わず吹き出す。
「だめ、かわいい」
「知ってる」
「今のは反則よ」
「それも知ってる」
エルシオンの返答は冷静ぶっていたが、その口元も明らかに緩んでいた。
朝食の時間になると、居館の空気はさらに生活の色を帯びた。
ネメシアは族長としての公務があるため、本来なら朝から報告を受けなければならない。
だがルシェラが生まれてからしばらくの間だけは、最初の時間を家庭に残すよう周囲に命じていた。
王である前に母でありたい。
それは、ネメシアが決して口にしない我儘だった。
卓には温かなスープと焼いた穀物パン、それに果実を煮た小鉢。
深都エルグラディアらしい素朴な朝食だ。
その横で、ルシェラは小さな揺り籠の中にいる。
だが寝ているわけではない。
父と母が食事を始めると、なぜか自分も参加しているつもりになるらしく、じっと二人を見つめていた。
「見てるわよ」
ネメシアが言う。
「監視だな」
エルシオンが返す。
「あなた、変なこと教えないで」
「事実だ」
ルシェラは二人の声に反応して、きゃ、と短く声を上げた。
それがまた可笑しくて、ネメシアはスプーンを置いて揺り籠へ身を寄せる。
「何? あなたもお話に入りたいの?」
ルシェラは答えるように手足をばたつかせる。
エルシオンが真面目な顔で言う。
「間違いない。お前に似て話したがりだ」
「今はまだ喋ってないでしょう」
「そのうちお前より喋るようになるかもしれない」
「それは困るわね」
「困るのか」
「収拾がつかなくなるもの」
そのやりとりに、ルシェラはまた声を上げた。
まるで自分のことだと分かっているみたいだった。
食後、エルシオンはルシェラを抱いて部屋の中をゆっくり歩いた。
もともと彼は子どもの扱いに慣れていたわけではない。
むしろ最初は、抱き上げることひとつにも異様に慎重だった。
落とすのではないか。痛くするのではないか。
そんな恐れが手つきに出ていた。
だが今は違う。
まだぎこちなさは少し残る。
けれどそれ以上に、抱き方そのものが優しい。
ルシェラもそれを分かっているのか、父の腕の中ではよく眠った。
時々目を覚ましても、白い髪を見つけると安心したようにまた目を閉じる。
ネメシアはその様子を、書類を開いたふりをしながら何度も見ていた。
「そんなに見なくても落とさない」
エルシオンが言う。
「見てないわよ」
「嘘だな」
「……見てるけど」
エルシオンは苦笑した。
「心配か」
「少しはね」
ネメシアは素直に認める。
「この子、小さいから」
「分かってる」
「あなた、戦場では大胆なくせに、ルシェラ相手だと妙に慎重になるし」
「当然だろう」
その答えに、ネメシアは少しだけ目を細める。
「どうして」
エルシオンはルシェラを見下ろした。
小さな寝顔。
かすかに開いた唇。
「壊したくないからだ」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。
ネメシアは何も返せない。
代わりに胸の奥が、静かに熱くなる。
この男は本当に変わった。
いや、変わったというより、もともと持っていたものが、ルシェラの前では隠れずに出ているのかもしれない。
戦場で剣を振るう顔。
後継として背負う顔。
そして今、娘を抱く父の顔。
その全部がエルシオンで、ネメシアはそのどれもを知ってしまった。
昼が近づく頃、公務のためネメシアは一度部屋を離れなければならなかった。
扉の前で振り返ると、エルシオンは窓辺でルシェラを抱いている。
光の少ない深都の中で、そこだけが妙にあたたかく見えた。
ルシェラは父の胸元を掴みながら、何かを見上げて小さく声を上げている。
エルシオンはそのたびに、真剣な顔で頷いていた。
「何を話してるの」
ネメシアが聞くと、エルシオンは少し間を置いて答える。
「内緒だ」
「私にも?」
「父と娘の大事な会話だ」
「生意気」
ネメシアはそう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
ルシェラが生まれてから、この家には明らかに変わったものがある。
朝が待ち遠しくなった。
帰る理由が増えた。
戦場の外に、自分たちだけの時間ができた。
それはあまりにささやかで、だからこそ尊かった。
ネメシアはふと立ち止まり、二人を見つめる。
もし願えるなら。
この時間がずっと続けばいいと思った。
戦のない朝。
泣き声で始まる目覚め。
たわいもない口喧嘩。
窓辺の光を掴もうとする小さな手。
そんなものが、本当は世界でいちばん守るべきものなのではないかと、心のどこかで思ってしまう。
エルシオンもまた、ネメシアの視線に気づいて顔を上げた。
短い沈黙。
その間に、言葉にしなくても互いに同じことを思っているのだと分かる。
この幸せは、あまりにも柔らかい。
壊れやすい。
だからこそ、守りたい。
ネメシアは何も言わず、ただ静かに部屋を出た。
その背に、ルシェラの小さな笑い声が追いかけてくる。
エルシオンはその声を聞きながら、娘の額にそっと口づけた。
「お前が生きられる世界にする」
囁くような約束だった。
ルシェラは意味など分からないだろう。
それでも父の声が心地いいのか、目を細めてまた小さく笑う。
その笑顔は、未来の形のように見えた。
まだ何も知らない、小さな光。
天使と悪魔のあいだに生まれた、壊れそうで、けれど確かにあたたかな光。
その光を囲むこの家は、たしかに幸福だった。
だからこそ――
長くは続かないのだと、まだ誰も知らないまま。




