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レベル1の冒険者が世界の調停者になる  作者: pacifian
第4章『ルシェラ過去編』

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『幸せな家』


朝の光は、深都エルグラディアでは貴重だった。


天空の国のように大空から惜しみなく降り注ぐわけではない。

谷の上から差し込む光は細く、時間も短い。

それでも朝のある刻になると、都の高所に築かれた居館の窓辺には、やわらかな金色が静かに滑り込んでくる。


薄い光が部屋の床を這い、黒曜石の壁に淡く反射している。

静かな寝息。

小さな衣擦れ。

外では都の目覚めを告げる遠い鐘がひとつだけ鳴っていた。


だが、その部屋の中では、すでにもっと大きな“朝”が始まっていた。


「……うぅ」


小さな声がした。


寝台の中央で布にくるまれていたルシェラが、眠りの浅い水面から浮かび上がるように身じろぎしたのだ。

まだ幼いその体は、あまりに小さい。


銀とも白ともつかない髪が、ふわりと頬へ落ちる。


ルシェラは目を開ける前に、先に口をむずむずと動かした。

何かを探しているような、小さな仕草だった。


そのすぐ隣で、ネメシアが薄く目を開ける。


戦場では誰より早く気配を拾う王も、ここではまず娘の寝息で目を覚ます母だった。


「……起きたの」


まだ少し眠たげな声でそう言って、ネメシアは身を起こした。

いつものように髪を整える間もなく、肩へ流れた紅い髪を片手で払い、そっとルシェラを抱き上げる。


ルシェラは母の腕に収まると、安心したように小さく息を吐いた。

そして次の瞬間、目を開ける。



天使族の澄んだ金、悪魔族の燃えるような赤。

どちらにも似ていて、どちらにも収まりきらない目。


その目が、まっすぐネメシアを映す。


「……んぁ」


「おはよう、ルシェラ」


ネメシアがそう囁くと、ルシェラは何か分かったような顔で、ぱたぱたと翼を揺らした。

その動きは機嫌の良さを全身で表しているようだった。


そこで寝台の反対側から、低い声が聞こえる。


「朝から俺の場所がないな」


エルシオンだった。


寝起きだというのに、妙に真面目な顔をしている。

白い髪は少しだけ乱れ、いつもなら整っているはずの襟元も崩れていた。

そんな姿で、どこか拗ねたような口調をしているのが、ネメシアには少しおかしい。


「何よ、その言い方」


「明らかに今、お前の方しか見ていない」


「当たり前でしょう。起きたばかりなんだから」


「父親も起きているが」


「あなたは勝手に起きてればいいのよ」


ネメシアがそう返すと、エルシオンは小さく息を吐いて手を伸ばした。


「ルシェラ」


その声色だけは、戦場でも天使族の都でも見せないくらい柔らかかった。


ルシェラはその声に反応して顔を向ける。

一拍遅れて、ぱっと目を丸くし、それから手を伸ばした。


「あぅ」


「……ほらな」


エルシオンが少しだけ勝ち誇ったように言う。


ネメシアは呆れ半分で娘を父の腕へ渡した。


エルシオンが抱き上げると、ルシェラは途端に機嫌よく足をパタパタと動かし始める。

どうやら気分によって反応が露骨に変わるらしい。


「ずるいわね」


ネメシアが言うと、エルシオンは娘を抱いたまま目を細めた。


「何がだ」


「その顔。戦場の将がする顔じゃない」


「父親だからな」


「知ってるけど」


知っている。

そしてそれが、ネメシアには時々信じられないほど愛おしかった。


エルシオンはルシェラを抱きながら窓辺へ歩く。

差し込む朝の細い光が、娘の銀髪をやわらかく照らした。


ルシェラはその光に興味を持ったのか、小さな手を伸ばして掴もうとする。

当然掴めるはずもない。

けれど本人は真剣だった。


「……見てる」


エルシオンがぽつりと言う。


「何を?」


「光を」


ネメシアも寝台から下り、父娘の隣へ立った。


ルシェラの指先は空を掴むように開いたり閉じたりしている。

光に触れたいのか、光そのものと遊んでいるつもりなのか、まだ分からない。

だがその仕草は、ひどく無垢だった。


「この子、光が好きなのかもしれないわね」


ネメシアがそう言うと、エルシオンは少し考えるように目を細めた。


「あるいは、お前に似て好奇心が強いのかもしれない」


「それ、褒めてる?」


「半分は」


「残り半分は何よ」


「手がかかるという意味だ」


「失礼ね」


そんなやりとりの最中、ルシェラは唐突に小さく笑った。


声になりきらない、息のような笑い。

だがそれだけで、二人の会話が止まる。


ネメシアとエルシオンは同時に娘を見る。


ルシェラは嬉しそうに、父の指を小さな手で掴んでいた。


「……今、笑った?」


ネメシアが低く言う。


「笑ったな」


「今の見た?」


「見た」


「もう一回」


「無茶を言うな」


だがルシェラは二人の視線を浴びていることが分かるのか、ますます楽しそうに足を揺らした。


ネメシアは思わず吹き出す。


「だめ、かわいい」


「知ってる」


「今のは反則よ」


「それも知ってる」


エルシオンの返答は冷静ぶっていたが、その口元も明らかに緩んでいた。


朝食の時間になると、居館の空気はさらに生活の色を帯びた。


ネメシアは族長としての公務があるため、本来なら朝から報告を受けなければならない。

だがルシェラが生まれてからしばらくの間だけは、最初の時間を家庭に残すよう周囲に命じていた。


王である前に母でありたい。

それは、ネメシアが決して口にしない我儘だった。


卓には温かなスープと焼いた穀物パン、それに果実を煮た小鉢。

深都エルグラディアらしい素朴な朝食だ。


その横で、ルシェラは小さな揺り籠の中にいる。

だが寝ているわけではない。

父と母が食事を始めると、なぜか自分も参加しているつもりになるらしく、じっと二人を見つめていた。


「見てるわよ」


ネメシアが言う。


「監視だな」


エルシオンが返す。


「あなた、変なこと教えないで」


「事実だ」


ルシェラは二人の声に反応して、きゃ、と短く声を上げた。

それがまた可笑しくて、ネメシアはスプーンを置いて揺り籠へ身を寄せる。


「何? あなたもお話に入りたいの?」


ルシェラは答えるように手足をばたつかせる。


エルシオンが真面目な顔で言う。


「間違いない。お前に似て話したがりだ」


「今はまだ喋ってないでしょう」


「そのうちお前より喋るようになるかもしれない」


「それは困るわね」


「困るのか」


「収拾がつかなくなるもの」


そのやりとりに、ルシェラはまた声を上げた。

まるで自分のことだと分かっているみたいだった。


食後、エルシオンはルシェラを抱いて部屋の中をゆっくり歩いた。


もともと彼は子どもの扱いに慣れていたわけではない。

むしろ最初は、抱き上げることひとつにも異様に慎重だった。

落とすのではないか。痛くするのではないか。

そんな恐れが手つきに出ていた。


だが今は違う。


まだぎこちなさは少し残る。

けれどそれ以上に、抱き方そのものが優しい。


ルシェラもそれを分かっているのか、父の腕の中ではよく眠った。

時々目を覚ましても、白い髪を見つけると安心したようにまた目を閉じる。


ネメシアはその様子を、書類を開いたふりをしながら何度も見ていた。


「そんなに見なくても落とさない」


エルシオンが言う。


「見てないわよ」


「嘘だな」


「……見てるけど」


エルシオンは苦笑した。


「心配か」


「少しはね」


ネメシアは素直に認める。


「この子、小さいから」


「分かってる」


「あなた、戦場では大胆なくせに、ルシェラ相手だと妙に慎重になるし」


「当然だろう」


その答えに、ネメシアは少しだけ目を細める。


「どうして」


エルシオンはルシェラを見下ろした。


小さな寝顔。

かすかに開いた唇。


「壊したくないからだ」


その言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。


ネメシアは何も返せない。

代わりに胸の奥が、静かに熱くなる。


この男は本当に変わった。

いや、変わったというより、もともと持っていたものが、ルシェラの前では隠れずに出ているのかもしれない。


戦場で剣を振るう顔。

後継として背負う顔。

そして今、娘を抱く父の顔。


その全部がエルシオンで、ネメシアはそのどれもを知ってしまった。


昼が近づく頃、公務のためネメシアは一度部屋を離れなければならなかった。


扉の前で振り返ると、エルシオンは窓辺でルシェラを抱いている。

光の少ない深都の中で、そこだけが妙にあたたかく見えた。


ルシェラは父の胸元を掴みながら、何かを見上げて小さく声を上げている。

エルシオンはそのたびに、真剣な顔で頷いていた。


「何を話してるの」


ネメシアが聞くと、エルシオンは少し間を置いて答える。


「内緒だ」


「私にも?」


「父と娘の大事な会話だ」


「生意気」


ネメシアはそう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。


ルシェラが生まれてから、この家には明らかに変わったものがある。


朝が待ち遠しくなった。

帰る理由が増えた。

戦場の外に、自分たちだけの時間ができた。


それはあまりにささやかで、だからこそ尊かった。


ネメシアはふと立ち止まり、二人を見つめる。


もし願えるなら。

この時間がずっと続けばいいと思った。


戦のない朝。

泣き声で始まる目覚め。

たわいもない口喧嘩。

窓辺の光を掴もうとする小さな手。


そんなものが、本当は世界でいちばん守るべきものなのではないかと、心のどこかで思ってしまう。


エルシオンもまた、ネメシアの視線に気づいて顔を上げた。


短い沈黙。


その間に、言葉にしなくても互いに同じことを思っているのだと分かる。


この幸せは、あまりにも柔らかい。

壊れやすい。

だからこそ、守りたい。


ネメシアは何も言わず、ただ静かに部屋を出た。

その背に、ルシェラの小さな笑い声が追いかけてくる。


エルシオンはその声を聞きながら、娘の額にそっと口づけた。


「お前が生きられる世界にする」


囁くような約束だった。


ルシェラは意味など分からないだろう。

それでも父の声が心地いいのか、目を細めてまた小さく笑う。


その笑顔は、未来の形のように見えた。


まだ何も知らない、小さな光。

天使と悪魔のあいだに生まれた、壊れそうで、けれど確かにあたたかな光。


その光を囲むこの家は、たしかに幸福だった。


だからこそ――

長くは続かないのだと、まだ誰も知らないまま。

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