『小さな光』
あの谷で交わした「また」という言葉は、一度きりでは終わらなかった。
それから二人は、何度もあの場所で会った。
毎晩ではない。決まった日でもない。戦況が激しくなれば何週間も顔を合わせられないこともあり、天空神殿の監視が厳しくなればエルシオンは谷へ向かうことすらできなかった。
それでも、会える時には会った。
戦場では話せないことを話した。
天使族のこと。悪魔族のこと。互いの国のこと。守れなかった命のこと。そして、いつかこの戦争が終わったあとに残したい世界のこと。
最初は、それだけだった。
けれど季節が巡るほどに、二人が谷へ向かう理由は少しずつ変わっていった。
答えを探すためだけではなくなった。
相手の考えを知りたいからだけでもなくなった。
顔を見たい。
声を聞きたい。
生きていることを、自分の目で確かめたい。
その感情に気づくまで、そう長くはかからなかった。
互いに敵国の者であることは変わらない。エルシオンは天空の国へ戻り続け、ネメシアは悪魔族の王として深都エルグラディアを守り続けた。
それでも二人は、いつしか互いを愛するようになっていた。
世界が許すはずのない関係だった。
だからこそ、その想いを知る者はほとんどいなかった。
そして――さらに時が流れた。
◇ ◇ ◇
その夜、深都エルグラディアの空は、不思議なほど静かだった。
都の上に広がる薄闇には赤紫の雲がゆっくりと流れ、黒曜石の建物に取りつけられた灯炉が穏やかな光を放っている。国境では今も天使族との戦いが続いていたが、この夜だけは遠い剣戟さえ都の最奥には届かなかった。
族長の居館。
黒曜石と赤銅を基調とした重厚な建物の、そのさらに奥。
一室から、苦しげな呼吸が漏れていた。
「……っ、は……!」
寝台の上で、ネメシアが歯を食いしばる。
額には汗が浮かび、紅い髪は頬や首筋へ張りついていた。戦場ではどれほど傷を負っても弱音を吐かない彼女が、今は押し寄せる痛みに耐えるだけで精一杯だった。
傍らには、年老いた産婆と女性の医務官がいる。
そして。
少し離れたところには、一人の白翼の男が立っていた。
エルシオンだった。
本来なら、この場所にいていいはずがない。
天使族族長ヴァルセリオンの息子にして、その後継。
そんな男が悪魔族の都、その王の私室にいるなど、どちらの国に知られても大問題になる。
だから彼がここにいることを知る者は、ごく僅かだった。
ネメシアが心から信頼する者たちだけ。
表向きには今夜も、エルシオンは天空神殿にいることになっている。
それでも彼は来た。
来ないという選択肢など、最初からなかった。
「……そんな顔されると、余計に落ち着かないんだけど」
荒い呼吸の合間に、ネメシアが言う。
エルシオンは我に返った。
「……すまない」
「謝るくらいなら、もう少し普通の顔しなさい」
「無理を言うな」
「戦場ではあんなに偉そうなのに」
「これは戦場じゃないだろう」
「だからって私より緊張してどうするのよ」
苦しそうなのに、ネメシアの口元が僅かに緩む。
エルシオンは何も言い返せなかった。
本当に何をすればいいのか分からないのだ。
敵の数なら数えられる。
剣の軌道なら読める。
光術を撃つべき場所も分かる。
だが今、自分の目の前で苦しんでいる大切な相手に対しては、何一つ役に立たない。
治癒魔法さえ使えない自分が、この場ではひどく無力に思えた。
「族長様、次が来ます」
産婆の言葉に、ネメシアが息を整える。
「……分かったわ」
エルシオンは思わず一歩近づいた。
だが、そこで止まる。
何をすればいい。
その迷いを見抜いたように、ネメシアが睨んだ。
「何よ、その手」
「……手?」
「さっきから出したり引っ込めたりしてるでしょう」
「いや、その……」
「握るなら握る。迷うなら邪魔だから向こう行って」
「分かった」
「そこで素直になるのね」
エルシオンは寝台の傍らへ膝をつき、ネメシアの手を取った。
すぐに強く握り返される。
「っ……!」
「何だ」
「思ったより力強いな」
「誰の子を産んでると思ってるのよ……!」
「すまない」
「だから謝らないで!」
産婆が僅かに笑った気がした。
ネメシアはそれに気づく余裕もないまま、再び強い痛みに耐える。
その手を握りながら、エルシオンは何度も思った。
自分は何をしているのだろう、と。
父に知られれば。
天空神殿に知られれば。
いや、悪魔族の民に知られても。
この子の存在は、祝福されないかもしれない。
天使族と悪魔族。
何百年も殺し合ってきた二つの種族。
その間に生まれる命。
世界がそれを何と呼ぶのか。
想像するだけで恐ろしかった。
けれど。
ネメシアの手を握る力は緩めなかった。
「エルシオン」
「ここにいる」
「……逃げないで」
小さな声だった。
王としての命令ではない。
一人の女性として零れた、不安だった。
エルシオンは迷わず答える。
「逃げるものか」
ネメシアが目を閉じる。
「……ならいい」
それだけだった。
けれどエルシオンには、その一言が何より重かった。
◇ ◇ ◇
長い夜だった。
何度も湯が替えられ、布が絞られ、産婆の指示が飛ぶ。そのたびにネメシアの呼吸は乱れ、握られた手へ強い力が込められた。
どれほど時間が経ったのか。
エルシオンには分からなくなっていた。
そして――。
小さな声がした。
「…………」
最初は、あまりにも弱く。
聞き間違いかと思うほどだった。
だが次の瞬間。
「……ぁ……あぁ……!」
確かな泣き声が、部屋の中へ響いた。
エルシオンの身体が固まる。
ネメシアも、荒い息のまま目を開けた。
「……生まれた?」
産婆が深く息を吐く。
「はい」
その顔に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「お生まれです」
その言葉を聞いて初めて。
エルシオンは自分が息を止めていたことに気づいた。
「……無事なの?」
「ええ。元気な女の子です」
ネメシアの全身から、一気に力が抜ける。
「……よかった」
掠れた声だった。
だが。
赤子を取り上げた産婆の表情が、途中で変わった。
「……これは」
医務官も覗き込み、息を呑む。
エルシオンの胸に緊張が走った。
「どうした」
「いえ……」
産婆は戸惑いながらも、丁寧に赤子を布へ包む。
「お二人で、ご覧になった方がよろしいかと」
ネメシアが上体を起こそうとする。
「無理するな」
「見たいの」
エルシオンはすぐ背へ腕を回し、身体を支えた。
そして二人は。
初めて。
自分たちの子を見た。
「…………」
小さかった。
あまりにも小さい。
柔らかな布に包まれ、まだ赤みの残る頬を震わせながら泣いている。
その頭には。
銀とも白ともつかない、淡い髪が生えていた。
エルシオンの白とも違う。
ネメシアの紅とも違う。
二人のどちらにも似ていないのに、不思議とどちらの面影もある色だった。
部屋にいた誰もが言葉を失った。
天使でもない。
悪魔でもない。
二つの血を受け継いでいることが、一目で分かる姿だった。
エルシオンは、自分の胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。
恐怖ではない。
もっと別の感情だった。
この小さな命が。
あまりにも。
愛おしかった。
「……きれい」
ネメシアが呟いた。
エルシオンが隣を見る。
紅い瞳に、涙が浮かんでいた。
「……きれいな子」
いつもの王の声ではない。
剣を持つ者の声でもない。
ただ。
母親になった一人の女性の声だった。
産婆が恐る恐る赤子を近づける。
ネメシアが指を伸ばした。
小さな手が。
その指を握る。
「…………っ」
ネメシアの目から涙が落ちた。
エルシオンも、その小さな手を見つめる。
「この子が……」
ネメシアの声が途切れる。
エルシオンは静かに答えた。
「ああ」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
「俺たちの子だ」
ネメシアが頷く。
その瞬間。
何百年もの戦争も。
種族の憎しみも。
天使族の秩序も。
悪魔族の誇りも。
ほんの少しだけ遠くなった。
目の前にいるのは。
禁忌でも。
災いでも。
世界を揺るがす存在でもない。
ただ。
二人の子だった。
◇ ◇ ◇
「お名前は?」
産婆が静かに尋ねる。
ネメシアとエルシオンは顔を見合わせた。
まだ決めていなかった。
何度か話題には出た。
だが。
なぜか最後まで決められなかった。
実際に顔を見てから決めよう。
二人とも、いつの間にかそう思っていた。
「……どうする?」
ネメシアが尋ねる。
エルシオンは赤子を見る。
銀白の髪。
小さな翼。
まだ世界の何も知らず。
ただ母の指を握っている命。
あの谷で。
二人は何度も未来について話した。
光か。
闇か。
どちらか一方を選ばなければ生きられない世界ではなく。
ただ一人の存在として、生きられる世界。
その未来が。
今。
目の前にいる。
「……ルシェラ」
エルシオンが呟いた。
ネメシアが顔を上げる。
「ルシェラ?」
「ああ」
もう一度、その名を口にする。
「ルシェラ」
ネメシアも。
小さく繰り返した。
「……いい名前ね」
「気に入ったか」
「ええ」
ネメシアは腕の中へ渡された赤子を見つめる。
「ルシェラ」
その名を呼ぶと。
泣いていた赤子が、ほんの少しだけ静かになった。
「聞こえたのかもしれないな」
「そんなわけないでしょう」
「分からないだろ」
「生まれたばかりよ?」
「でも止まった」
「偶然よ」
「そうか?」
エルシオンが僅かに笑う。
ネメシアも。
疲れ切った顔で、それでも笑った。
幸福だった。
少なくとも。
その瞬間だけは。
◇ ◇ ◇
やがて部屋が静かになる。
ルシェラはネメシアの腕の中で眠り始めていた。
小さな胸が上下している。
それだけのことが。
不思議なほど愛おしい。
エルシオンは、眠る娘へ指先を伸ばす。
だが途中で止めた。
「何してるの?」
「……壊れそうで」
ネメシアが呆れたように笑う。
「触ったくらいで壊れないわよ」
「小さすぎる」
「あなたにも怖いものがあったのね」
「ある」
エルシオンは迷いながら、ルシェラの小さな手へ指を寄せた。
すぐに。
細い指が、彼の指先を握った。
胸の奥に。
今まで感じたことのないものが広がる。
守りたい。
その言葉だけでは。
足りないほどに。
「……ネメシア」
「何?」
「この子を守る」
ネメシアは少しだけ黙った。
「当たり前でしょう」
「ああ」
「私も守るわ」
エルシオンは眠るルシェラを見つめたまま、静かに続ける。
「この子が、生まれたことを否定されない世界にしたい」
ネメシアの表情から、少しだけ笑みが消える。
現実を思い出したのだろう。
この子の存在が知られれば。
天使族は。
悪魔族は。
何をする。
それを二人とも想像できてしまう。
「……簡単じゃないわ」
「分かってる」
「私たちが一緒にいることだって、知られたらどうなるか」
「分かってる」
「それでも?」
エルシオンは。
今度は迷わなかった。
「それでもだ」
ネメシアは彼を見る。
かつて。
自分が教えられた正しさから外れることを恐れていた男。
今もまだ。
天空の国を捨てきれず。
父を嫌いになれず。
何が正しいのかを探し続けている男。
そんなエルシオンが。
今は一つだけ。
迷わず答えている。
ネメシアは腕の中のルシェラへ視線を戻した。
「この子が」
静かに言う。
「天使だからとか、悪魔だからとか、そんなことで生き方を決められない世界にしたい」
「ああ」
「ただ、ルシェラとして生きられる世界に」
エルシオンは頷いた。
「俺たちで作ろう」
ネメシアの赤い瞳が揺れる。
そして。
「ええ」
静かに笑った。
「約束よ」
「ああ」
今まで。
二人はいくつもの曖昧な約束を交わしてきた。
生きていれば。
また会えたら。
またここで。
けれど。
この夜の約束だけは。
何よりも明確だった。
二人で。
この子を守る。
この子が生きられる未来を作る。
それが。
二人が初めて同じ未来へ向けて交わした、本当の約束だった。
深都エルグラディアの最奥。
誰にも知られない部屋で。
天使と悪魔の間に生まれた少女は。
母の腕の中で、静かに眠っている。
自分が何者なのかも。
この世界が自分を何と呼ぶことになるのかも知らずに。
ただ。
ルシェラという名を与えられて。
二人の愛情に包まれながら。
その小さな命は。
確かに。
この世界へ生まれていた。




